2015年12月に逝去した
1926年に東京で生まれた安藤は、1950年代に渋谷を本拠地とした安藤組の初代組長として名を馳せ、1958年に横井英樹襲撃事件で服役。出所後は自らの手記をもとにした1965年公開の「血と掟」で俳優へ転身を遂げ、原案や企画などさまざまな立場からも映画作りに関わった。
この「お別れの会」の発起人を務めたのは、降旗康男、
続いて、安藤の主演作に数多く出演した俳優の堀田も弔辞を述べる。“おやじさん”と生前の呼び名で安藤へ語りかけ、「信義耐」という安藤に教わった“信用、義理、忍耐”を指す言葉を振り返った。そして献酒の際には梅宮が登壇。「昭和の映画スターがいなくなってしまうのは寂しいです。どうかそちらの世界でもお元気で」と安藤へ呼びかけた。
その後の囲み取材には、安藤と親交のあった北島三郎も出席。安藤とは歌手デビュー前の渋谷で“流し”をしていた頃に出会い、映画や舞台でも共演したとのこと。「その映画は任侠ものでした。皆さんおっしゃるように、安藤さんは澄み切ったような目をしていらして。やはり、目の素晴らしさがありました」と述懐したほか、知り合った当時「おい坊主、がんばってやれや」と声をかけられたこと、デビュー後映画の撮影所で会ったときは「サブちゃん」と呼ばれたことなども明かした。
また、岩城と村上も囲み取材に参加。安藤の自伝をもとにした実録ヤクザ映画「渋谷物語」に主演した村上は「デビュー当時に東映カレンダーで安藤さんの写真を拝見し、どういうお方なのか聞いてすごく印象に残っていました。目つきや気配がほかの方と違っていて。あとから、『渋谷物語』キャスティングの際に安藤さんが『村上くんの目がいい』とおっしゃっていたと聞いて、感動しました。作品自体も目を意識して演じたつもりです」と話す。また安藤と40年以上の付き合いだった岩城は、昨年末も電話で「近いうちに顔を見せに行きます」と話していたという。そして「『普段どうやって生きているかが演技に出るんだよ』、とよく話されていました」と安藤の言葉を紹介した。
なお青山葬儀所にはファン向けの焼香所も設けられ、多くのファンが来場していた。
関連記事
安藤昇の映画作品
関連商品
前田慶次 @kabusuki777
安藤昇お別れの会に梅宮辰夫、中島貞夫、岩城滉一、北島三郎が参列 - 映画ナタリー https://t.co/cxCCXMZc1s