「東京芸術祭2021」|宮城聰とYORIKOが初対談「舞台芸術を通して、違いや弱さを許容し合える社会を」

9月1日に開幕した「東京芸術祭2021」は、「歴史のまばたき」をテーマに、オンラインとオフラインで多彩なプログラムを展開中だ。フェスティバルとして目指すのは、芸術文化を通して世界とつながること、東京における芸術文化の創造力を高めること、そして社会課題への取り組みを視野に入れた中長期的な活動を継続させること。その思いを形にするべく、今年度から「東京芸術祭」では、上演や配信を行う「東京芸術祭プログラム」と人材育成事業「東京芸術祭ファーム」の2本柱を打ち立て、多様な人々との接点作りを模索している。その1つが、美術家のYORIKOによる「としまおやこ小学校」だ。親子が同級生となって学びの時間を共にする様を、東京芸術祭総合ディレクターの宮城聰は「演劇が持っている一番の破壊力を明瞭な形で発揮している」と言う。YORIKOが「としまおやこ小学校」に込める思いとは? 本特集では宮城とYORIKOがそれぞれの視点から、「東京芸術祭2021」について語る。

取材・文 / 熊井玲

“分断の縫合”のために舞台芸術ができること

──9月1日に「東京芸術祭2021」が開幕しました。その際に発表された宮城さんのメッセージには「立場や価値観が異なる人々のあいだの溝」「人々のブロック化」というワードが織り込まれ(参照:諦めを超えるのは“かすかな共感”ではないか?「東京芸術祭2021」開幕)、ここ数年、宮城さんがおっしゃっている社会の“分断化”への危機感を、引き続き感じる内容でした。改めて今、私たち、そして「東京芸術祭」が置かれている環境について、宮城さんはどんなふうに感じていらっしゃいますか?

宮城聰(撮影:中尾栄治)

宮城聰 「東京芸術祭」の総合ディレクターになって以来、僕がずっと考えているのが“分断の縫合”ということで、「東京芸術祭」というフェスティバルが、そのことにちょっとでも寄与できるんじゃないかと思っています。というのも、フェスティバル、つまりお祭りは古来、そういう機能を果たしてきたはずだからです。人間社会は、例えば富の分配ということ1つとっても、完全に平等ということはこれまで実現していなくて、やはり何らかの不平等があり、それゆえ常に不安定な要因を内包しているものだと思います。そこに対して、どうやったら持続可能な共同体になるか、つまり不安定を克服して何とか持ちこたえられるかという点について人々は知恵を蓄積してきたわけですが、お祭りはその典型ではないかなと。富の分配で完全に平等になれなくても、お祭りで幸福感を得ることは平等で、お祭りによって幸福の再分配が行われていた。でもここ数年、グローバリズムの急激な膨張によって富の偏在が極端に大きくなり、そのことによる人々の不遇感というか、「自分たちは損をしている」という感覚が世界中で顕在化してしまった。そして自分たちよりさらに弱い人たちや“叩いてもいい人たち”をいじめたくなる、という人間の弱さが露呈してきたわけです。そういった状況の中で、いよいよフェスティバルやお祭りが持っていた機能を、もう一度取り戻さないといけないんじゃないかと。現代の芸術が持っている力を使って、“現代のお祭り”ができないかということが「東京芸術祭」の夢というか、願いです。

また、そういった分断に対する危機感を持っている人は社会の中にほかにもいらっしゃって、例えば「東京2020」の中でがんばっていた人たちの中にも、「分断の縫合に自分たちが何かしら役に立てるんじゃないか、何かしなくちゃいけないんじゃないか」という思いで関わっていた人は多いと思います。もちろん、スポーツの感動も分断の縫合に寄与します。でもそれだけだと、より溝を深めてしまうリスクも同時に抱え込んでいるように、僕は感じるんですね。スポーツの感動によって人々が一体感を得ることは確かなんだけど、感動して一体感を感じているとき、感動していない人もいるってことを人は忘れがちで、さらに「感動しなかった」という人に会うと、なんだか不愉快に感じたりしてさらに溝を広げてしまう可能性がある。ではその溝をどうしたら埋められるかと言うと、僕は舞台芸術が補えるのではないかと思うんです。舞台芸術は目の前にある肉体をジロジロ見るものですよね。でも他人の身体には、匂いをはじめ、何かしら違和感を感じるところがあって、ということは自分の身体が他人に違和感を持たれているということでもあって、それで「違和感を消さなきゃ!」って思うと縮こまってしまうけれど、その違和感を楽しむのが舞台芸術なわけです。そこに救いがあるんじゃないかなって。つまり、スポーツの感動は、人と自分がどれだけ違うかを忘れて感じる一体感なんだけど、舞台芸術の場合は人と自分がどれだけ違うかをまず感じ、そこに興味関心を持つことで生まれる感動で、先に申し上げた“感動の溝”を補うために、我々は我々でがんばらないといけないと思うんですよね。

他者との違いを発見する「おやこ小学校」

──YORIKOさんは2016年に最初の「おやこ小学校」を始められ、2020年に株式会社ニューモアを設立されました。ニューモアは“世代や属性を超えた「協働」を実現させ、にぎわいと喜びあふれる場を生み出す”ことをモットーに掲げている企業ですが、今の宮城さんのお話や、近年のSDGsに対する世間の関心の高まりを考えると、YORIKOさんの活動と社会の動きは密接につながっているように感じます。YORIKOさんはどのような思いで活動されてきたのでしょうか。

2020年の「としまおやこ小学校」より。

YORIKO 私はもともとグラフィックデザインからスタートしまして、今はデザインと地域のアートプロジェクトの合体のような活動を行っています。昨年に続き「おやこ小学校」を「東京芸術祭」の舞台芸術プログラムの中に入れていただきましたが、宮城さんのように全体を見ていらっしゃる方は、「おやこ小学校」をどういう位置付けて考えてくださっているんだろうと気になっていました。

そもそも「おやこ小学校」は、5年ほど前に香川県で始まった小さなアートプロジェクトです。形としては小学生とその親御さんの2人1組で参加してもらい、全部で8組くらいの親子が一緒に授業をするんですね。最初はハードルを下げて、みんなでお店やさんごっこのようなことをしつつ、徐々にハードルを上げていって、親子で会議をしたり、親御さんにご家庭のエピソードを話してもらったり、最後はお互いの思いをさらけ出して、表彰状を贈り合うという内容で進めていきます。その一連を経て、普段とは違う親子の一面が見えたり、また親同士、子同士の発見ができればと思っています。

「おやこ小学校」では、今宮城さんがおっしゃったように、他者と自分との考え方の違いとか、自分の家の「普通」とよその家の「普通」は違うんだとか、そういう発見をしてほしいというねらいもあります。もちろん、参加してくださる親子の数は世の中全体で見ればほんの一握りです。それでも本当にさまざまで、毎回ドラマティックな授業が展開されています。

──グラフィックの世界から人と直に関わる活動へと、YORIKOさんが向き合う対象をシフトさせたのには、何かきっかけがあるのですか?

YORIKO 個人的な昔話ですが、以前は一人前のデザイナーになりたい、くらいの考えしかなかったんですけど、イギリスに留学する直前に東日本大震災が起きて。私は東京に住んでいたので震災の被害は100%自分ごとには感じることができず、そのまま現地の状況を知らずに留学に行くのではなく、自分の目で見たいと思って、石巻にボランティアで入ったんです。そのときの体験が強烈で。人と人が目の前の問題をどうにかしようと助け合っている姿に、「日本人ってすごい」と衝撃を受けました。そこから、人と人で何かやるということに興味が湧いて、留学先も割と何をやっても大丈夫なコースだったこともあり、通行人と一緒に演奏してみたり、とにかく人と何かを一緒にやる活動を続けていきました。その後、留学が終わって帰国し、個人でデザインの小さな仕事をしつつ、地域の芸術祭に応募するというような形で現在の活動が始まりました。

“役を変える”というポテンシャル

──「東京芸術祭」はもともと、「フェスティバル / トーキョー」や「芸劇オータムセレクション」「APAF」など複数の事業の集合体でしたが、今年から各事業の枠組みが外れ、上演と人材育成を大きな柱に、1つの大きなフェスティバルとなりました。YORIKOさんの「としまおやこ小学校」は、上演と人材育成の両方に足を踏み入れている企画かと思いますが、宮城さんは「としまおやこ小学校」のどんなところに期待されていますか?

宮城 舞台芸術が内包しているポテンシャルと言いますか、作品を作るためにアーティストたちが積み上げてきた方法を、作品の発表という形以外で、もっと世の中に生かすことはできないのかなと、考えているんです。作品は作品で、それ自体が何らかの形で世の中に役立っていると信じて作ってはいますが、作品自体に触れられる人の数は、劇場の収容人数や集まれる人の数という制約から考えるとそれほど多くはない。だから作品の上演だけでは出会えない人たちがたくさんいて、そういう方たちにアプローチせずに手をこまねいているだけでは、分断の縫合ということにはつながらないのではないかと思うんです。と言うのも、芸術を愛している人に対してそうじゃない人は、「あの人たち、劇場に行ったりするんだ。私たちとは違ってよっぽど余裕があるんだね。ぜいたくだね」という形で、すでに溝を感じているわけです。そのままではフェスティバルとして立てた“分断の縫合”という目標が達成できない。そこで、演劇や舞台芸術が持っている一番インパクトのあるポテンシャル、機能は何だろうと考えたところ、それは“役を変えられる”ってことじゃないかと思ったんです。「ある役をやる」ってことは、言い換えれば「役は変えられる」という前提があるってことですけれど、そこが舞台芸術の一番大きな機能、パワーの源泉じゃないかと。

僕らは社会生活を送っていくうえで、何かしらの役を引き受けて世の中を生きていますよね。学校の先生であれば、“先生ならこういう言動をしなくてはいけない”という言動をするし、それぞれの生徒も、クラスの中で役、いわゆるキャラクター、を演じています。“〇〇デビュー”なんて言い方もありますけど、あれも何らかの役を引き受けてその場にデビューしているわけですよね。人間は集団でしか生きられないので、集団の中で何かしらの役を引き受けて生きているんです。逆にその役がなかなか見つけられない人は、生きづらさを感じてしまうのかもしれませんけど。一方で、一度役を引き受けてしまうとその役から逃れられなくなってしまって、例えば子供が産まれてお父さん役に決まっちゃうと、一生父親という役から降りられないって思い込むっていうのかな。そういう“ねばならない”から逃れられなくなっていくんです。その点、YORIKOさんの「としまおやこ小学校」が面白いのは、親も子も生徒になるってことなんですよ。役が外れているというか、実生活とは別の役をやっているわけですよね。それで、「あ、役が変わっても良いんだ」って思えるというか。演劇が持っている一番の破壊力を(笑)、「おやこ小学校」はすごく明瞭な形で発揮している枠組みという感じがします。

YORIKO なるほど! そんなふうに見ていただけてうれしいです。私が「おやこ小学校」で一番面白いと思っているのは「おやこ会議」でのやり取りなんですね。「おやこ会議」ではそれぞれのご家庭のルールを議会方式で話し合ってもらうんですけど、例えば“片付けをしないとおやつを食べちゃいけない”とか、“食べ物の好き嫌いをしちゃいけない”っていうルールを親御さんが提案すると、それに対してお子さんが「お母さんたちも子供のときにちゃんと片付けをしていたの?」とか「ピーマンを食べていたの?」と質問し、そのルールを良しとするかどうか、決めていくんです。でもそうやって改めてお子さんに聞かれると、親御さんたちもやっぱり「子供のときは片付けられなかったし、ピーマンは食べられなかった」と告白して(笑)。親御さんは親御さんで、子供の前ではいつでもきちっとしてなければいけないという思いがあると思うんですけど、「おやこ会議」では、昔はみんな子供だったという当たり前のことが見えてくるし、それぞれの親子さんにそれは、新鮮な体験のようです。やっぱり普段の生活の役割では見えないことが、お互いにたくさんあるんだなと。なので、今の宮城さんのお話を伺って、「役のチェンジか、なるほど!」ととてもうれしい気持ちになりました。