SPAC「冬の特別公演」より 笈田ヨシ&宮城聰が語る「Le Tambour de soie 綾の鼓」「夢と錯乱」、そして三島由紀夫

SPACが、「冬の特別公演」と冠し「Le Tambour de soie 綾の鼓」と「夢と錯乱」の2作品を同時期に上演する。「Le Tambour de soie 綾の鼓」の演出・振付・出演をダンサーの伊藤郁女と共に担うのは、フランスを拠点に世界を股にかけて活躍する笈田ヨシ。一方の「夢と錯乱」は、クロード・レジへのオマージュとして、宮城聰が美加理と共に立ち上げる。“言葉と身体”の関係性を軸に2人の話はどんどん膨らみ、三島由紀夫との思い出や舞台芸術家としての矜持など、さまざまな話題に広がった。

取材・文 / 熊井玲

言葉と身体の“ハーモニー”を目指して

──9月に行われた「冬の特別公演」の会見(参照:演劇を通して“自分とは異なるもの”見つめて、SPAC「秋→春のシーズン」&「冬の特別公演」)で、宮城さんはかつてフランスで公演した際に笈田さんから言われた言葉が印象に残っているとおっしゃいました。改めて、それはどんなことだったのでしょうか?

宮城聰 まさにあのときのヨシさんの言葉を励みに、僕はこれまでやってきたところがあるんですけれども……。20年前くらいでしょうか、バスティーユでやった公演をヨシさんが観に来てくださったんです。そのときにヨシさんが、僕の“二人一役”の芝居を観て「君は何で動きとセリフを分けたの?」ってお聞きになったんです。僕はそのとき「現代を生きている人間は言葉と肉体、つまりロゴスとパトスが分離してしまっているから、分離したままの状態を見せるほうが観客にとって誠実な在り方だと思うんです」とお話ししました。そうしたらヨシさんは「それはわかるけど、俳優っていうのは最終的にはハーモニーでしょ」って、両手で丸く円を描きながらおっしゃって(笑)。そのときに、「今はまだ自分はその域には達しないけれども、いつかは言葉と身体のハーモニーが表現できる地点に行きたいものだ」と思ったのですが、今回の「冬の特別公演」は、そのときのヨシさんの言葉がきっかけになって思いついたところがあります。僕も60歳を過ぎ、言葉と動きを分けるのではなく、言葉と動きを一緒に引き受けることをやってみようかなと。それで“ダンス・シアター”「Le Tambour de soie 綾の鼓」と「夢と錯乱」のカップリングを企画しました。

笈田ヨシ 宮城さんがおっしゃった言葉と身体の分離は、ある意味で正しいかもわからないですね。以前やった「チベットの死者の書」では俳優がテキストを話し、ダンサーが動くという演出だったのですが、お客はセリフを理解しようとすると踊りが目に入らなくなるし、踊りを観ているとセリフが頭に入ってこないという具合で、言葉と動きが同時に行われると両方を観ることが難しかったんです。能楽でも、大事なセリフのときに役者は動きませんし、宮城さんはオペラの演出もされているからよくおわかりになると思いますが、オペラでも観てほしいところと聴いてほしいところはどちらかが止まっていて、目と耳に同時に訴えかけるような演出はあまりしません。

世阿弥は、舞台でうまく演じられたときは「飛ぶ心地して」、つまり浮遊感を感じると書いています。よく、左脳は論理的な思考を行い、右脳は芸術的な分野に働くと言いますが、役者も言葉を話しているときは左脳を使っていて浮遊しない。でもメディテーションをやっているときは飛ぶ心地になる。良い役者は右脳と左脳を同時に使うことができるのかもしれませんが、それはなかなか難しいことだと思います。だから、宮城さんが「言葉と身体が分離している」とお考えになったことも、そしてまた今度はそのハーモニーをやってみようとしていることも、どちらも正しいと思いますね。

伊藤郁女と繰り広げる“ダンス・シアター”「綾の鼓」

宮城 今回ヨシさんが演出・振付・出演される「Le Tambour de soie 綾の鼓」は、能の曲目「綾鼓」と三島由紀夫の「近代能楽集」に収録された「綾の鼓」から着想を得て、新たに書かれたテキストが用いられますが、能そのものではないにせよ、能の考え方も作品に持ち込まれるのですか?

「Le Tambour de soie 綾の鼓」クリエーションの様子。©Tatjana Jankovic

笈田 持ち込むというか、僕は能楽を勉強していたものだから、演出する際に能のいわゆるシンボリズムとかミニマリズムを意識して、お客にどんな想像力を持ってもらうかを考えるんですね。今回は伊藤郁女さんが僕と一緒に踊りたいと言ってくれて、僕は生まれてこの方、舞台で踊ったことがないからやろうということになったんですけど(笑)、年寄りの男と若い女の関係を描いたものが小説にも戯曲にもあまりなくて、それで行き着いたのが「綾の鼓」だったんです。三島先生は、西洋の戯曲はウィリアム・シェイクスピアであれジャン・ラシーヌであれ、現代の演出で作り直すことができるけど、日本の能楽とか歌舞伎のテキストは演出を含めての古典であって、テキストだけでは自立できないという考えをお持ちでした。なので、古典を自立したテキストにするという思いで、先生は1960年代に「綾の鼓」をお書きになったわけですけど、僕はそれからさらに60年経った今、“近代能楽”ならぬ“モダン能”と名付けて演出しています。

宮城 なるほど、三島さんは能楽を、演出を除いたテキストとしては、近代芸術として自立していないと思っていたんですね。そのような思いで三島さんが書かれた「綾の鼓」に、ヨシさんが今、身体を注入するというのは、面白いですね。

笈田 肉体の存在の意味を、どう考えるかということでもありますよね。能楽の役者は、初めは型ばかりが目立って見えますが、うまくなってくると型が見えなくなって人間が見えてくる。日本の新劇は、言葉言葉で、身体よりも言葉に重きが置かれ、言葉で人間を見せようとしてきた。一方で、宮城さんは肉体の美しさをベースに置きつつ、人間を見せるということに取り組んでいて、それは大変な仕事だと思います。1959年の「文藝春秋」で、「舞台俳優ベストテン」という企画があったんですけど、一番は狂言師の善竹彌五郎さんでした(編集注:1883年~1965年。大倉流狂言方の能楽師。人間国宝)。善竹彌五郎の舞台というのは、最初に出てきたときは狂言のフォームでセリフを言っているんだけど、観ているうちにそのフォームを忘れてしまって、“人間”しか見えてこなくなるんです。文楽でも、良い人形遣いだと人形の後ろにいる人間は見えてこなくなりますが、そのように型を超えることができるのが、素晴らしい役者の仕事と言えるのではないかと思います。ただその“ハーモニー”は、なかなか大変なことですが。

──「Le Tambour de soie 綾の鼓」は2020年にアビニョン芸術週間で初演されました。今回の日本での上演に向けて、新たに変えたことはありますか?

「Le Tambour de soie 綾の鼓」クリエーションの様子。©Tatjana Jankovic

笈田 一番の問題はテキストを日本語にするかどうかでした。我々は日本人だから、日本で上演するのにフランス語でセリフを言うのはどうかとも考えたのですが、結局フランス語のままでやることにしました。というのもテキストを書き下ろしたジャン=クロード・カリエールがこの戯曲を書いたあとに亡くなって、このテキストが彼の最後の戯曲になってしまったんですね。それと戯曲の最後に詩のようなものが入っているのですが、それを翻訳することが不可能だと思いました。また、内容的には、フランスのとある劇場にやって来た日本の若いダンサーに、僕演じる劇場の掃除番が憧れるという話で、こちらではアジア人同士であってもフランス語を話していて、フランス語で対話することに僕たちの中では違和感がなかったので、フランス語のままやることにしました。

──共演の伊藤郁女さんからは、どんな刺激を受けていますか?

笈田 伊藤さんは僕の孫みたいな年ですから(笑)、若さのエネルギーは刺激と言えるかもしれません。ただダンサーとしての動きの素晴らしさという点以上に、存在感というか人間的な魅力がある人で、そこをお客様にも楽しんでいただきたいです。僕は舞台に立つ者として、目に見える肉体を通して、目に見えない感性や美、ポエジーをどれだけ表現できるかを常に考えているんですけど、彼女にはある意味、肉体を通り越したものがあると思います。

「夢と錯乱」で試みたいのは、言葉と肉体の調和

──宮城さんは今回、クロード・レジへのオマージュとして「夢と錯乱」を上演します。レジ版「夢と錯乱」は2018年に静岡でも上演されましたが(参照:「ふじのくに→せかい演劇祭2018」プレス発表会、宮城聰がラインナップに自信)、数あるレジ作品の中で「夢と錯乱」を選んだのはなぜですか?

「夢と錯乱」クリエーションの様子。

宮城 「夢と錯乱」はレジさんが最後の作品と宣言して演出された作品です。レジさんは自分の作品の本番は、たとえ何度も上演している作品であったとしても必ず立ち会う方でしたが、「夢と錯乱」がツアーしていた頃はパリの高齢者施設に入っていらっしゃって。僕も2度ほどその施設に伺って、レジさんとお話をしました。1回目に訪問した頃はまだお元気でお話もできたのですが、2回目のときはレジさんはもうあまりしゃべることもなく、みんなの話を聞いている様子だったのですが、あるとき突然「あなた、『夢と錯乱』の演出をするんでしょ」っておっしゃったんです。それはきっと何かの勘違いで、そのとき周囲にいた人たちも「いやいや、『夢と錯乱』の演出をしたのはあなたでしょ」と打ち消していたのですが、僕には「君、演出しなさい」って言われたような気がして、自分にとって必然性があることかもしれないと思い、それでやってみようと思ったんです。

笈田 「夢と錯乱」って戯曲ですか?

宮城 ゲオルク・トラークルというオーストリアの詩人の自伝的な散文詩です。レジさんは2013年にSPACの俳優で「室内」を演出してくださいましたが、そのときからトラークルに興味があるというお話をされていました。

──普通の戯曲とは違うテキストで、宮城さんがどのように作品を立ち上げていくのか気になります。

「夢と錯乱」クリエーションの様子。

宮城 現代人の、言葉と肉体が乖離している状態をどうやって統一し調和させるかという試みをしたいと思っています。でも“言葉と肉体の調和”という完成形が表現できるわけではなく、言葉と肉体が瞬間的に近づいたり、離れたりして、人間がトータルな存在に近づいていくプロセスをたどるような作品になればと思っています。

──その試みの同志として、美加理さんをキャスティングされたのはなぜですか?

宮城 動きとセリフを分けるという手法を一番最初に思いついて、実際にどうやって分けるかを手探りで始めたときに、一緒に試みた相手が美加理さんでした。そこから一巡りして、今度は言葉と身体のハーモニーが一緒にやれるかもしれないと思っています。


2021年12月9日更新