さまざまな“良い日”に生きる人々の物語を映画で伝えるプロジェクト「YOIHI PROJECT」の劇場公開作第2弾として製作された本作の舞台は、マタギの伝統を受け継ぐ山間の町。同地で消えつつある伝統文化を継承していく2人の若者が映し出される。高校を出て親の仕事を手伝う20歳の信行を杉田、信行の兄貴分である礼二郎を寛一郎が演じ、三浦誠己、占部房子、渋川清彦、小林薫がキャストに名を連ねた。
場面写真にはマタギの神事である「ケボカイの儀式」を行う信行と礼二郎の姿が切り取られている。2人は獲った熊を雪の上に横たえ、クロモジの枝で尾のほうからなで上げたあと、深々と一礼。そして熊の肉をさばき、その魂を山の神のもとへ返すという儀式を遂行していく。原作者の飯嶋和一は「熊の霊が天にのぼり、再び獲物となって現われるのを山の神々に祈念する儀礼である」と述べている。
安島は熊を探してひたすら雪山を歩く2人の表情をイラストで表現しており、「ある瞬間獲物が目前に現れる。今までの退屈が嘘のように興奮が体にみなぎり始める。この感じ…『この映画は現実だ!』そう思いました。生々しいにも程がある」とコメント。「ともぐい」で直木三十五賞を受賞した作家の河崎秋子は「雪山を歩む足音や勢子としての咆哮、そして無音の眼差しによってこそ雄弁に語る姿に圧倒された。彼らが得たものは人間の秤では量ることができず、きっと熊の血の色をしている」とつづった。写真家の石川直樹、ジャーナリストの丸山ゴンザレス、猟師・作家の
※河崎秋子の崎は立つ崎(たつさき)が正式表記
安島薮太 コメント
若い猟師が無様で不格好にノタノタと、延々と続く木立の中を淡々と歩く。
そこにフワッと息を飲むような美しい風景が浮かび上がる。
名残惜しいが先に進む。
寒空の下獲物を待つ。ただ静かに待ち続ける。しんどく、退屈だ。
ある瞬間獲物が目前に現れる。
今までの退屈が嘘のように興奮が体にみなぎり始める。
この感じ…
「この映画は現実だ!」そう思いました。
生々しいにも程がある。
石川直樹(写真家)コメント
狩猟でも登山でも、一度山に入るとその大半は黙々とした歩行である。
でも、そのとき人は、ずっと静かな熱を帯びている。
本作にはそんな緊張感を伴う静かな炎が途切れることなく漂っていた。
河崎秋子(作家)コメント
禁猟令が出ていても、年長者に咎められても、若者二人が敢えて「熊を撃(ぶ)つ」。
雪山を歩む足音や勢子としての咆哮、そして無音の眼差しによってこそ雄弁に語る姿に圧倒された。
彼らが得たものは人間の秤では量ることができず、きっと熊の血の色をしている。
丸山ゴンザレス(ジャーナリスト)コメント
山を守り自然と付き合う術を知る人々。彼らの存在はむしろ自然の側に近い。
だからこそ生まれる葛藤や苦悩は我々がどのように自然と付き合っていくべきかを否応なく考えさせる。
千松信也(猟師 / 作家)コメント
猟というと獲物と直接向き合う緊迫したシーンが想起されがちだが、実際はひたすら獲物を求め山を歩き、痕跡を探り、思索・葛藤することに99%の時間が費やされる。
この映画ではそんな“当たり前”の営みが懇切丁寧に描かれている。
猟師の立場としては、とてもしっくりくる作品だった。
永沢碧衣(絵画作家)コメント
大地全てを包み込んだ白雪を、マタギは慎重に踏みしめる。ひとつの足音が、遠くのどこかで雪崩を引き起こさないように。上手に、密やかに、生き残り続ける。
だが、つい願ってしまうのだ。焦燥感に駆られた彼らが飲み込んだ、澄みきった青さや熱く滴る赤との出会い。
山からの授かりものとの大切な繋がりを、無かったことにしたくはないと。
飯嶋和一 コメント
山岳の神々に捧げられた映像詩
飯島将史監督の肉声は、殊に原作にはない「ケボカイ」の儀式から伝わった。ケボカイは、マタギが獲物を解体する時に行なわれる。ほふった熊の頭部を川下に向けて置き、剥いだ毛皮を数人が持ち上げて、持ったまま頭の皮を尻に、臀部の皮を頭部へと回し、体の肉に覆い被せる。熊の霊が天にのぼり、再び獲物となって現われるのを山の神々に祈念する儀礼である。マタギにとって深山の狩場は霊場であり、樹木や獲物となる鳥獣にも神が宿る。この映画には、明治時代以降、我々が進んで失ってきた自然への畏敬と共生への願いがこめられている。
Ito Happy art @happy_ito
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