マンガ編集者の原点 Vol.13 梶川恵(シュークリーム編集取締役)

マンガ編集者の原点 Vol.13 [バックナンバー]

「オハナホロホロ」「違国日記」の梶川恵(シュークリーム編集取締役)

編集者は「作品の価値=自分の価値」と思わないこと

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マンガ家が作品を発表するのに、経験豊富なマンガ編集者の存在は重要だ。しかし誰にでも“初めて”がある。ヒット作を輩出してきた優秀な編集者も、成功だけではない経験を経ているはず。名作を生み出す売れっ子編集者が、最初にどんな連載作品を手がけたのか──いわば「担当デビュー作」について当時を振り返りながら語ってもらい、マンガ家と編集者の関係や、編集者が作品に及ぼす影響などに迫る連載シリーズだ。

さて、話すとやる気が湧いてくる人、というのがいる。今回登場する梶川恵氏はそんなタイプだ。新卒で角川出版販売に入社、幻冬舎コミックスを経て2007年にシュークリームにアルバイトとして入社し、社員に。フィール・ヤング(祥伝社)で「オハナホロホロ」(鳥野しの)、「アヤメくんののんびり肉食日記」(町麻衣)などを担当しヒット。2010年にBL誌on BLUEを創刊。これまでのBLコミックにはなかったスタイリッシュな装丁と、多種多様なストーリーに彩られた同誌は、BLの画期となった。ほかにも「中学聖日記」(かわかみじゅんこ)、「いいね!光源氏くん」(えすとえむ)、「違国日記」(ヤマシタトモコ)、「海辺のエトランゼ」(紀伊カンナ)、「25時、赤坂で」(夏野寛子)などの担当作も大きな話題を呼んでいる。

いつ会ってもパワフルで、マンガはもちろん、この世の創作物への愛にあふれており、圧倒され、包みこまれる。一言で言うと、陽キャのオタク。自称“おしゃクソ野郎”の梶川氏の雄弁で肉厚なおしゃべりをそのままに、シリーズ最長の大ボリュームでお届け。作家たちからの信頼も厚い梶川氏のパーソナルヒストリーと仕事観に迫る。

取材・/ 的場容子

「小遣いは全部マンガに使いました」本屋では親に耳を引っ張られ……

新潟県出身。マンガの原体験は、親から与えてもらった「ドラえもん」。その後自発的にハマったのは「ときめきトゥナイト」(池野恋)だった。

「小学校低学年からマンガを読んでいるんですが、りぼんを買いだしてから『ときめきトゥナイト』にハマっていきました。私が好きなのは第1部の蘭世編。ヒロインが大好きな真壁くんが、魔界の王子様だとわかり、赤ちゃんの姿に戻ってしまう。蘭世は彼の命を狙う追手から彼を守って逃げなきゃいけない……と、突然ハードな展開になる。そこで蘭世の芯の強さ、好きな男の子を必死に守る姿がすごく心に刺さりました。あのひたむきさは、今に至るまで、そうそういないヒロインだったなと思います」

そこから、梶川氏のマンガ人生が始まった。

「小遣いは全部マンガに使いました。それでも、子供のお金では読みたいマンガを全部買うには到底足りないから、本屋さんに立ち読みに行く嫌な子供で(笑)。時間を忘れて長時間立ち読みをしていたので親に耳を引っ張られて帰る、という。

気になるレーベルは、書店さんであ行からわ行まで読んで、次に買うマンガを決めていく。買ったマンガの続きも気になるから載っている雑誌も読み出す。りぼん、なかよし、ジャンプ、花とゆめ、マーガレット、LaLa、別マがメインで、サンデーも途中から読みだしました」

そうこうしているうちに、マンガや創作物にもう一歩ぐいっと踏み込む──要するに、オタクになるきっかけを与えてくれる雑誌と出会う。

「小学校高学年くらいで、ぱふという雑誌があることに気づいて。ぱふでは全国的に流行っているオタク情報を教えてくれるので、そこでさらにマンガを知るようになりました。オタクゾーンのことを教えてくれた雑誌です」

ぱふは、1974年から2011年まで発行されていたマンガ情報誌で、起源となる雑誌は清彗社から創刊され、その後雑誌名を変遷しながら刊行された。昭和から平成にかけて、マンガやアニメ、活字好きオタクたちのバイブル。作家やメディア化された作品の声優などのインタビューをはじめ、年に1回、読者投票で決める「まんがベストテン」の特集を組むなど、充実した情報で、特に女性オタクから愛されていた。

「紙文化の時代だったので、書店さんは街のいろんなところにあって──悪質なんですけど、立ち読みができる書店はすべて頭に入っていて、歩きだろうと自転車だろうとどこにでも行ったので、本当に健脚だったなと(笑)。『ここはグリーンウッド』(那州雪絵)は、50キロくらい書店を歩き繋いで買った記憶があります」

「自分はマンガを仕事にしないと危ない」

意外なことに、マンガ編集者になるきっかけになったマンガは「ない」という。

「強いて言えば、『サザエさん』で、編集者のノリスケが小説家の伊佐坂先生に『原稿いかがですか?』って会いに行っているのを見て、『作者に会えるのいいなー』って思っていたくらいで。学生時代はお菓子作りが好きだったので、高校を出たらパティシエの専門学校に行こうと思っていたんですけど、親との話し合いで『進学すれば?』となりまして。進学するならなんになろう?と思ったときに、とにかく好きなことを仕事にしたいと思ったんです。雨が降っても雪が降ってもサボりたくならない仕事に就かないとまずいよな……と思ったので、大好きなマンガの仕事がいいなと思いました」

ゆくゆくはマンガの仕事に就きたいという思いを胸に、大学進学のため上京。大学では日本文学を専攻した。

「今思うと、学科の選び方も“好きなことしか勉強したくない”感がありますね。小説も、ぱふから影響されて、コバルト文庫から入ってエンタメ小説を10代で読み、髙村薫などのミステリー系も読みました。髙村薫の作品は、社会的なことや政治的なことが絡み合いながら人間ドラマが進んでいくのが好きだったし、あとはとにかくBLっぽかったのが本当に好きで(笑)。卒論も髙村薫で書きました」

ここまでの道のり、正統派オタク女子と言って差し支えないだろう(ただし陽キャ)。お小遣いは全部マンガにはたき、地元のさまざまな本屋情報を把握、日参し立ち読み。ぱふを愛読し、コバルト文庫を経て髙村薫に至る。面白いのは、学生の時点ですでに「自分は好きなことを仕事にしないとマズい」という、自己分析に基づいた切迫感を抱いていたことだ。そこには、こんな気づきが影響しているという。

「高3のときに授業をさぼってマンガを立ち読みに行くことが多くて、『とにかくマンガを読みたいんだな』という自分の性質に気づいたんです。つまり、マンガを仕事にしないと社会から足を踏み外してしまうなと思った。この時点でかなり自分のことを自覚できました。

実際、マンガを仕事にしてみると、めっちゃ楽しいから全然飽きないし、好きな作家さんと打ち合わせしてネームが出て、原稿をもらうのも全部楽しくて。作家さんによって創作方法はそれぞれで、お話が泉から湧き出てくる感じの方もいるし、真っ暗な穴から白い手がにゅって出てくる、みたいな方もいて、マンガ家がマンガを生み出す工程が全部好きだなって感じる。それを近くで見たり助けたりするためだから、仕事をがんばれる感じです」

まさに天職と言えるだろう。仕事を実際にやってみてギャップはなかったかと聞くと、「マンガ家を描いたマンガもたくさんあって、それを読んでいたのでそんなに落差はなかった」。さすがというか、仕事に関するあれこれも、すでにマンガで履修済みだったのだ。

新卒で出版営業「嫌だと思っていたことが本当に……!」

就職活動では出版社で編集者になることを志しつつも、新卒では角川出版販売という出版営業の会社に就職する。

「おしゃべりは好きだから、営業という仕事自体はいいんですよ。ただ、雨天でも雪の中でも、注文書の束や販促物の入っためちゃくちゃ重いカバンを持って、書店を回らないといけないのが大変でした。務めていた会社は、角川グループのマンガの注文書を全部持っていくので、1店舗用の書類だけで厚さ2センチはあって……それを雨でも1日5、6店舗回るわけですから、本当に重くてつらかったです(笑)。『高3のときに嫌だと思っていたことをやることになった!(泣)』って思いました」

3年で退社し、今度は幻冬舎コミックスで念願だったマンガ編集部のアシスタント業に就くも、先輩との関係がうまくいかず、思っていたように編集の仕事を教わることはできなかった。転職を決意した梶川氏は、編集プロダクションであるシュークリームのアルバイト募集を目にし入社。26歳でマンガ編集者として本格的に歩みだした、当時のハングリーな日々を振り返る。

「要領も悪いしがむしゃらすぎる。『会社に寝袋持ち込まないで家に帰って!』って言いたい。編集としてスタートが遅いから、人の2倍やってこそという馬力があったにせよ、深夜の原稿待機◯連続とか、やりたいだけやっちゃう若者、怖いなって感じます。時代的にもまだギリギリそういうことをやってる時代だったとはいえ。入社してから、社内の先輩が社長夫婦しかいない時代が長かったので、うまく仕事を回す工夫を知らなかったんですよね。それに、特殊な能力があるタイプでもないのでがんばりで埋めるしかあるまいと思い、がんばれた感じです。今はちゃんと家で寝るし、サブ担当に入ってもらってます」

初単行本で初ヒット「オハナホロホロ」 仕掛けの裏側

こうしてマンガ編集として歩み出した梶川氏は、「パリパリ伝説」(かわかみじゅんこ)、「本日の猫事情」(いわみちさくら)などの作品を引き継ぎながら、「うさぎドロップ」(宇仁田ゆみ)や「死化粧師」(三原ミツカズ)などのサブ担当としても経験を積む。入社して2年目、最初に企画立ち上げから担当したのは鳥野しのと町麻衣だった。鳥野は梶川氏が同人誌を愛読していた作家で、町はフィール・ヤングに投稿してきた作家。両名とも商業では新人だった。初めてのヒットは、梶川にとっても鳥野にとっても初の単行本「オハナホロホロ」だった。

「鳥野さんは長く同人誌で描かれていた方なので、デビュー作からめちゃくちゃうまかった。ありがたいことに、A5判コミックの第1巻が、2カ月くらいで紙だけで5万部を超えました」

「オハナホロホロ」は、翻訳家の麻耶が、かつての同性の恋人・みちるとその幼い息子と同居することになり、そこに同じマンションに越してきた俳優・ニコも毎日のように顔を出すようになって……という、不思議な関係の4人が織りなす温かな暮らしを描いた作品だ。2008年からフィール・ヤングで連載され、単行本は全6巻が発売された。

「オハナホロホロ」1巻

「オハナホロホロ」1巻

「鳥野さんは同人誌を長く描かれていて、ご自身の得意なことを体得して来られた方です。そうした中で、暮らしもの、家族の人間関係を描くと決められて、連載が始まりました。マンガも小説もすごく読まれていて、本当に新人離れしている方だったと感じています」

作品のヒットを後押ししたのは、新人・梶川氏の”仕掛け”だった。

「発売前に書店さん向けの販促会を開いて、店頭で推してもらえたことが1つ。そして、鳥野さんがアシスタントをしていた縁で人気の作家さんに帯コメントをいただいたことで、いい作家が出たと世の中に気づいてもらえたことですね。担当作で初めて単行本を出せて、ヒットしたことがすごくうれしかったです」

初単行本で、ここまで戦略的に仕掛けることができたことに驚く。つまりは、書店営業の経験がものを言った。

「営業時代からの書店さんとお付き合いがあり、マンガが好きな書店員さんを存じ上げていたので、『君がマンガ編集になって1冊目の本だから協力してあげるよ』と言っていただけて。皆さんに集まってもらって、旗艦店になってくださるようお願いする販促会を開催しました。

ただ、集まってくださった方に『どの層に向けて売るの?』って聞かれたときに、私は『えっ? こんな面白いマンガみんな好きじゃん』としか答えがなかったんです(笑)。本当に全部の層にウケると思っていたのですが、話し合いの中でうまく答えを導いていただき、『女性向けでほんわか好きの人へ』とか、『家族ものや暮らしものが好きな層を狙う』というふうに言語化できました。ただ、今考えると新人編集がどこ向けかも考えずに書店会をやったと思うと、怖すぎるなと感じます(笑)」

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町麻衣の忘れられない一言と、作家の経済

読者の反応

宇仁田ゆみ @unita_y

とにかくあかるい梶川さんのインタビューおもしろかったです。
彼女はあんまり編集さんでは見たことないタイプなのだけどめちゃくちゃ信頼できる方で、入社されたころからずっとお世話になっています。何度「おつよい…」と思ったことか。 https://t.co/joO0vB4zSQ

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