アニメスタジオクロニクル No.1 J.C.STAFF 宮田知行

アニメスタジオクロニクル No.1 [バックナンバー]

J.C.STAFF 宮田知行(代表取締役会長)

「少女革命ウテナ」が変えた会社の命運

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アニメ制作会社の社長やスタッフに、自社の歴史やこれまで手がけてきた作品について語ってもらう新連載がスタートした。多くの制作会社がひしめく現在のアニメ業界。各社がどんな意図のもとで誕生し、いかにして独自性を磨いてきたのか。会社を代表する人物に、自身の経験とともに社の歴史を振り返ってもらうことで、各社の個性や強み、特色などに迫る。第1回に登場してもらったのは、J.C.STAFFの代表取締役・宮田知行氏。「少女革命ウテナ」や「とある」シリーズを代表に、膨大な数のアニメ作品を世に送り出してきたJ.C.STAFFが、現在のスタイルを作り上げるまでの道のりとは。

取材・/ はるのおと 撮影 / 武田和真

安心してアニメ作りをしてもらうために設立したJ.C.STAFF

J.C.STAFFと言えば多作のイメージを持つアニメファンもいるだろう。そのイメージは正しく、2022年放送作品こそTVシリーズが6本と比較的少なめだが、2021年は劇場版4本にシリーズもの11本と驚異的な数のアニメを世に送り出した。また2023年冬はTVアニメの放送延期が目立つクールとなったが、同社の作品は無事に完結している。

なぜ同社はこれだけの作品を安定して作り出せるのか。その秘訣は代表取締役・宮田知行氏が創業前から目指していた安定志向にあった。

「J.C.STAFFを作ったのはアニメ界に身を投じてから約10年後でした。その間、たくさんの作品に携わることができて自分としては充実していたのですが、実はずっと気になることがありました。それは若いアニメスタッフの労働環境の厳しさです。当時、東映ほか大手の5、6社は正社員制を敷き保険制度も整っていましたが、それ以外はほとんどフリーか、会社に所属していたとしても正社員ではなく業務委託という実質アルバイトで、『アニメが好きだからやりたい』という熱意を持った若者のエネルギーを3~5年で削ぎ取っていくような状況でした。

彼らも不満や苦しさはあっただろうけど大好きなアニメに関われることで相殺していたのか、劣悪な環境でもピュアで前向きにアニメ作りに取り組んでいた。そんな姿を見るにつけ『このままでいいんだろうか?』という疑問が湧き、僕らプロデュースサイドはアニメプロデュースと並行して若いアニメスタッフが安心して働ける基盤を作るべきだと考えました。それがホームページにも掲げられている会社創立理念の第一条『安定した経営基盤を築き、長期にわたり存続、発展を続け、社員に安心を保証し、未来を担保すること。』となったのです」

宮田氏は「若者の労働環境が厳しかった」と他人ごとのように語るが、自身もアニメ業界で相当なハードワークをしていた。それはJ.C.STAFF設立までの軌跡にもつながっている。

「僕が業界に入ったのは26歳。とにかく映像業界に飛び込みたくて右往左往していて、やっと入れたのがアニメの世界だった。だからやらされているわけでなく自ら求めてのハードワーク、全力投球なので、ほかの若者とは少し意味が違うかと思います。右往左往というのは、もともと僕は実写志向でシナリオ講座に通いながら映画会社への就活をしていたのですが、日本映画は昭和30年代、40年代の輝きを失い斜陽産業となっていた。新人のライター志望者などが入れる状況ではありませんでした。

宮田知行

宮田知行

その頃、僕は東京の福生市にある、当時は『外人ハウス』と呼ばれていたベトナム帰還兵の住宅に住んでいたのですが、たまたま近所に竜の子プロダクション(現タツノコプロ)でキャラクターデザイナーとしてブレイクしつつあって、当時『天野ちゃん』と呼んでいた天野喜孝氏が住んでいたんです。そして彼の紹介でタツノコプロ企画文芸部の入社試験を受けられることになり、なんとか入社できました。後で知ったのですが、当時のタツノコプロ文芸部は錚々たる先輩たちがいて、人を募集しているわけでなく試験を受けることさえも難しかったらしい。だから天野ちゃんと出会い、彼の紹介がなければ今の僕はなかった。感謝です。志望していた映画界とは少し異なる分野でしたが、ようやくシナリオ関係というクリエイティブな仕事に就けたことも大きな喜びでした。でも、そこからはジェットコースターのような人生になりました(笑)。

めでたく竜の子プロダクション企画文芸部に入れましたが、26歳の最年少社員なので、お茶くみや掃除、コピーなど雑用は一切僕の仕事。少しでも粗相があると部長に怒鳴られる。プロットや企画書の一部などを担当しても出来が悪ければ『書き直し』のひと言。雑用でも文章関連の仕事でも、合格レベルでなければ部下扱いされないどころか完全無視の厳しい部署でした。そのときは『なんなんだ!?』と思ったりしましたが、その後の自分の仕事に取り組む姿勢の原点になっています。物作りの仕事は四の五の言っても駄目、結果が出せなければ一人前扱いされない。業界でも有名だった鳥海(尽三)部長ほか先輩たちには本当に感謝してます」

竜の子プロダクションに入社した宮田氏は、企画文芸部の仕事から始まり、作品プロデュースも手がけていく。同社への在籍は6年ながら、相当にハードで濃密な時間だったようだ。

「企画文芸部のメインの仕事は、オリジナル企画を立ち上げ、最終的には企画書を作成することです。『ガッチャマン』『みなしごハッチ』など、当時のタツノコ作品はほぼオリジナルで、原作はタツノコプロ企画文芸部となっていたはずです。次に重要な仕事は文芸担当です。文芸担当というのは事前にまとめたシリーズ構成に沿って話数ごとにそれぞれの脚本家に発注し、何回かのリテイクを通し決定稿まで導く仕事です。

僕はその後プロデューサーも兼務するようになり、ものすごい仕事量になりました。例えば新企画を作るために何人かで箱根の旅館に缶詰になっていたときは、自分だけ朝一番のロマンスカーで都内に出て、TV局、代理店、スポンサーなどと打ち合わせし、夜、箱根に戻り徹夜で受け持ち分をこなしていた。また当時のTVアニメはゴールデン枠が主流なので必然的に局や代理店、スポンサーの意向が強く、それぞれの思惑があって非常に複雑な“おじさんの世界”でした。そこに28、9歳の若造が飛び込んで、おじさんたちの要求と現場スタッフの思いの間で調整するわけだから大変なストレスだった。

そうしたハードワークとストレスのおかげで胃潰瘍になり胃の3分の2を取りましたが、手術の10日後には会社にいました。続いて働きすぎからくる疲労から駅で動けなくなり、救急車で運ばれたところ急性肝炎ということでまたまた入院。それでも短期間で復帰して、今度はかなり大きな円形脱毛症になり、黒マジックで塗ったりしながら仕事をしていました。周囲にはバレバレでしたけど(笑)。そんなことが続いても当時は風邪ひいたくらいの感覚で必死にがんばってました。今思うと変ですよね。竜の子にはわずか6年の在籍でしたが、ジェットコースターに乗ったようにたくさんの企画に参加し、たくさんの作品のプロデュースに関わりました。嵐に巻き込まれたような忙しさでしたが今の自分の原点であり土台だと思っています」

“本物の”オリジナルアニメ「街角のメルヘン」

その後、宮田氏はプロデュース会社のキティ・フィルムに在籍することに。ここでは竜の子プロダクション時代と違ったアニメとの関わり方を模索する。

「キティ時代は新しく始めたことが2つあって、その1つは自分直轄のキティ・フィルム三鷹スタジオを立ち上げたことです。そもそも竜の子時代は局や代理店、スポンサーとの調整役が主で、監督などプリプロダクションスタッフとは関わっていましたが、制作現場とは隔たりがありました。だから今度は現場の近くにいたいという思いがあったんです。だからキティ移籍に際して、自分直轄のスタジオの設立を条件に出したし、おかげでキティ移籍後の最初の作品『みゆき』では現場も含めてすべてを統括できました。今で言う企画営業プロデューサーと制作プロデューサーを兼務するという1つの夢が実現したんです。ちなみに『みゆき』は主題歌の『想い出がいっぱい』も売れたし、主役として抜擢した荻野目洋子も世間に認知されたのでビジネス的には大成功でした。

現在のJ.C.STAFFの社内。

現在のJ.C.STAFFの社内。

2つ目はOVAを手がけたことです。キティ・レコードなどのキティ・グループの総帥である多賀英典氏から『2000万円預けるから何か作れ』という話をいただいたんです。そこで作ることにしたのが、当時はそんな概念もなかったOVA。レコードと同じ発想で、TV放映とは関係ないオリジナルの作品をビデオパッケージにして直接ユーザーに販売するという仕組みです。それまでTV局や代理店が決めた枠組みのなかでアニメを作ってきましたけど、完全に自由に作るという経験は初めてでした」

そんな経緯で作られることになった、宮田氏にとって初となる“本物の”オリジナルアニメ。彼が旧知の仲間とともに制作したその作品は、OVA「Radio City Fantasy 街角のメルヘン」として世に送り出される。

「企画とプロデュースを宮田、脚本を『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の原作者・首藤剛志、監督を『みゆき』の西久保瑞穂、キャラデザインを天野喜孝、その他のスタッフも信頼するクリエイターを集めてOVA第1作(と思っていた)として満を持して制作を開始したんです。美術監督は小林七郎さんで素晴らしい背景でした。古い友人の天野ちゃんのキャラクターデザインも最高でした。原案は、当時の売れっ子ライターであり親しい友人であった首藤くんの初恋。まだ都庁はできていなかったけど、新都心として注目を集めていた新宿西口駅から近くのストリートまでだけを舞台に展開される、思春期から青春にかけての戸惑いや夢、挫折……そうした、当時のアニメにはなかった等身大の青春ものです。

少しでも制作費を節約したかったので、西久保、首藤、宮田の3人で新宿ワシントンホテルの超狭いシングルルームで額を合わせるように3日間こもり、ストーリーボードを練りに練りました。子供向けでない、何の制約もない、映像やストーリーそのものを評価し、購入してもらうというアニメ界初めての挑戦に燃えていました。OVA第1作こそ1983年に発売された押井守氏の『ダロス』に譲ったものの、1984年には満を持して『Radio City Fantasy 街角のメルヘン』を発売しました。でも結果は今ひとつ。ただし自由な発想で作りたいものを作って世に問う。その興奮と挫折が『もう一度挑戦してみたい!』という思いにつながり、のちのOVA専門アニメスタジオJ.C.STAFF設立に至りました」

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会社の基礎作りをしながら、プロデューサーとして精力的に活動

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ANIME SEIYU @animeseiyu

「アニメスタジオクロニクル 第1回」J.C.STAFF 宮田知行(代表取締役会長)「少女革命ウテナ」が変えた会社の命運
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