上村聡史が演出を手がける「エンジェルス・イン・アメリカ」が、4月18日より新国立劇場 小劇場にて上演中だ。本作は1980年代の共和党政権とエイズ問題に翻弄されるアメリカ・ニューヨークを舞台にしたトニー・クシュナーの代表作で、第一部「ミレニアム迫る」と第二部「ペレストロイカ」を合わせて上演時間約7時間30分という超大作だ。
本作の東京公演をいち早く目撃したヴィヴィアン佐藤は、作品からどのようなことを感じ取ったのか。美術家、非建築家、映画批評家、プロモーター、ドラァグクイーンと多彩な肩書きを持ち、ジャンルを超えた多様な活動を繰り広げるヴィヴィアン佐藤自身の言葉で、作品を語ってもらった。
文 / ヴィヴィアン佐藤
天使の出現
「天使の出現」という言葉を聞くと、思想家・W.ベンヤミンのクレーの絵画から着想を得た「歴史の概念について」の一節が真っ先に思い浮かぶ。
またはW.ベンダース監督の「ベルリン・天使の詩」。ブルーノ・ガンツ演じるダミエルだろうか。
現代美術ではドイツ現代美術家・A.キーファーの作品には、書物に大きな羽が生えた鉛製の彫刻作品「Uraeus」があった。それはまるで知の天使。(第二部「ペレストロイカ」に出現する天使がプライヤーに差し出す本!)その元にルネサンスの画家A.デューラーの銅版画「メランコリアⅠ」がある。砂時計や天秤、幾何学体、床には寝ている犬、飛んでいる蝙蝠などが描かれ天使が頬杖をつきながら憂鬱に宙を眺めている作品だ。とても寓意性に富んでいて、美術史上最も謎めいた作品のひとつと言われている。
天使を扱った絵画や映画は数多存在するが、近代がテーマであったり、メランコリックで憂鬱、暗澹たる世界観を連想させるものは上記の作品群だ。どれも物静かで内省的かつ何かの欠損や痕跡があり、鬱状態の人類を、人智を超えた者が傍から覗き見るような印象を持つ。
昨今のスイーツ菓子の外装に描かれていたりする可愛らしいキューピットのイラストなどのイメージとは程遠い。
ベンヤミンの歴史の天使は、瓦礫の上に瓦礫を重ねる「破局」だけをそこに見る。楽園の方から強風が吹き荒れ、未来を眺めている天使は翼を閉じることさえ出来ずにただに流されていく。その強風こそが我々が「進歩」と呼んでいるものだ、という。
人類は「進歩」せざるを得ないという強迫観念と共に何世紀も生きてきた。
この「ミレニアム迫る」と「ペレストロイカ」の2部構成の「エンジェルス・イン・アメリカ」も、また「変化」せざるを得ない世界の大きな流れと各個人の小さな私生活の次元を同時代に起きている現象として見事に描いている。
止めようもない人類の科学技術の「進歩」や、古の社会や習慣と訣別し「変化」を余儀なくされる人々。どちらも大きな潮流に飲まれ抗うことができない世界を描いている。そこには自然災害や地球環境という類のものではなく、完全に人智によって人間が引き起こしてきた社会活動にも関わらず、それが圧倒的な力を持つ何者かに変化してしまい、もはや人間の力ではどうすることもできない制御不能になってしまった世界の状態とそれでも人間が生きていかざるを得ない姿勢が映し出される。人間がより良い世界を望んで作り出したはずの科学技術や社会、政治、経済にも関わらず、それらが一人でに暴走をはじめ、人間はその怪物に翻弄されるのだ。
限りなく人間の形をしてはいるものの、ほとんどの人間には見えない、しかし幻視者には見える介在者・天使が現れ、そこに何かしらの救済をもたらしたり、予言を与えてくれる、そんな出現の必要性を人類は切望してしまう。
「天使の出現」とは、そのような人智が引き起こした大きな潮流が世界に生まれ、最終的に人間が舵を切ることが出来なくなった状態に現れる必要な救済の状態・SOSの信号そのものなのかもしれない。
個体を超え、我々の身体に宿る先祖の記憶
第一部「ミレニアム迫る」の冒頭では、ユダヤ教のラビ(聖職者)がブロンクスのヘブライ老人ホームで1人で亡くなったばかりのサラ・アイアンソンについて語り出す。
生前彼女のことは直接知らなかったラビは、彼女の今終わったばかりの人生は彼女の個人的な人生ではなく、彼女はある種全体の人々を体現していた、と。彼女は祖国リトアニアから移り住んできた、いわば今では存在しない大航海という経験を経て渡ってきた古の人間で、アメリカ大陸は先住民であるモヒカン族も然り、その古の先祖たちはもはや消えつつある。
しかし先祖の生き様や経験は、我々の中に今も存在している。そしてそれが同時代的な共通のいわば無意識的な共通経験として、集合的経験として残っている、と。
人の人間が亡くなったとき、いわば人の「生」は終焉を迎え、「死」でもって初めて完成するものだとすれば、ヘブライ老人ホームで亡くなったサラもまた亡くなったこと、死者になって初めて彼女の「生」は完成するともいえる。
ある原因があり、ある結果があるという通常の因果論ではなく、先述のベンヤミンによれば廃品の思想という、見えざる糸でたぐり寄せるような、透かし彫りに光を当てて根源を浮かび上がらせるような遡行していく因果論がある。
人間の死という動かし難い状態(死体)が現前しており、そこから遡行していき、その人間個人の歴史や今まで生きてきた道筋に光を当てる作業だ。
死者の顔はヒポクラテスの顔(臨終の顔相)と言われ、人が死者になった瞬間に全ての過去の出来事が顔相に凝縮されそこに再現される。
その場所にその人間の固有の人生の物語が立ち上がる。いわば死者と馴染むことにより、ゆっくりとした時間の中で死者(廃物)として眺め、寄り添う。過去に生きた多くの人々の人生の経験に耳を傾け反駁すること。そこは無数の物語の温床となり、その死者たちの物語は現在の生きる我々を救済しにやってくる。
いまだ死せずして生きる我々の身体の中でも、死者となった先祖の生き様や経験がそこから遡るようにして語り出すだろう。我々の身体を現前する物質的な唯一で最後の末端の確証だと捉えれば、そこから先祖の語り得なかった無数の物語に耳を傾けることも可能であろうし、そのことで我々は生きる理由や存在の不確かさを払拭できるかもしれない。
1980年代の西洋諸国に与えたエイズショックは、その因果論においてもあまりにも示唆的だ。エイズに罹患したという当時ではあまりにも絶望的な結果は、その原因をあまりにも短絡的に遡行しやすい。
その正反対に位置する人類の妊娠という状態。ある結果は、その原因を遡行することも実に容易だ。「宿命」という言葉があるが、それは奇しくも「命を宿す」と表記される。ちなみにキリスト教世界の聖母マリアは処女で懐妊という物語は、通常の因果論がまったく成立しないものである。
そして二篇からなるこの物語は1980年代が舞台で、90年代初頭に初演を迎えた。いわば当時は同時代を描いた物語として存在していた。しかし、初演から30年以上も経った現在、この作品を上演する意味はまったく異なる。
登場する等身大の人々や国家は、混迷の羅針盤を失いつつある時代に必死に「変化」の必要性を感じとり生きている。その結果がどうなったのか、社会はどう変わり、政治はどう結果を出し変わったのか、何が変わらなかったのか、今の我々にとっては周知の事柄なのだ。
1980年代を生きる人々の世界の断面を傍らから眺めている我々自身が、もはや彼らからは不可視の天使ともいえる。しかし我々はあまりにも無力だ。
それならば、彼らの生き様や経験、教訓は、現在の我々の身体に果たして折り畳まれているのだろうか。
不連続なのだろうか。
この物語を我々日本人として、自分ごととして捉えることは出来るのだろうか。
歴史の終わり
思えばこの舞台が作られ上演された1990年代初頭に、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり?」というエッセイがセンセーションを巻き起こした。
今では懐かしい文章である。
第二次世界大戦で全体主義が敗北し、この時代に旧ソ連や東欧の共産主義が次々と雪崩を打ったように崩壊。アメリカ型自由主義が、一人勝ちという様相を呈した。歴史とは異なったイデオロギーを信じる者たちが繰り広げる闘争のことであり、その闘争がなくなった瞬間に歴史が終わるというのである。
この時代は、歴史の終わりを多方面で議論されていた時代でもある。
現在、自由主義が勝ち残り、その勢力を伸ばし続けている。
80年代日本はどうであったかというと、第二次世界大戦以降新憲法により戦争を放棄し、安全保障は全面的にアメリカに依存し、世界史への参加を放棄してきた。世界における東西イデオロギーの対立が激化していた時代、そこへの参加表明を曖昧にしてきた。その間国内の経済成長にひたすら専念してきたのが日本だった。ポストモダンという空虚な消費型の記号文化と相性が良かったのも偶然ではないだろう。
この「エンジェルス・イン・アメリカ」の時代は、世界は「歴史が終わる」と囁かれ、我々日本人が歴史に興味を示さず、大量消費状態の時期に作られた物語である。
この物語をまたしても他人の物語として消費することなく、私たち日本人としての鑑賞が果たして可能なのだろうか。
問われるのは私たち自身である。
プロフィール
ヴィヴィアン佐藤(ヴィヴィアンサトウ)
美術家、非建築家、映画批評家、プロモーター、ドラァグクイーン。金沢工業大学建築学科大学院卒業後、磯崎新のアトリエを経て、アーティストとしての活動を開始。映画、音楽、美術、建築、パフォーミングアーツなど多彩なジャンルに関わる一方で、個展やヘッドドレスのワークショップなども開催。大正大学客員教授。
ヴィヴィアン佐藤 (@viviennesato) | Twitter