アニメ制作会社の社長やスタッフに、自社の歴史やこれまで手がけてきた作品について語ってもらう連載「アニメスタジオクロニクル」。多くの制作会社がひしめく現在のアニメ業界で、各社がどんな意図のもとで誕生し、いかにして独自性を磨いてきたのか。会社を代表する人物に、自身の経験とともに社の歴史を振り返ってもらうことで、各社の個性や強み、特色などに迫る。
第19回に登場してもらったのは、タツノコプロの伊藤響氏。タツノコプロの11代目社長である伊藤氏は、日本テレビ出身で「それいけ!アンパンマン」の初代プロデューサーでもある人物だ。「吉田竜夫という天才の思いをどう引き継ぐか」という思いのもと同社を牽引する伊藤氏に、変わらず続いているタツノコプロの伝統、そして「プリティーシリーズ」を代表とする、愛される作品を生み出していける理由に迫った。
取材・
セル画がどこで売ってるかもわからない状態から
タツノコプロは数多いアニメスタジオの中でも屈指の長い歴史を持つ。この老舗スタジオは、1962年10月19日にマンガ家の吉田竜夫が2人の弟とともに設立した。
「当初はマンガのプロダクションでしたが、あるとき、アニメの原案やキャラクターデザインをやらないか、という話が持ち込まれました。その話自体は結局実現しなかったんですが、せっかく設定などをいろいろ作ったので、と独自に制作したのが1965年に放送された第1弾作品の『宇宙エース』です。
ただ、それまで社内の誰もアニメなんて作ったことがなくて、そもそもセル画がどこで売ってるかもわからないくらいの状態だった。だから東映動画さんに3カ月ほどアニメーションの勉強に行ったマンガ家の笹川ひろしら数名が今度は先生となって、新しく募集したスタッフたちに教えながらアニメ制作を始めたそうです。そして、徐々にアニメの制作に注力していって、今に至ります」
この時期、インタビュイーである伊藤氏はまだ生まれてもいない。しかし演出家の笹川ひろしや吉田竜夫の長女でキャラクターデザイナーの吉田すずかといった今も社内にいる面々からの話や、会社に関する文献などから創業者の人柄を知ったという。
「吉田竜夫さんはカリスマ性と人間力の両方を持っていたようですね。『ガッチャマン』『タイムボカン』『ハクション大魔王』……多岐にわたる作品やキャラクターを生み出しているということを考えると、すごい天才だったんでしょう。ただ“孤高の天才”というわけではなく、優しさもあって周囲の人にすごく慕われていたみたいです。
仲良くさせてもらっているProduction I.Gの石川光久会長がタツノコ出身ということもあり当時のタツノコの話を聞かせてくれます。天野喜孝さんや大河原邦男さんといったレジェンドのドキュメンタリー番組の制作に立ち会った際には吉田竜夫さんの人柄を感じました。いろいろな形で、会社の歴史や吉田竜夫さんのすごさを感じています」
世界の幅広い人達に夢や感動を
30歳でタツノコを設立した吉田竜夫は、45歳で死去した。その後、三兄弟の次男である吉田健二や三男の九里一平が社長を引き継ぎつつ、2005年にはタカラトミーの傘下に。そして2014年に日本テレビ放送網の子会社となる。伊藤氏は同社からやってきた3人目の社長だ。
「私はタツノコの11代目社長です。就任前は日本テレビにいて、入社して最初の7年半ほどアニメのプロデュースをしていました。私の本当に唯一の自慢なんですけど、実は『アンパンマン』の初代プロデューサーで。私の上司が苦労して企画を通したものを入社2年目ながら任せてもらったのですが、やなせたかし先生が亡くなってからもこれまで35年以上続いているのは非常に感慨深いです。あとは『美味しんぼ』や『ルパン三世』など大きな作品にも関わらせていただき、いろいろと勉強になりました。
タツノコプロとは、当時はご一緒する機会はありませんでしたが、子供の頃からタツノコの作品は観ていたので憧れのプロダクションではありました。それに前社長や前々社長が日テレ時代の近しい後輩なので、彼らがタツノコの社長になった後も、苦労話やスタジオの様子などいろいろなことを聞いていました」
そんな伊藤氏がタツノコの社長に就任したのは2022年6月のこと。当時の伊藤氏には心に決めたことがあった。
「まずは吉田竜夫という天才の思いをどう引き継ぐかを考えました。彼は『世界の子供たちに夢を』という非常に強いメッセージを掲げましたが、今のアニメは世界に届いていて、さらに子供だけでなく幅広い人たちに夢や感動を届けている。そんな今だからこそ、往年の作品だけでなく、新しいキャラクター、新しいアニメーションというものにどんどん挑戦していくべきだと決めました。
例えば今、若い人と話をしていて『タツノコ作品が好きでした』と言われて『どの作品?』と聞き返すと、2011年から始まった『プリティーシリーズ』と答える人が非常に多い。世代によって触れる作品は全然違うし、だからこそ往年の作品を大事にしながらも新作を作り続ける必要があると感じたんです。
ただ、改めて考えると新作を作り続けるという姿勢はタツノコの伝統でもあるんですよね。セル画がどこで売っているのかわからないところからアニメを作り始めた挑戦心は、今でも非常に見習うところがあります。自分自身も、アニメだけでなくドラマや映画のプロデュースを長くやってきた中で、何か挑戦しないと結果は絶対に出ないとわかっているので、タツノコでもそうしたいと思ってやっています」
社員の思いを汲み取るため新設した企画開発室
社長就任後、伊藤氏はすぐに企画開発室を新設した。アニメはもちろん、さまざまなコンテンツを作ることに挑戦する部署だという。
「昔はタツノコも企画合宿をやっていたらしいんですよ。本社がある国分寺から少し離れ、みんなで気分を変えてワイワイ言いながら企画やキャラクターを考える。吉田すずかも幼い頃に連れて行ってもらったことがあるらしいんですけど。そういったセクションが欲しかった。これが企画開発室を作った理由の1つです。
あと私は社員全員が企画者だと思っているんです。だから誰かが何か思いついたらすぐに相談でき、企画がよければ実現に向けて動けるような部署も欲しかった。また、最近はアニメの供給も多いですが、それ以上に需要がすごいんですよ。国内だけでなく世界中から『こんなものを作ってほしい』という企画の持ち込みがあるので、どれを作るべきなのかきちんと精査するという役割もあります」
「甘いと言われるかもしれませんが、『世界の子供たちに夢を』といったメッセージを発信する会社なら、働く人はやっぱり笑顔でなきゃいけないし、夢を持ってないといけないし、未来を作り出そうとするエネルギーがないといけないと思うんです。もちろん、それぞれに忙しいから理想に追いついてない部分もあるだろうけど、会社全体としてはやっぱりそこを目指したいので、実現のための環境作り、雰囲気作りはすごく意識している……というか、それ以外は何もしてないですね(笑)。
自分は日本テレビ入社時に、どの先輩よりもテレビを観ている自信があって非常に生意気だったことを覚えています。でもちゃんと受け止めてくれるいい先輩、上司に恵まれたんです。当時ジブリ作品を担当していた奥田誠治という先輩がいるんですけど、入社して最初は彼に付いて実写映画の宣伝を手伝っていました。あるとき、宣伝のプロが作ったPRの映像を観た新人の私が『これじゃあ映画館にお客さんは入らないですよ』なんて生意気な発言をしたんです。すると奥田さんは『じゃあ1回作ってみろ』と言って編集室を1時間空けて作らせてくれました。でもできあがったのはやっぱり駄作で(笑)。でも実際に自分で作ってみて、いろんなことがわかりました。そんなふうに私は人に恵まれてきたし、ある別の先輩からは『先輩から恩を受けたら後輩たちに返せばいい』と、ちょっとカッコいいことを言われたので、今もそれを信条にしているのかもしれません」
リンク
和田みさき @wada_misaki
https://t.co/SmIeDrYOCI
>若い人と話をしていて『タツノコ作品が好きでした』と言われて『どの作品?』と聞き返すと、2011年から始まった『プリティーシリーズ』と答える人が非常に多い。
まぁ、ああみえて、プリティーはタツノコ最長シリーズだからなぁ。