吉野朔実「恋愛的瞬間」

私の名作 第6回 [バックナンバー]

吉野朔実「恋愛的瞬間」──クソッタレな自分と世界を信じる勇気をくれる、忘れられない言葉の宝庫

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どのマンガもすごい! ──とはいえ、マンガ好きなら誰しも、心の中に“自分だけの特別な作品”を持っているはず。このコラムでは、人一倍マンガを読んできたであろう人々に、とりわけ思い入れのある、語りたい1作を選んで紹介してもらうことで、読者にまだ知らないかもしれない名作マンガとの出会いを届けている。第6回、ライターの小林聖氏に“特別な作品”を尋ねると、吉野朔実「恋愛的瞬間」だと教えてくれた。

/ 小林聖

鮮やかな言葉に彩られたミステリ仕立ての恋愛オムニバス

物語のなかの言葉が好きだ。物語は言葉にならない何かを描いているものだが、そういうなかに忘れられない、繰り返し噛みしめる言葉が出てきたりする。

吉野朔実はそういう作家だ。

初めて吉野作品を読んだのは2000年、19歳のとき。どちらかというと男所帯のサークルに珍しく少女マンガ好きの先輩がいて、部室にいろんな作品を持ち込んでいた。そのなかに「少年は荒野をめざす」もあった。髪の1本1本まで描こうとしているんじゃないかという繊細な絵は、当時の僕にはいかにもオールド少女マンガという印象でとっつきにくかったけれど、「この頃の吉野さんの絵が一番好きだ」と熱心に話す先輩と仲良くなりたくて手に取ったのを覚えている。そこからはまりこんで、気づけば片っ端から吉野作品を集めるようになっていた。

「少年は荒野をめざす」冒頭の「5歳の野原に少年をひとりおきざりにしてきた」という言葉、「ぼくだけが知っている」の葛木艶子が言い放つ「スタイルのない人生なんてクズよ」というセリフ、「ジュリエットの卵」に出てくる「一人暮らしの淋しさは何もかも自分のためにする事の退屈だと知ったのは雨の日」というモノローグ。好きなものを挙げていけばきりがないほど、吉野作品は鮮やかな言葉に彩られている。

なかでも「恋愛的瞬間」は忘れられない言葉の宝庫だ。恋愛心理学者の森依四月(もりえしがつ)と、治田羽左吉(はるたうさきち)ら大学生たちを中心にしたこの作品は、原則1話完結のオムニバスライクなスタイルで恋愛にまつわるさまざまな問題を解きほぐしていく。90年代半ばの作品だが、当時新たな社会問題として注目され始めたストーカーを筆頭に、ファンとアイドルの関係、リストカッター、DV、恋をしたことがない女性など、時代を先取りしたような題材も多い。心の秘密を解いていく構成は、小気味よいミステリのようでもある。

ミステリライクな物語になっていることもあってか、切れ味のいいセリフも多い。第1話「恋愛的瞬間」の森依の「女性であること 女に生まれたことそのものが君のコンプレックスの正体だ」「だから 責任はとれないよね」「君の意思じゃないんだから」という言葉をはじめ、第8話「恋愛的友情」で語られる「恋愛は」「あらゆる抵抗に打ち勝つ相思相愛の力」「友情は相思相愛でありながら抵抗によって達成出来ない疑似恋愛関係」という定義、第15話「産んでやる死んでやる」の「仮に逃げ通したとしてもそれは」「おまえを『逃げ回る人』にしてしまうよ」というセリフなど、悩む人の頭の霧をスパッと晴らすような言葉がたくさんある。19歳の僕には、すべてのエピソードと言葉が天啓のように響いた。

「恋愛的瞬間」より。1コマ目で「何の話?」と聞いているのが森依、「あ 先生」と応じているのがハルタ (c)吉野朔実/小学館

「恋愛的瞬間」より。1コマ目で「何の話?」と聞いているのが森依、「あ 先生」と応じているのがハルタ (c)吉野朔実/小学館

世界を信じる勇気をくれる物語

「恋愛的瞬間」はタイトルにもあるように恋愛がテーマになっている。だけど、恋愛から遠く離れた年齢になっても、何度も何度も読み返し、反芻している。それは「世界を信じ、受け入れる」という吉野作品全体に流れるテーマが、この作品にも組み込まれているからだ。

たとえば第13話「世界の果てまで」には、嫌悪感と好奇心の狭間で揺れ、セックスができないまま生きてきたことにコンプレックスを抱く女子校の先生に、ハルタが語るシーンがある。

待つことにうんざりしてるんでしょ?
なのに じっとしてるからあり余っちゃうんだ
(中略)
行きたい所はもうひとつもないの?
今のあなたが
それがなりたかった自分?
もし本当にそうなら
そこで待つべきだよ
空手でもしながらね
人は会うべき人にしか会わない
だからいつでも
自分が一番行きたい場所に行くんだよ
そこに恋人はかならずやってくる

こう言われた彼女は、髪をバッサリと切って仕事を辞め、世界の果てまで運命の恋人を探す旅に出る。このエピソードは、実に吉野さんらしいと思っている。

「恋愛的瞬間」より (c)吉野朔実/小学館

「恋愛的瞬間」より (c)吉野朔実/小学館

別のエピソードで「本当に恋をしている者も本物の恋人を持っている者も人が言うほど多くはない」と断じ、それでも結婚も子供を持つこともできると森依に語らせる本作は、ドライな眼差しでできている。欺瞞や甘いまやかしを許してくれない。その一方で、無防備なまでの純粋さで、本物の恋の存在を肯定する。「そこに恋人はかならずやってくる」とまで言い切らせている。

「世界の果てまで」はこんなモノローグで締めくくられる。

──いつか きっと
この世に ただひとり
生涯の恋人に出会うのだ

それは きっと世界の果て

その時こそ 私は
嫌悪することなく
男性の肉体を
受け入れることが できるだろう──

なんとまあ、笑っちゃうくらいピュアな言葉だ。ほとんど狂信的と言ってもいい。だけど、この祈りのような言葉が、クソッタレな自分と世界を信じる勇気をくれる。世界は美しく、生きるに値すると信じさせてくれる。吉野作品における恋とは、そういう力を持った出会いなのだ。

初めて読んでから25年、今日も人生は思うようにいかない。だけど、世界は美しい。自分の欲望と向き合い、世界の果てまで進んでいく勇気を失わなければ、いつか必ず運命の祝福に巡り合う。もしそれを信じられなくなったときは、僕はもう一度「恋愛的瞬間」のページをめくろう。

小林聖

1981年、長野県生まれ。マンガを専門とするフリーライター。その1年で読んだマンガから面白かった作品を自身の独断と偏見で選ぶX上の企画、「俺マン」こと「俺マンガ大賞」の主催。

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読者の反応

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r i o n @ri_on0044

私の世界一好きな作品について書いてもらえてとても嬉しい。吉野朔実氏が亡くなって今年で9年。今もふと思い出して、吉野朔実氏の新作がもう読めないのだという空白に切なくなる。 https://t.co/t8HbOZHw59

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