「日日芸術」の
本作は、名古屋の画家・
伊勢は「午前中1時間だけの撮影は、2時間3時間…と伸びていった。2泊3日で撮影したこともあった。カメラはただただ回り続け、西村一成の日常は1本の映画になった。映画のタイトルは一成さんの甥っ子がつけたあだ名にした」と語る。内田は「ISSEI画伯と伊勢監督の二人が、深海へ潜るように心を通わせている」「これほどまでに雑音のないドキュメンタリーを見たことがない」とコメントした。
※河瀬直美の瀬は旧字体が正式表記
映画「かいじゅう」予告編
内田也哉子 コメント
ISSEI画伯と伊勢監督の二人が、
深海へ潜るように心を通わせている。
片耳がちぎれた猫の涙は、
したたる絵の具となり、
ジェントルモンスターの絵筆と戯れた。
切実に生まれつづける絵々は、
唸り声と掻き鳴らされたギターのまにまに
うっとり身を委ねている。
「私たちの人生っていったいなんだろう」
これほどまでに雑音のないドキュメンタリーを
見たことがない。
伊勢朋矢 コメント
一成さんと僕が初めて会ったとき「午前中なら調子がいいから、大丈夫かもしれない」と一成さんは言った。夕方は苦手らしい。不安になるという。だから最初は「午前中の1時間くらいだけ撮影しましょうか。無理して絵を描かなくてもいいですよ」そんな約束をして別れた。
撮影初日、一成さんは絵を描かなかった。ただお互いの好きな音楽の話をした。僕も音楽は好きだが、一成さんはさらにマニアックだった。その日は気に入ったCDを1枚借りて帰った。帰りがけ「次はいつ来るの?」と一成さんが言った。2週間後にまた来る約束をして、その日は帰った。
2週間後。朝カメラを持って訪ねると、一成さんは縁側でタバコを吸っていた。猫の“ちくら”は一成さんの側でじっとしながら「なんだコイツ」と僕を見ている。一成さんはふぅーっとタバコの煙を吐くと、立ち上がり耳栓をしてから、巨大なキャンバスの前にゆっくりと歩いていった。そしてキャンバスの前に立ち止まると、長い間黙って宙を見つめている。「何が起きるのだろうか?」突如、一成さんが絵筆を握り立ち上がる。唸り声を上げながら、アクリル絵の具をたっぷりとつけた筆をキャンバスに叩きつける。なんだかわからない模様がキャンバスに現れる。一成さんは唸り声を上げて、何度も何度も絵筆を振るう。夢中になって撮影していると… いつのまにか、キャンバスには「顔」のようなものが浮かびあがり、その目は僕をじっと見つめていた。「お前が俺を撮るように、俺もお前を見ているぞ」と言っているようだった。一成さんが家族以外に創作の現場を見せたのは、この日が初めてだったという。
あれから1年、僕は西村家に通い続けた。午前中1時間だけの撮影は、2時間3時間…と伸びていった。2泊3日で撮影したこともあった。カメラはただただ回り続け、西村一成の日常は1本の映画になった。映画のタイトルは一成さんの甥っ子がつけたあだ名にした。
西村一成 コメント
「描くことについて」
僕は日々ひたすら絵を描きつづけている。呼吸し、食べ、排泄し、眠るのと同じようにだ。線は僕の肉体の延長としてうねり、色は僕の精神の明滅を強烈に映し出す。それは世界との直感的な交錯によって瞬発的に繰り出される。描きあげた末に僕は疲れ果てて倒れ込む。そのとき絵は、僕と不可分な、一人の人間のナマの姿だ。しかし決して個人的な表現として完結はしない。人は抗うことのできない天変地異の世界を生き抜いているが、いかに時空的に隔たっていようとも、その波動は今ここに伝わってくる。僕にできることといえば、その波を感受し、祈ることしかない。だから僕の絵の中に彫り出される図像は、祈らずにいられない根源的衝動が形づくる現実だ。どんな状況であれ、人はこの世界を必要としている。僕も日々ひたすら世界を感じつづけている。僕自身と、そして誰かの生(せい)のために。
原マスミ @hara_masumi
<明日>
明日7/4(木)、新宿K's cinemaで上映中の映画『かいじゅう』のアフタートークに伊勢朋矢監督と登壇します。16:15回上映後
https://t.co/uL9RXnvPov
https://t.co/AOUNmLR3S0