「東京芸術祭2021」|宮城聰とYORIKOが初対談「舞台芸術を通して、違いや弱さを許容し合える社会を」

「人は間違う」ということを演劇は思い出させてくれる

──香川県でスタートした「おやこ小学校」は、2019年には東アジア文化都市2019豊島・舞台芸術部門 / アトカル・マジカル学園事業「おやこ小学校」、「東京芸術祭2020」では「としまおやこ小学校」として取り組みを重ねてきました。参加者に変化はありますか?

宮城聰(撮影:平尾正志)

YORIKO 特に募集対象に制約は設けていませんが、昨年は豊島区在住の、近隣の方が8割くらいでしたね。一昨年は新潟から参加してくださった親子さんもいました。香川との違いは……地域柄というのかな、香川のときは全体的にのほほんとしてたんですけど、東京では一見するとお父さんお母さんがシャキッとしていて、「ビジネスマン、ビジネスウーマン!」って感じで(笑)、お子さんも同じくシャキッとした感じの子が多かった印象です。また、これは主観になってしまいますが、豊島でやらせてもらったときのほうが、いろいろと悩みを抱えている親御さんが多かった印象があります。もちろん、どのご家庭にも課題はあると思いますが、昨年少しやりとりさせていただいた親御さんは、最後に書いてもらった感想シートに、「子育てに迷っていて、子供との関係性を見つめ直したいと思って参加しました」と書いてくださった方もいて、それがとても記憶に残っています。

宮城 香川に比べて東京の親子のほうがシャキッとしているというのは、イメージとして「何となくそうだろうな」とは思うんですけど(笑)、じゃあどうしてなんだろうと考えると、やっぱり都会のほうが弱さを隠している、言い換えればいつも正しくなくちゃいけないという縛りが強いからだと思うんですね。間違うということが弱さで、弱さを見せたら間違いになるとか、間違っている姿は見せちゃいけないという思いが、都会の人には強いんだろうなと。でも人は必ず間違う存在ですよね。にもかかわらず、間違ってはいけないというオブセッションがあって……その中で生きていくのはものすごく息が詰まります。またちょっと間違っている人を見つけると、みんなで責めたり笑ったり叩いたりってことがSNS上では頻繁に起こっていて。それは同時に、自分は間違いたくないという恐怖心も増大させる。そういう状況は、生きていくうえでとても窮屈ですよね。

演劇は、“人は間違う”ということをいろいろな形で見せてくれます。よく思うんですけど、偉大な演劇作品の主人公はみんな間違ったからこそ主人公になれたわけで(笑)、じゃないとこれほど注目を集めないでしょうし、“間違って取り返しがつかない失敗を犯しても、償えばそのあとも生きていける。取り返しのつかない失敗とさえも向き合えるんだ”という作品が、演劇にはいくつもあります。そういった作品を観ることが何らかの救いになって、「人はこんなふうにして生き延びることができるんだ。何もかも失った人でさえ、何がしかの光を見つけることができるんだ」と感じられることが、演劇の1つの効能ではないでしょうか。ということをもっと日常的なレベルに移して考えたとき、人はみんな弱さを持っていて、その弱さを少し人に見せたほうがむしろその場が豊かになることもあるし、弱さを全部隠さなくてもいいという社会のほうが生きやすいんじゃないか、と思ったりします。

──「おやこ小学校」では、子供の前で親が“親は何でも知っているわけではないし、必ずしも正しい答えを出すわけではない”という姿を見せます。それは親にとっても大事なことかもしれませんね。

YORIKO そう思います。

オンラインからオフラインまで、観劇のアクセシビリティを広げるラインナップ

──今年の「東京芸術祭」では、他者の身体を感じるということが1つ重要なポイントに置かれています。しかし現在の状況下では、なかなか他者の身体を身近に感じることは困難です。お二人は観客の方に対して、今年の「東京芸術祭」にどのように参加してほしいと思いますか?

宮城 YORIKOさんはどうですか、その点について。

YORIKO 難しいですね……昨年、一度オンライン授業の形も考えたんですけど、「おやこ小学校」をオンラインで実施するのはやっぱり無理だなと、昨年は結論を出したんですね。それで、密に接するのは親子間だけで、ほかの親子さんとは距離を取りながら、という形にしました。ただ接触はしなくても、他人と関わり合うことが「おやこ小学校」ではやっぱり不可欠なんです。今年は昨年よりある意味シビアな環境だとも考えているので、実際にどうプログラムを展開していくかは、これからさらに考えていくつもりです。

2020年の「としまおやこ小学校」より。

宮城 さっきも申し上げましたが、僕は他人の弱さを許容する……「あの人にはこういうところがあるけど、僕にもこういうところがある」とお互いを許容し合うには、オフライン、リアルじゃないとだめだなと思います。というのもオンラインで届く情報は、文字にしろ画像・動画にしろ、あくまでデータなので、データはやっぱり正しいか正しくないかだし、“正しくないこと”をオンラインで受け入れることは難しいと思います。しかもオンラインでは、「自分はこれを発している」「自分はこれを受け止めている」というように、発信者と受信者が意識できている部分のやり取りしかなくて、それ以外の情報は全部切り捨てられてしまう。だから実はものすごく少ないやり取りになっていると思うんです。でも生身の人間が発している情報はものすごい量で、情報という単語には当てはまらないような、パワーとかウェーブとか、そういったすごくいろいろなものを人間は身体から出している。周りはそれを、自分のたくさんのセンサーで一応受け止めてはいるんだけど、あまりに膨大な情報量なので、脳みそはその一部しか処理できていないし、普段は他人のパワーを感じすぎないように、センサーを閉じて生活しているわけです。

その点で劇場が面白いのは、舞台では生身の人間がたくさんのウェーブやエネルギーを発しているんだけど、お客さんの中には、自分のセンサーを全開にしてそれを受け止める人もいれば、かなり限定されたスリットのような隙間で(笑)受け止めている人もいて、そのどちらもありってことだと思うんです。さらに「オフラインだと情報が多すぎちゃうから、オンラインくらいの情報量がちょうど良い」という人には、まずオンラインで舞台芸術に参加してもらって、そこから徐々に慣れてきたら今度は劇場に来てもらい、いつか周りのお客さんと一緒に笑って……という感じで、徐々にセンサーの扉を開いていってもらえれば良いんじゃないかと。舞台芸術に接するいろいろな段階が増えたという点で、オンライン演劇のような入り口があるのは、1つのアクセシビリティとして有効だなと思いますし、この1年あまりでその間口が広がってきたことは良いことだと思っています。

──という意味で、オンライン作品から劇場公演まで幅広い形態の作品が並ぶ「東京芸術祭2021」は、ある意味理想的なラインナップと言えますね。

宮城 ええ。今後、生身の人間がそこにいることといないことの決定的な差はどこかということを、観る側もやる側もさらに自覚するようになると思います。コロナ禍以前は、舞台芸術をやっている人間だったら大抵、自分も生の舞台に救われたという経験から「生じゃなきゃダメだ!」と言っていたかもしれませんが、コロナ禍によって“本当に生じゃなきゃいけない部分はどこなのか?”をよく考え、気付きがあったことは、ステップとして意味があったと思います。

YORIKO 今後オンラインがスタンダードになったら、生で観ることがお客さんにとってものすごい体験になりそうですね!

宮城 無防備で劇場に入って「ワー!」みたいな(笑)。確かにそういうことが起きるかもしれませんね。

宮城聰(ミヤギサトシ)
1959年、東京都生まれ。演出家。SPAC-静岡県舞台芸術センター芸術総監督。東京大学で小田島雄志、渡邊守章、日高八郎各師から演劇論を学び、1990年にク・ナウカを旗揚げ。国際的な公演活動を展開し、同時代的テキスト解釈とアジア演劇の身体技法や様式性を融合させた演出で国内外から評価を得る。2007年4月、SPAC芸術総監督に就任。自作の上演と並行して世界各地から現代社会を切り取った作品を次々と招聘し、“世界を見る窓”としての劇場作りに力を注いでいる。2014年7月にアビニョン演劇祭から招聘された「マハーバーラタ」の成功を受け、2017年に「アンティゴネ」を同演劇祭のオープニング作品として法王庁中庭で上演した。なお「アンティゴネ」は2019年9・10月に「Japan 2019」の公式企画としてニューヨークのパーク・アべニュー・アーモリーで上演され1万人以上を動員した。2006年から2017年までAPAF(アジア舞台芸術祭)のプロデューサー、2018年より東京芸術祭総合ディレクターを務める。平成29年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2019年フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。
YORIKO(ヨリコ)
1987年、埼玉県生まれ。桑沢デザイン研究所卒業後、ロンドン芸術大学 セントラルセントマーチンズを首席で卒業。2015年よりフリーランスのデザイナー・美術作家として活動を始め、2020年に株式会社ニューモアを立ち上げる。これまでに大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ、中之条ビエンナーレなどに参加。2016年に高松アーティスト・イン・レジデンスで行った高松私立おやこ小学校を機に、「おやこ小学校」が活動の柱の1つとなる。そのほか、自社事業として障害福祉×デザインのチーム「想造楽工」の企画運営を行っている。