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テレビマンが作るドキュメンタリー映画 #4 [バックナンバー]
四元良隆・牧祐樹(鹿児島テレビ放送) / 芸人・松元ヒロへの取材を通し、立川談志の叱咤激励を受ける
「お前らはサラリーマンテレビマンでいいのか?」
2025年2月1日 17:30 5
近年、注目を浴びているテレビ局発のドキュメンタリー映画。連載コラム「テレビマンが作るドキュメンタリー映画」では、普段はテレビ局のさまざまな部署で働く作り手に、会社員ならではの経歴や、テレビと映画の違い・共通点をテレビマン目線で語ってもらう。
第4回では、芸人・
取材・
後輩の誰もドキュメンタリーを作っていない状況だった(四元)
──お二人が監督を務めた「テレビで会えない芸人」は、本連載の#1でRKB毎日放送の
牧祐樹 今回のお話をいただく前に、記事を拝見していました!
──ありがとうございます。配信されていない作品ですが、2月3日に日本映画専門チャンネルで放送されるということで、この貴重な視聴機会にお声掛けさせていただきました。まずはお二人の経歴、入社してからの部署遍歴をお聞きしたいです。
四元良隆 新卒で入ってちょうど30年です。最初は制作部で音楽番組のディレクターをしていました。2年半後、報道部で事件記者になり、10カ月だけ営業で働いたことも。その後、制作で番組を作ったり、報道で事件記者やニュースデスクをしたりと、行ったり来たりしています。振り返ると報道、制作とほとんどが作る現場で、今は制作部でプロデューサーやディレクターをしながら、部長業務もやっています。
牧 僕は大学を卒業して1年半遅れて社会人になりました。学生時代から続けていた音楽をやりたい!というモラトリアム期間があって、さすがにそんなに簡単じゃないぞということがわかったところでKTS(鹿児島テレビ放送)関連会社の広告会社KCRに入社しました。最初は広告営業をやっていたんですが、1年半後ぐらいに制作部へ異動になり、情報番組や企業紹介PR動画、テレビCMを7、8年作っていました。その後2015年の10月にKTSに出向し、今年でちょうど10年目です。
──お二人は制作部で一緒に仕事をするようになったということですね。一回り年齢の違う一制作会社のディレクターと四元さんが、今回のドキュメンタリーで組むことになったのはなぜですか?
四元 事件記者をやっていたとき、日々スクープばかり追いかけているだけでいいのか?と思い、徐々にドキュメンタリーに取り組むようになって、それからずっと作ってきたんです。時間が経ってふと後ろを見ると、鹿児島テレビで後輩の誰もドキュメンタリーを作っていない状況でした。これでいいのかなと思い、2019年からいろんな取材を仕込み始めました。できれば後輩たちにドキュメンタリーに挑戦してほしくて。この「テレビで会えない芸人」に関しては「こういう人がいるんだけど一緒にやらない?」と牧くんを半ば強制的に引き込みました。
──そもそもですが、鹿児島テレビさんにドキュメンタリー番組の枠はどれぐらいあるんでしょうか?
四元 フジテレビ系列だと九州各局で放送の「ドキュメント九州」という30分番組と、全国放送の「FNSドキュメンタリー大賞」があります。鹿児島テレビとしては定期的にドキュメンタリーの枠があるというわけではないので、作ったときに特別番組の枠を取って放送していく流れです。毎週放送枠があったらいやが応でも担当を割り当てて作るチャンスがあるんでしょうけど、ドキュメンタリーの場合は取材したいという強い気持ちがないと簡単には始められない状況。ハードルも高く、若い後輩たちが挑戦できる環境じゃなかったし、自分も先輩として後輩たちが制作できる環境を作ってこれなかったという自戒も込めて、僕が取り仕切ってやろうと決めました。
──牧さんに声を掛けたのは、何か感じるところがあったからなのでしょうか。
四元 ほかの番組で一緒にやっていたとき、制作に対する意欲やセンスを感じるし、ものを見る感覚もあるなと思っていました。ドキュメンタリーに初めて挑戦してもらい、取材の苦しさと喜びを味わってほしいと思って声を掛けました。
──牧さんは、それまでは具体的にどういった番組を作ったり、取材してきたりしてたんですか?
牧 プロダクション時代は自治体の広報番組とか、KTSがやってるお昼の情報番組の特集枠、情報バラエティーの企画をやったりしてました。KTSに来たときはバラエティ系の番組を担当していたんですが、思ってたより全然VTRが面白くならなくて悩んでいたときに、身近な先輩から「(当時副部長だった)四元くんに聞いてみたら?」と言われて初めてコンタクトを取ったんです。ドキュメンタリーを作っている人というのは知っていて、僕の中ではAという方向で作ってるVTRがA'ぐらいに磨かれたらうれしいなと思って相談したんですけど、四元は根本から変えることを提案してきた。結果として、A'ではなくZのような僕が想像してなかったベクトルのVTRに変身したんですが、それがめちゃくちゃ面白くなって。スタジオ収録の際にそのVTRで演者の人が涙を流して笑っていたのが衝撃でした。一方で、約8年プロダクションでやってきた自分のプライドが粉々にされたタイミングでもあったんですけど(笑)。(四元は)番組作りにけっこう厳しいところがあって、面白くするため・人に届けるためには何が必要なのかを突き詰める人。いろんなVTRを作る過程でぶつかりながら歩んできて、その延長線上で声を掛けてもらった感じです。
“テレビに出ない”芸人を取材するのは、テレビ側のエゴなんじゃないか(牧)
──松元ヒロさんの取材を始めたのは2019年3月とのことですが、四元さんが松元ヒロさんの存在を意識しだしたのはもっと前だそうですね。
四元 2004年ぐらいですね。僕が大河ドラマ「篤姫」の音楽を手がけた鹿児島出身の吉俣良さんのドキュメンタリーを作っていたときに、吉俣さんから「鹿児島出身で面白い芸人がいる。政治ネタ、社会ネタ、忖度なしの言いたい放題でテレビで出せないネタばかり。だけど彼の舞台に行くと胸がすっとするんだよ」と言われたんです。当時若いテレビマンだった僕は「テレビで出せないネタばかり」という言葉に、「お前らにはできない」と言われたような気がしてモヤモヤと心に引っかかってしまった。
──そのときは「取材したい」とまでいかなかったんですね。
四元 そうですね。それから15年後の2019年に鹿児島でヒロさんの公演があり、観に行きました。本当にめちゃくちゃ笑って、ちょっぴり泣いて、深く考える舞台でした。その夜の宴席でヒロさんに「感激しました」と話をしたら、にっこり笑って「最近テレビで会えない芸人をよくテレビ局の人が観に来るんですよ。そして必ず言うんです。『面白いけどテレビで出せない』って」と言われた。そのときに、僕が吉俣さんに言われたことの正体が見えた気がしました。舞台は満員でもテレビカメラは向かわない。通常人気や話題があるところにテレビカメラは向かうけど、そこに向かわないこの風景って何なんだ、と思ったんです。自分が15年前に言語化できていなかったテレビというメディアの実像を捉えたいと、その場で「取材をさせてもらえませんか」とお願いしました。鹿児島の焼酎を飲んで、かなり酔っていたヒロさんは「いいですよ。来てください」と笑顔で承諾してくれました。こちらは「本当にカメラ入りますよ? 大丈夫ですか?」と何回も確認しました(笑)。
──牧さんは話を聞いたとき、率直にどう思いましたか?
牧 その前から四元にドキュメンタリーの面白さを聞かされていたり、社内外の作品を見せてもらったりしていて、いつかドキュメンタリーをやりたいなと思い始めていた時期ではありました。ただ、僕はヒロさんという被写体に対して当時は四元と同じような思いを抱けてなかったんですよね。テレビで政権批判を流すのって大丈夫なの? ヤバくないの?という思いが先に立ったし、「テレビに出ない」というヒロさんのスタンスを崩してまで引っ張り出すのは、テレビ側のエゴなんじゃないかとも思ったんです。でも興味があるから参加を決めて、取材、編集、放送を通じて徐々に「ヒロさんはこういうふうに社会を見てるのか、こういう問題意識を発信しているのか、これはテレビにとっても必要だよね」と考えられるようになっていきました。
──共同監督ということですが、取材はどういう分担で進めていったんですか?
四元 基本的には僕たち2人とカメラマンの3人で取材に行って延々と撮る感じですね。取材によってはどちらか1人とカメラマンの2人体制のときもありました。
「お前らはサラリーマンテレビマンでいいのか?」
──実際に松元さんを取材してみて、初めに持っていた印象から変わったことはありますか?
四元 過激な政治ネタばかり取り沙汰されるので、ヤバいことを言う人だと思われがちですが、舞台をトータルで見ると、人としてどう在るべきかを“笑い”をまぶしながら、不思議な優しさで届けている。観た人たちはその優しさに心をつかまれ、大いに笑い、泣き、深く考えさせられる……ヒロさんの芸は“人間賛歌”なんです。そこには社会への理想が込められています。異質なものを排除する不寛容な時代に、松元ヒロはどういう笑いの哲学で切り込んでいくのか、1つひとつ楽しみながら記録していきました。
──映画を観た印象として、松元さんの妻・俊子さんを含む周りの方々との関わり方を通して、松元さん本人の人柄が立ち上がっていくのが面白かったです。冒頭、松元さんが渋谷のスクランブル交差点前で白杖の女性に声を掛け、電車で目的地までサポートする様子が収録されていますが、あの一連のやり取りで一気に松元さんがどういう人なのか感覚的に理解できるすごいシーンでした。牧さんは松元さんと対峙してどんな方だと思いましたか?
牧 温和でやわらかく、公演に向けて「これでいいのかな」と逡巡したりする姿や、俊子さんに対しての関わり方を見て、ただ強いだけの人じゃないんだなと思いました。ヒロさんは「自分って弱いんだよね」とよく言っていたんですけど、弱さを自覚してる人間が「世の中のためにこれを発信しないといけないんだ」という強さに変換するところがかっこいいなと感じていましたね。
──舞台前の最終稽古で何回もセリフが出てこないシーンも印象的でした。芸人の裏側を見れるコンテンツは最近増えていますが、大ベテランの方が苦悩してる姿って、観ていてかなりドキドキする映像だなと思うんです。それをあの尺で見せたのは意図があったのでしょうか。
牧 舞台上のヒロさんだけになると、表現に広がりがなくなってしまう。僕らが現場で「本当に完成するんだろうか」とか「こんなに言葉が出てこない状態で本番を迎えて大丈夫なんだろうか」と心配になった状況を観ている方たちにも同じように体験してほしかったので、これくらいしっかり尺をとって伝えるべきなんじゃないかと思いました。
──松元さん自身は常にニコニコされていて、取材にも協力的な方だと思うんですが、インタビュー中に立川談志さんや
四元 ヒロさんは最初コミックバンド「笑パーティー」で「お笑いスター誕生!!」などのテレビに出演していました。しかし、昭和天皇の崩御のときに「笑いは自粛」との空気が広がり、仕事がすべてなくなった。そのとき考えたのではないでしょうか。笑いは何のためにあるのか。ここで松元ヒロの“笑い”の哲学やジャーナリズムが生まれたんじゃないかと。その後社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」を結成するんですが、徐々にテレビで好かれることと自分がやりたいことに乖離が生まれていった。やがて、ヒロさんは言いたいことを言うために覚悟して“テレビに出ないこと”を選択しました。その芸を見て「お前こそ本当の芸人だ」と言ってくれた立川談志さんや永六輔さん。まさにこの2人は今のヒロさんの芸の原点を作ってくれた人たちなんだと思います。永六輔さん自身がテレビの草創期を作った人なのもまた不思議な話ですよね。でも、だからこそヒロさんという“テレビで会えない芸人”から、逆に僕らが「テレビは言いたいこと、本当のことを言ってるのか」と、テレビの今を問われるドキュメンタリーの旅になったのではないかなと思っています。
──松元ヒロさんを通すとすごく納得できるんですが、映画の中で紹介された談志さんの「テレビに出ている芸人をサラリーマン芸人って呼んでるんだ。ほかの人が言えないことを代わりに言ってやるやつが芸人なんだ」という言葉って、テレビ局員にとってはかなり強い言葉じゃないですか。これについてお二人はどう感じましたか?
牧 言葉だけを見ると、今テレビに出ている芸人さんとテレビに出ないことを選択したヒロさんを対比しているようなんですけど、あれは僕らテレビの人間に対して発せられてる言葉でもあるなと思っています。「お前らはサラリーマンテレビマンでいいのか?」と。談志さんがヒロさんに託した言葉があって、それが変換されて僕らに届けられたのかなというふうに解釈していますね。
四元 “言論”と“表現”の自由のために闘っていますか?という話なんだと思います。今のテレビって、わかりやすく、そしてクレームが来ないことを何よりも一番に制作している気がします。例えば温泉番組、注釈で必ず「許可を得て入っています」とテロップを出します。クレーム対策として。果たして、許可を得ないで入っていると思う人がいるのだろうか。僕はそういう信頼関係のなさがどんどんテレビを劣化させていると思っています。逆に「許可を得ないで入っています」というテロップを出せば、どうなるのか。のんびりした温泉番組が一変、ハラハラドキドキしたものに変わります。元来テレビって、「面白い」で作るもの──それが人の想像や興味をかき立て、深く考えさせるのではないか。でも今は面白いかではなく、クレームが来ないようにすることばかりが優先されています。談志師匠の表現を借りるとそれが“サラリーマンテレビマン”なんだと思います。“自分たちの意思でしっかり伝えなさい”と、談志師匠はヒロさんを通して天国から僕らテレビマンにも叱咤激励しているのかもしれません。
阿武野勝彦プロデューサーは「作る勇気をもらえるパワースポット」(牧)
──視聴者との“信頼関係”は、バラエティや情報番組に限らず、説明セリフの多用などが指摘されるドラマ・映画の世界にも通ずる大事なワードだと思いました。松元さんへの取材は2019年3月に始まり、映画は2022年1月末に公開されていますが、映画化するにあたって、東海テレビの阿武野勝彦さんがプロデューサーとして参加された経緯についてもお聞きしたいです。
四元 2019年7月に30分番組、2020年5月に1時間番組を放送して、映画化のためさらに追加取材を重ねました。阿武野さんとは2007年の日本民間放送連盟賞からのお付き合いです。同じテレビ報道部門で、僕が「私たちは日本人です~ドミニカ移民 50年の叫び~」、阿武野さんが「約束~日本一のダムが奪うもの~」で優秀賞を受賞して以来、ことあるごとにアドバイスをもらい、励まされてきました。2020年の日本民間放送連盟賞で「テレビで会えない芸人」がテレビエンターテインメント番組の最優秀賞をいただいて、映画化の話が出たとき、阿武野さんにご相談したら配給の東風の皆さんと僕らをつないでくれました。そのときに阿武野さんに「プロデューサーをしてもらえませんか?」と伝えたら、快く引き受けてくださいました。
──それはリモートでプレビューをしてもらったり、ということですか?
四元 いえ、鹿児島に来てもらいました。編集に付き合ってもらったり、音楽の打ち合わせに同行してもらったりと、しっかり一緒に作っています。僕らの意見を大事にしながらもたくさんアドバイスをいただき、助けてもらいました。
牧 プロデューサーとしてクレジットされているのは映画版からなんですが、30分のテレビでの放送のときから、表現を豊かにするためにはどうしたらいいのかと、アドバイスをいただいていたんです。
──具体的にはどういった意見をもらったのでしょうか。
牧 タイトルはテレビ版からずっと「テレビで会えない芸人」で、もともと四元とも「“松元ヒロ物語”で終わってはいけないよね。最終的にこの人を通じて今のテレビメディアってどうなんだ?と考えることを、作品の柱に残さないといけないよね」と話していました。阿武野さんからも、「『テレビで会えない芸人』という言葉には自己批判の精神がすごくあるから、このタイトルにこだわるのなら、鹿児島テレビが現状をどう思っているのかをしっかり打ち出さないとダメ。やれないのであれば松元ヒロ物語として作るべきだ」と、最初から最後まで強く言われていました。そこで生まれたのが映画のタイトル明け、副調整室を背景に、鹿児島テレビの上層部の声で(松元への)意見を流す表現です。あのシーンを入れるかどうかはかなり議論を交わしました。阿武野さんは「自らの立ち位置を表現できないのであればプロデューサーを降りる」と話していましたし、ドキュメンタリーで表現することの核となる部分を教えてもらった気がしています。映画が一度できあがったあとも、僕と四元宛てに「果たして今の終わり方でいいんだろうか」「小さくまとまりすぎているのではないか」とメールが届いて、各キー局の社屋を映すラストシーンを加えました。最後まで表現を研ぎ澄ましていただいたと感じています。東海テレビの方は阿武野さんのことを“親分”と言うんですが、僕にとっては、一緒にいるだけで作る勇気をもらえるパワースポットのような方です。
──局の垣根を超えた本物の番組作りをお聞きできて光栄です。結果的に、平成から令和への変わり目やコロナ禍も映す貴重なタイミングで取材された作品になりましたよね。
牧 令和という元号が発表されたときの空気感を残せたことはすごく意味があったなと思っています。あのとき、世の中の人が改元をどう受け止めていたのかをインタビューしたら、「ワクワクする」「これからどうなるのか楽しみ」という好意的なコメントがすごく多くて。ただ映画のその次のシーンでは、新聞を広げたヒロさんが、“解決していない問題はそのままなのに、(めでたいムードを)テレビも一緒になって煽っている”といったことを話す。先の街頭取材をしているとき、たぶん僕はめでたい方向でしか撮ろうとしていなかったと思うし、そういうテレビの都合のよさをヒロさんに見透かされました。自分の心情も含めてですが、あのタイミングで起こったこと1つひとつを記録できてよかったです。
四元 僕は改めて、「テレビで会えない芸人は今、この世の中や揺れるメディアをどう見ているのかな」と考えています。テレビマン1人ひとりは全国どの局も懸命にがんばっています。でも本当に言いたいことを報じているのか?という深い問いかけを今も突きつけられています。だからこそ、僕らはここ鹿児島で起きていることをしっかりと捉え、言論と表現の自由について考えながら、日々言いたいことを報じていかないといけないと思っています。
全国に広げることで、まだ見ぬ誰かの何かになるんだ(四元)
──お二人は映画で鹿児島から全国に発信した経験を通して、どんなことを感じましたか?
四元 ネットが無かった時代、自分が作る番組を何とか全国に広げたいという思いで、フジテレビ深夜の「FNSドキュメンタリー大賞」という枠に乗せて作ってきました。それから時を経て、今回「テレビで会えない芸人」を映画化して、自分たちが思いを持って心を込めて作れば、全国どこへでも届けられる時代になったことを実感しています。東京に住む鹿児島テレビのOGから葉書が届きました。ポレポレ東中野に観に行ってくださったみたいなのですが、「最後に『鹿児島テレビ』とクレジットされたとき、後輩たちが作ったこと、鹿児島テレビで働けたことを誇りに思いました」という言葉をもらいました。こうやって全国に広げることで、まだ見ぬ誰かの何かになるんだなと。やっぱり作り続けることが大事だと教えてもらいました。
牧 映画にすることでテレビよりさらに豊かな表現で届けられたこと、舞台挨拶で直接感想の声をいただく機会があったこともうれしかったです。普段テレビで発信しているときは、「どんなふうにこの表現が受け取られたのか」というフィードバックに毎回耳を傾けられているかと思うとけっしてそうではなかったと思います。でも今回、自分たちが発信した先には受け手がいて、受け手は何かしら感情を持っていて、その意見をもらうってすごく大事なことだなと感じました。(批判的な)強い言葉があっても、「じゃあそれに負けない強い表現って何だろう」「自分たちが届けたかったメッセージを届けるためにはどうしたらいいんだろう」と考える機会にもなりました。
──最後に、「このドキュメンタリーがすごい」と思ったテレビ局の番組や、映画化された作品をお聞きしたいです。
四元 阿武野さんがディレクターをされた「はたらいて はたらいて~小児科診療所と老人たち~」という番組です。ある町の小児科医院からこの国が突き進む高齢化社会の実相を描いたドキュメンタリーなんですが、取材、撮影、構成、編集……どれもすごいなと思いました。ナレーションは今も頭から離れません。「はたらいて はたらいて」を観たときに“ドキュメンタリーってただ記録するものじゃない、作り手の思いを奥底にしのばせながら考えさせるものなんだ”と、価値観が変わりました。
牧 東海テレビで言うと「
あとは、2024年12月にNHKの「ドキュメント20min.」枠で放送された「NO EFFECTOR,NO LIFE.」。楽器につないで踏むと音色が変わるエフェクターに特化したドキュメンタリーで、演奏者やコレクター、エフェクターを作っている人を映し出していくんですけど、鳥取局の20代のディレクターの「自分がこれを作りたいから作りました」という自己主張の塊のような番組なんです。音を映像化して見せる表現も豊かだったし、エフェクターの“ひずみ”にかけて、「人ってクリーンじゃいられないんですよ」という無味無臭を求める世の中への問いかけを絶妙なあんばいで染み込ませているのもよかったです。
監督プロフィール
四元良隆(ヨツモトヨシタカ)
1971年生まれ、鹿児島県出身。1994年に鹿児島テレビ放送入社。ディレクター、社会部記者、警察キャップ、報道ニュースデスク、プロデューサーを歴任し、現在は報道制作局制作部で部長も務めている。手がけたドキュメンタリー番組に、2007年日本民間放送連盟賞で優秀賞を受賞した「私たちは日本人です~ドミニカ移民50年の叫び~」、第9回日本放送文化大賞で九州沖縄代表に選ばれた「ママとぼくと信作と ~命と向き合った家族の10年~」などがある。牧祐樹との共同監督作「テレビで会えない芸人」は2022年1月に全国公開された。
牧祐樹(マキユウキ)
1983年生まれ、鹿児島県出身。2007年、制作会社KTS開発(現KCR)に入社し、広告営業、情報番組やCMのディレクターを経験する。2015年から鹿児島テレビ放送の制作部でバラエティ番組や音楽番組を担当。四元良隆とともに制作し、2022年に劇場公開された「テレビで会えない芸人」がドキュメンタリー初監督作となる。
「テレビで会えない芸人」放送情報
日本映画専門チャンネル 2025年2月3日(月)25:20~
※関連作「松元ヒロの世界」は2025年2月4日(火)25:15から放送
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