東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻監督領域2年・本多優之介が監督を務めた94分の映画「黙る顔(英題:The Given Light)」が、3月18日と20日に東京・ユーロスペースで上映される。同劇場では、東京藝大映画専攻修了作品上映会「LOVE」を3月20日まで開催中だ。
「黙る顔」は、新作の制作に行き詰まった画家・仁胡(ニコ)を主人公に据えた物語。彼は、仕事で遠くに住む恋人・瑠衣(ルイ)との約束を破ってしまう。翌日、埋め合わせに向かう途中でルイの旧友とその恋人に遭遇。急遽彼らの同棲先で食事をすることに。しかし、それぞれが何かを隠しながらその都度沈黙が訪れ、あまり盛り上がらない。それでも言葉を交わしていくうち、ルイは兄・祐(ユウ)と同居していることが明らかになる。帰り道、予定を失った2人は観覧車に乗るが、ゴンドラの扉が閉まる直前、ルイはニコを残して走り去った。
キャストには
映画「黙る顔」予告編
東京藝大映画専攻修了作品上映会「LOVE」概要
開催日・開催場所
2026年3月13日(金)~20日(金・祝)東京都 ユーロスペース
上映作品
- 黙る顔(監督:本多優之介)
- SUPER LUCKY GIRL(監督:KAIJING YANG)
- TOTO&MIMI(監督:Yoon Taekyung)
- オートフィクション(監督:前田航希)
諏訪敦彦(映画監督 / 映画専攻監督領域教授)コメント
見つめる男(ニコ)の顔。彼はキャンバスに向かいモデルの顔を描こうとしている。「画家は(光を)受け取るのではない。与えるんです」と教師には告げられるが、男には自分の中に与える光があるとは思えない。長い間絵を描くことができない彼の表情は虚ろである。その隙間に世界は侵入する。“絵を描く”という彼の行為は、彼の意思とは関係なく他者の介入によって邪魔され逸脱し続ける。偶然の出会いで同席する羽目になる友人カップルとの食事の場面は、相互の視点のズレが喜劇的なサスペンスを産んで秀逸であるが、何よりその過剰な時間によって、私たち観客はそもそも男が絵を描こうとしていたという行動や感情を忘れてしまう。この“ねじれ”によって映画が延々とズレ続けることで、気がつくと物語は回収されるべき「全体」という概念すら消し去ってしまう。彼の前から姿を消した彼女は、きっと物語の外側「無限」のどこかへ消えているという恐るべき体験。この勇気ある逸脱には物語映画の限界を現代的に更新してゆく迫力が漲っている。
塩田明彦(映画監督 / 映画専攻監督領域教授)コメント
題名に「顔」の一文字を含む本作は文字通り、映画における被写体としての「顔」を主題とした映画である。具体的でありながら抽象的ですらある顔。情報の宝庫でありながら無でもある顔。何かを語りつつ、隠しもする顔。画家を志す若者がモデルの顔をみつめ、恩師の教授と会話を交わす冒頭の場面から、映画は実に明快かつ具体的に「顔」の主題を私たちに提示してくる。やがてひとつの顔に複数の顔が寄り集まり、それに並行するように若者にとって特別な存在である「顔」が中国川劇の変面と対比されつつ提示されていく一連のシークェンスのなんと見事なことか。顔と顔はさらに別の顔と顔に出会い、ひとつのテーブルを囲みながら手作りの料理とワインを味わい、語り合う。そうして彼らの交わす会話がまたしても「顔」の話に集約されていく瞬間の美しいほどのサスペンス。その残り香が消える間もなく、ひとつの顔が消えていく。若者は失われた「顔」を求めて旅立つ。そのとき「顔」の主題は不意に「記憶」の主題と結びつく。決定的なひとつの顔の記憶が、旅の中で出会った新たな顔の記憶に置き換えられていく。そんなことがスクリーンをみつめる我が身に起きたことが、いまでも不思議でならない。だが、それこそが映画作家・本多優之介が確信犯的に仕掛けた、恐るべき映画のマジックなのである。
市山尚三(映画プロデューサー / 映画専攻プロデュース領域教授)コメント
この謎めいた題名の意味が何であるのかはいまだに不明だが、この映画が幾つかの極めて印象的な顔を使って作られていることは間違いない。観客が期待しているであろうストーリー展開を少しずつかわしてゆく手法は素晴らしいが、その流れの中で一貫した強度を保っているのが、主役を演じる田中爽一郎の特異な“顔”である。恐らく、今後の多くの日本映画を支えるであろう“顔”がここにある。
岡本滉太(編集者)コメント
中盤、仁胡と観覧車に乗りかけた瑠衣が、咄嗟に駆け出し、そのまま走り去っていく衝撃的なシーンがある。それまで会話優位で進行してきた映画が、ここでふと運動に主導権を奪われる。以降もそういったシーンは頻発する。瑠衣の兄が仁胡を殴りつけるシーンや、その兄の車から仁胡が逃げ出すシーンなどには、いかなる物語的理由をも拒むような剥き出しの運動性がありありと露呈している。そこで受け手は映画とはこうした思いがけぬ瞬間、つまり運動が物語に先行する瞬間のために存在していたことを遡求的に思い出す。黒沢清、ゴダール、フォード、キートン、さらに遡ればリュミエール。列車が駅に滑り込むこと、ただそれだけで映画は成立するということ。
物語から運動へと映画のフレームが変形していく過程で、物語に付随した負債もまた消失する。大仰な言い方をすれば、フレームの変形過程それ自体が本作のレゾンデートルとなっていく。瑠衣の行方がわからないからといって、それが何だというのだ? 同窓会の現場に押し入るあのショットや、田舎の最終電車を必死で追いかけるあのショットに比べたら、そんなものは些事に過ぎない。
大高健志(Motion Gallery 代表 / シモキタ - エキマエ - シネマ「K2」)コメント
創作の壁に突き当たった画家が、恋人やその旧友との関係のなかで「知らなかったこと」に触れていく本作は、「把握」と「理解」のあいだに横たわる見えない隔たりを静かに問いかける。
身体を伴うコミュニケーションが複雑化し、同時に希少なものとなりつつある現在、このテーマに正面から向き合う姿勢は誠実であり、切実でもある。観る者には、可能性という希望と、実存を確信できない不安の両方が差し出される。
決して新しい主題ではないはずなのに陳腐化していないのは、静謐でありながら重心の低いショットの積み重ねが、作品に確かな説得力を与えているからだろう。藝大出身の作家たちの系譜を思わせつつも、そこには確かに新しい世代の日本映画の気配が息づいている。
三浦(シモキタ - エキマエ - シネマ「K2」マネージャー)コメント
今のように対面の機会が減った時だからこそ、「目は口ほどに物を言う」ということを改めて感じた。言葉にしなくても、目の動きや口元の弛緩から感情を読み取れるのだと、田中爽一郎氏演じる仁胡から教わった。
旧友カップルとの食卓のシーンでは、恋人のことをよく知っていると思っていたのに、知らなかったと気づき、距離感の揺らぎや自分への戸惑いがリアルに描かれる。観ているこちらも自然と気まずさを共有する。
しかし、その揺らぎが生まれたことで、仁胡の目に光が差し込むのを感じた。人を知ることは、ただ理解するだけでなく、何かを呼び覚ます力があるのかもしれない。
映画ナタリー @eiga_natalie
本多優之介の「黙る顔」など、東京藝大映画専攻の修了作品がユーロスペースで上映(予告編 / コメントあり)
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