トニー・クシュナーの代表作「エンジェルス・イン・アメリカ」が、4月から5月にかけて新国立劇場 小劇場にて、上村聡史の演出で上演される。「エンジェルス・イン・アメリカ」は、1980年代の共和党政権とエイズ問題に翻弄されるアメリカ・ニューヨークを舞台にした物語で、第1部「ミレニアム迫る」と第2部「ペレストロイカ」を合わせて上演時間約8時間という超大作だ。
二十代で本作を知って以来、「いつか演出してみたかった」と話す上村は、“越境”“変化”“再生”をキーワードに、2023年の日本で「エンジェルス・イン・アメリカ」を上演する思いを語った。
取材・文 / 熊井玲撮影 / 藤記美帆
本作の核心部分が、ようやく日本にも合致するのでは
──「エンジェルス・イン・アメリカ」は、現代アメリカを代表する劇作家の1人、トニー・クシュナーの代表作です。1991年に初演され、トニー賞演劇作品賞、ピュリツァー賞戯曲部門を受賞。その後、テレビドラマ版やオペラ版などさまざまな形で上演されていますが、上村さんが初めて本作に触れたのは、どんな形だったのでしょうか?
二十代で文学座附属演劇研究所に入所し、世界の名作戯曲を学ぶ授業で「エンジェルス・イン・アメリカ」を知りました。2001年頃なので、当時はまだ新しい作品という印象でしたが、興味が湧いたので、出版されていた吉田美枝さん翻訳の第1部を読んだんです。そのときは、1980年代ニューヨークのゲイコミュニティを、ポップというかライトな質感に描いている、テレビドラマ的だなと。一方で、第1部は女優が演じるラビの語りから始まるところなど、演劇的な遊びが要所要所で入ってくる不思議な感触がある。ただ翻訳された戯曲は第1部しか出版されていないので、このあとどうなっていくんだろうなと思っていました。それから4・5年経って、ロバート・アラン・アッカーマンさんが演出したtpt版やテレビドラマ版を観て、作品の全貌を知った、という感じです。
──その頃から、ご自身で演出したいと思っていたのですか?
そうですね。加えて演出の経験を重ねれば重ねるほど、やりたい作品になっていきました。差別や死を実直に見つめ、リアルとファンタジーが混在している、なかなか見ないタイプの作品だと思うんです。もちろん(ベルトルト・)ブレヒトのような批評性と遊びの効いた作品は、戦中・戦後すぐの時期にはありますが、もう少し、現代に近い、今の自分たちの肌感覚に近い。なので、いつか演出できたら良いなと。
でも同時に、この作品を日本で上演することは難しいかなとも思っていました。1980年代のゲイコミュニティや共和党体制を批判する質感、上演時間約8時間の翻訳劇を、お客さんにどう説明し、楽しんでもらうか。何らかのタイミングが合わない限り、上演には踏み切れないんじゃないかなと思っていたので、「いつかタイミングが来たら……」くらいの気持ちでした。
──設定がはっきりしているだけに、初演から約30年という時間をどう捉えるかも難しそうです。古典と呼ぶには早すぎるし、新作というには時間が経っていますし。
やっぱり初めはそこが大きな壁だと思っていて。本作を演出するには、ある意味1980年代の東西冷戦構造を踏まえて、大国アメリカの光と影を批評できるような立ち位置で取り組む必要がある。その点でも、上演のタイミングが難しいと思っていたんです。ただ2020年に(新国立劇場 演劇芸術監督の)小川(絵梨子)さんと上演作品についてお話しした際、まずは「大作をやりたい」という思いがあって、その候補の中に「エンジェルス・イン・アメリカ」も入っていたのですが、小川さんと「『エンジェルス・イン・アメリカ』をやるとしたら今なんじゃないか」という話になって。というのも、当時はパンデミックが始まった頃で、病気や死とどう向き合うのかとか、どうやって他者と新たな関係性を築いていくのか、ということを考えるようになっていました。また感染症という自分たちの生命に関わる問題に対して、国がどう保障するか、政治とはどうあるべきかという実際的な問題も。そういった時期に、1980年代の冷戦構造やエイズ問題をすべてスライドできるわけではないけれども、クシュナーがこの作品で描こうとした生きるために、どう闘い、変化できるのかといった、生命の普遍性と永遠性みたいなものが、ようやく今の日本にも合致するのではないか、今上演すればこの作品が持つ力が、日本のお客さんの道標となるのではないかと思いました。ただ2020年に演目を決めて、そのあと、まさか世界がこのような状況になるとは思ってもいませんでした。現在のウクライナとロシアを巡る問題、つまり旧共産主義体制の価値観については、無きものになったわけでなく、増幅していること、人種と共産主義への考察は「エンジェルス・イン・アメリカ」でも随所に書かれています。
また、アメリカの“多数派が絶対”という共和党政権下では、1980年代のエイズに対して保障対策することなく進んできましたが、この30年でゲイと国家の関わり方も変化してきました。一方、日本はとても遅れていて、G7の中では同性婚を認めていない、相当珍しい国です。そういう点でも、30年経ったからこそ見えてくる部分があるのではないかと思っています。
8人の俳優たちが、さまざまな境を“渡る”
──今回改めて台本を読んで、確かに現在の社会状況と重なる部分を感じました。3年強のコロナ禍を経験し、戦争を身近に感じるようになった今だからこそ、痛感する部分があるなと。その一方で、リアルな設定の中に“天使”やエスキモー、先祖や、IOTA(国際旅行業者組合)といった架空の人物などが現れ、フィクションと現実が入り混じるところも、本作の大きな魅力です。
そうですね。昨年7月にキャストの皆さんに集まってもらい、新訳の台本を声に出して読んでみました。そのとき、本作の“境界線を越えていく感じ”をどう遊んでいくかがポイントだなと思いました。例えば第1部の冒頭に出てくるユダヤ教のラビは、作家の指定で「ハンナ役の女優が演じる」ことになっているんですね。なんでそんな指定をするんだろう?と思ったんですけど、改めてラビのセリフを見てみると、ラビはユダヤ人のおばあさんの遺体を前に、彼女が「モヒカン族の最後の一人」だと、不思議なことを言います。その前には「この人は海を渡ってアメリカに来た」とも語っている。つまり、あちらからこちらへ、こちらからあちらへ、男から女へ、女から男へ、現実から想像へ、想像から現実へ……と、境を“渡る”ことが作品全体の世界観のポイントになっていて、今回はそのポイントと批評的な硬質さを織りまぜながら立ち上げたいと思っています。
──例えば“天使”も、絶対的な聖なる存在というよりも妙に人間っぽいところがありますよね。
演じる水(夏希)さんも「天使は天使だけど、たまに抜けたことを言う」とおっしゃっていました(笑)。そのように、男女はこうあるべきとか、天使はこうあるべきといった既成概念の枠を外していくことが大事なのかなと思います。僕がこの作品で好きなところは、人間は夫婦やパートナー、愛情や友情といった言葉で定義されるものだけで結ばれているわけではなくて、その人たちそれぞれの共通理解で形作られた関係性や共同体があるということを描いている点です。なので、リアリズムとアンリアリズムのバランスを考慮しつつも、お客さんの中にある無意識の固定観念をいかに外していくかを考えていますし、固定観念を崩すことで変化の可能性が生まれて来ればと良いなと思っています。
──今回はフルオーディション企画の第5弾になります。上村さんにとっては2021年に上演された「斬られの仙太」(参照:「斬られの仙太」開幕に伊達暁「力を尽くして幕末の水戸を駆け抜けたい」)に続く2回目のフルオーディション企画となりますが、オーディションにあたって前回の経験が生かされた部分はありましたか? また今回のキャストを決めるにあたって意識したことはありますか?
前回も今回もですが、「オーディション企画だから、この戯曲」という考え方はしておらず、どちらも「この作品を今上演したい!」という思いから出発しています。ですので、戯曲の世界観に合わせ、オーディションの進行も変わるのですが、実際に演出してみると、キャストの熱量をどう演出に組み込めるかが、ポイントだなと思います。もちろんそれはどんな作品でも同じなんですけど、どちらかというと普段は、俳優のキャラクターと役のキャラクターのどこを掛け算したら面白いかということを考えて演出しています。例えばダラダラしている役をキビキビした性格の俳優が演じるとき、ダラダラしている所作をしてもらいつつも、あまりそこにはこだわりすぎず、キビキビしている人の脱力した瞬間を見つけ出し、その質感を表現へとつなげていきます。オーディション企画の場合は、さらに「この役がやりたい!」と手を挙げてくれた熱量が、ダイレクトに役に反映されるんだなと感じました。本作は特に、登場人物それぞれに「どう生きたいか」という意識が役の根っこにあるので、そういった登場人物の思いとキャストそれぞれの熱量を結びつけたいなと思っています。
“何回も再生できる”をキーワードに
──非常にシーン数が多い作品ですが、舞台美術を手がける乘峯雅寛さんとはどのようなお話をされているのでしょうか?
僕は毎回、演出ノートというものを作っていて……(とバックからファイルを取り出して)、今回はシーンがとても多いのですが、そこにこだわりすぎないほうが物語が展開しやすいんじゃないか、という話を美術家としています。それでぼんやりと、機能しなくなった劇場とか、忘れられてしまった劇場に登場人物たちが存在しているイメージが湧いてきました。(たくさんのサンプル画像が貼られたノートを指差しながら)これはチェルノブイリの使われなくなった劇場、これは使われなくなった原子力発電所ですね。1980年代のニューヨークを写実化するのではなく、「何回も再生できる」ということ、登場人物たちはそのような空間からメッセージを伝えることに重きを置いています。
また心臓から送り出される血液と、資本主義社会の消費のエネルギーというイメージ、さらに人が生きることで地球全体を汚していくというイメージや汚れた血のイメージ……と、いろいろな要素は考えられるのですが、そこからいかに余剰なものを削いだ形にできるかも大事かなと。
「エンジェルス・イン・アメリカ」は、「ナショナル・シアター・ライブ」で上映されたマリアン・エリオット演出版をはじめ、さまざまなプロダクションで上演されています。僕は新国立劇場 小劇場での演出は今回が4回目になりますが、あのコンパクトな空間で俳優たちの演技の醍醐味を軸に作品を作っていけば、ものすごく良い空間が立ち上がるんじゃないかと思っています。
──また今回、小田島創志さんが新訳を手がけています。1991年生まれの小田島さんにとって、劇中で描かれる作品世界やエピソードは、肌感覚ではわからない部分も多いと思いますが、新訳の台本をご覧になって、改めて感じたことはありますか?
創志さんとお仕事するのは今回が初めてです。今回、なぜお願いしたかというと、創志さんの翻訳はテンポが良くて、かつ論理的な会話もすっと入ってくる。硬質さと小気味良さが同居しているところが良いなと思いました。またこの作品が持っている疾走感とか、青春や変革といった要素を一番ダイレクトに感じている年代の人に翻訳してもらいたいなとも思って。それで、創志さんから台本が上がってきて「ああ、狙い通りだな」と思いました。
──本作では、国際問題やエイズなど、自分の力だけでは乗り越えられないような問題に直面したときに、人がそれぞれどうやってその問題に向き合い、壁を乗り越えていくかが描かれます。ある人は宗教、ある人は科学、ある人は家族や友人の愛情、またある人は自分自身など、支えとするものは人それぞれだと思いますが、上村さんご自身は、困難にぶつかったときにどのように思考転換していきますか?
転換は……しません(笑)。思考の壁にぶつかったら、それにのまれていきます。
──いやいや、そんなことはないと思います(笑)。
まあ、うちには2年前から飼ってる猫がいまして……ということはありますが(笑)、例えば今回、第2部のラストシーンをどう見せるかということは演出のキモだと思っています。つまり、今の世界では多くの壁による理不尽が顕在化しています。その中で、ポジティブなワードが並ぶ最終シーンは、デリケートな演出が必要になるだろうなとは思っていますね。ただ創作現場に限って言えば、苦しいことがあったときは、自分のうちにこもって考えるのではなく、一緒に作っている人たちや周囲に甘えます。どうしたらそこから抜け出せるのか、糸口がどうすれば見つかるかを周りの人たちを頼り、巻き込むというか一緒に考えていきます。自分がすごく大変だと思っていても、実は周りのほうが大変だったり、すると自分だけがこんなに苦しいわけじゃないんだとか、逆に自分がもっとしっかりしなきゃと思うんですね。だから壁を登るときにどう糸口を見つけていくかというと、僕の場合は自分以外から見つけていくのかなと思います。
プロフィール
上村聡史(カミムラサトシ)
1979年、東京都生まれ。2001年に文学座附属演劇研究所に入所。2009年より1年間、文化庁新進芸術家海外研修制度においてイギリス・ドイツに留学。2018年に同劇団を退座し、現在はフリーで活動。近年の演出作に「ガラスの動物園」「野鴨-Vildanden-」「A・NUMBER」「4000マイルズ~旅立ちの時~」など。第56回紀伊國屋演劇賞、第22、29回読売演劇大賞最優秀演出家賞ほか受賞歴多数。