マンガ編集者の原点 Vol.6 [バックナンバー]
「3月のライオン」「ふたりエッチ」の友田亮(白泉社キャラクタープロデュース部)
苦しみと同居するのが天才なら、天才なんていないほうがいい
2022年10月19日 15:00 9
マンガ家が作品を発表するのに、経験豊富なマンガ編集者の存在は重要だ。しかし誰にでも“初めて”がある。ヒット作を輩出してきた優秀な編集者も、成功だけではない経験を経ているはず。名作を生み出す売れっ子編集者が、最初にどんな連載作品を手がけたのか──いわば「担当デビュー作」について当時を振り返りながら語ってもらい、マンガ家と編集者の関係や、編集者が作品に及ぼす影響などに迫る連載シリーズ。第6回で登場してもらったのは、白泉社キャラクタープロデュース部に所属する友田亮氏。
取材・
しりあがり寿&祖父江慎と作った1冊目「カモン!恐怖」
友田氏は1992年に白泉社に入社。その年の5月に月2回刊のヤングアニマルが創刊となり、入社早々配属となった。新人研修が明け、最初に担当したのはサブカル界のスーパースター、
「当時の副編集長だった高木さんから引き継ぎました。その頃、しりあがりさんはまだ兼業作家で大手ビールメーカーにお勤めでしたね。原宿の洋食屋さんでよく打ち合わせしていました。当時、どちらかというと僕は少年ジャンプが大好きなタイプで、そこまでサブカル好きではなかったので、しりあがりさんのことは知っていたんだけど全体的に勉強不足だった。お会いして打ち合せはするんだけど、とんちんかんなアイデアを出して『そういうネタは昔いっぱいやったんだよなー』みたいなことを言われちゃったり(笑)。要するにダメダメだったわけです。ただ、しりあがりさんはものすごくよい方で、『新入社員なんて最初はこんなもんだろう』って感じで大きな心で接してくれたんだと思います」
創刊号から始まった連載は、「カモン!恐怖」というタイトルで1993年に単行本にまとまっている。しりあがりにとって5冊目の単行本で、ホラーをテーマにバカバカしくエキセントリックなギャグ作品が集結した、著者も大好きな一冊だ。「恐怖ものでギャグをやる」というコンセプトは最初から決まっていたという。
「連載時は『恐怖のマト』というタイトルだったんだけど、単行本にまとめるにあたり『カモン!恐怖』になりました。勉強になったのは、デザインが上がってきたときに『装丁でこんなに変わるのか!』とびっくりしたことですね。装丁を担当してくれたコズフィッシュの祖父江(慎)さんがすごく一生懸命やってくれたんですが、祖父江さん自身もすごく個性的な方で、話をしていて面白かった。もう30年くらい前の話ですが、今思い出しても自分は勉強不足だったので、本当にまわりの皆さんがよくやってくださったなあと感じます(笑)」
読者ハガキが縁をつなげた浅井裕「2人とも同じ絵を描けるんで」
同じ頃、作家への声掛けから含め、初めて自分で一から企画した作品も動き始めていた。1980年代からコロコロコミック(小学館)などで活躍していた浅井裕の「マーメイドガール」である。高校生男子と人魚の恋愛を描いた、王道のお色気ラブコメディだ。いわゆるハーレム設定のストーリーで、今では成年コミック以外ではあまり見かけないが、女性登場人物の乳首がけっこうな割合で衣服の上から透けており、時代の空気感が生々しく蘇る作品だ。
「当時のヤングアニマルって根本的に作家さんが足りなかった。それに、月2回刊で雑誌を出さないといけないのに、2号先の台割が3分の1くらい空いてる状態だったので、とにかく埋めていかないといけない。そして、しりあがりさんみたいなギャグマンガに加えて、僕もストーリーマンガをやりたいと思っていた。
編集部の新人は読者から届いたハガキの整理やアンケートの集計をするのが常で、アニマルでも当時一番下っぱだった僕の役目でした。そこに浅井さんがハガキを送ってきてくれて。名前はちょっと違ったけど、職業も『マンガ家』とあって連絡先も書いてあったので、電話してみたんですよ。当時浅井さんは、リイド社のコミックジャックポットという隔週のマンガ誌で『星の数だけ抱きしめて』というラブコメを連載していて、僕はそれを読んでいたんですね。
打ち合わせの場に行ったら、意外にも現れたのは女性でした。『女性の方が描いてるんですか?』と聞いたら『夫婦2人、同じ絵を描けるんです』と言う。月イチなら描けるかも、ということで連載が始まりました」
作家からの読者ハガキがきっかけで連載が始まるとは珍しいパターンだ。
「作家さんの連絡先って、今みたいにInstagramやTwitterを通じて聞けるわけじゃなし、誰も教えてくれないし、入手するのが本当に難しかったんですよ。だからどんなに細いツテでも頼らないと会えないんですよね」
浅井は、現在は夫の「
「90年代のエロマンガ事情について書いた本を読んでいたら、『マーメイドガール』を描いていたのは奥さんじゃなくて夫のもとゆきさんだったと書いてあって。もとゆきさんは対人関係が苦手だったので、対外交渉は奥さんに任せていたと。だから、結局描いている本人とはまったく打ち合わせができずに始まって終わったことになる(笑)。連載が終って10年くらい経ってから、もとゆきさんのことを知ったわけだから、まあ成功するには程遠かったんだなあと思います。
今回の取材を受けるに当たって『マーメイドガール』を久しぶりに読み返してみましたが、恥ずかしくてまともに読めなかった(笑)。若かったからしょうがないと思うんだけど、わかりやすすぎるよね」
その後、マンガ界の最先端をひた走ることになる友田氏にとって、超初期に担当した作品たちは甘酸っぱい思い出なのかもしれない。
「でも後悔があるわけじゃなくて。当時としては一生懸命やっていたし、自分の中ではあれ以上できなかった。しりあがりさんに関しては、大手ビール会社勤めの超一流サラリーマンだったので本当に時間がなくて、打ち合せも土日くらいしかまともに時間取れなかったんですよね。しいていえば、そこが後悔が残る点かな。だけど、今でも会えば親しくお話はできる関係なので、若かりし日にお世話になったことを感謝している存在です」
マンガを描くのってこんなにめんどくさいんだ!
さらに編集者人生において大きな影響を受けた担当作を2作品教えてくれた。まずは、1994年に発売された
「あろさんはもともと子供の頃から好きで、学生時代も『面白いギャグマンガを描く人だなあ』と思いながら、ずっと読んでいた作家さんなんだよね。僕が新人の頃は、月刊少年ジャンプで『ふたば君チェンジ♡』を連載したり、徳間書店でも描いていた。うちでもぜひお願いしたいと思って、当時、マンガ家の連絡先を集めた名鑑が出ていたので、そこに載っていた電話番号にかけてみたんです。そうしたら『はい、スタジオぱらのい屋です!』ってものすごい明るい声であろ先生ご本人が出て。当時あろ先生は、忙しくてこちらのオファーを受ける余裕はなかったんだろうけど、ヒーローものをぜひ描いてほしいという話を誠心誠意したところ、じゃあまずは読み切りで、と受けてくれました」
そんなきっかけで始まった「無敵英雄エスガイヤー」。どこにでもいる男子予備校生が、無敵英雄エスガイヤーに変身、3人の美女の力を借りて宇宙害虫と戦うというストーリーだ。主人公の名前は、なんと“友田涼一”。あと一歩で“友田亮”だ。
「なぜこの名前になったかというと、エスガイヤーになるのは地球上の任意の1人、誰でもいいわけです。あろさんと『じゃあ“友田亮”でもいいじゃん』という話になって(笑)。当時の編集長には『編集の名前がキャラとして出てくると、作品に甘くなるからよくない』とも言われたんだけど、意図と設定を説明したら、『じゃあ友田の名前そのままの“亮”じゃなくて“涼一”にしよう』となりました。
あろさんはとにかく原稿が遅くて(笑)。『ふたば君チェンジ♡』の担当さんも、単行本のおまけページでいかにあろ先生が遅いかというエッセイを書いていて、自分も大変だろうなって思ってはいたんだけど──どうも話を聞くと、あろさんは、1話分のネームは作らないと言うんです。じゃあどうやってマンガを描いてるんですか?と聞いたら、『原稿を1枚1枚描く』というんですね。ネーム兼下描きを描いて、そこにペン入れして原稿にする。それが終わったらまた真っ白い紙を前に考える──その繰り返しで。
ネームを事前に確認できないわけだから、こちらとしては怖いですよね。連載ならまだいいけど、初回は読み切りでモノクロ28枚の約束だったから、(28枚で)終わらなかったらどうしようという恐怖感があって(笑)」
ネームが作家の頭の中にしかない。ある程度枚数の自由がきく描き下ろし作品ならまだしも、ページ割がきっちり決まっている雑誌だ。いくらベテラン作家の作品とはいえ、ライブのようにぶっつけ本番で仕上がっていく原稿をそばで見ている新人編集・友田は、気が気でなかったであろう。
「ただすごく勉強になったことがあります。会社で仕事が終わってから、あろ先生の仕事場にお邪魔して、描いているのを見ていたんですよ。アナログ原稿ってどう描くかっていうと、まずネームを描いて、それを原稿用紙に写して鉛筆で下絵を描くんだよね。枠線を描いてペン入れをして、鉛筆の線を消すために消しゴムをかけて、背景を入れて……という一連の作業。僕は入社して1年くらい経ってこの読み切りを担当したんだけど、実はマンガを描いてる現場を見たのってこれが初めてだった。それで『マンガってこんなにめんどくさいんだ!』というのを思い知って。たとえ読み切り1本でも、飛行機の機内の背景を描くために、映画の1シーンを一時停止してアシスタントたちと相談しながら先生が描いているのを見て、マンガを描くことの大変さ、すごさを実感しましたね」
今ではマンガもデジタルでの作業が主流だが、アナログ原稿の大変さ、工程の多さは経験がなければわからないだろう。まだ新人の友田氏にとって、あろの仕事ぶりを観察できたのは貴重な経験となった。一方、ストーリーに関する打ち合わせはあまりなかったという。
「ヒーローもので行こうというコンセプト以外、打ち合わせはほとんどなかったですね。特にあろさんはしっかりストーリーを作る方だし、ベテランで本格的なSFもよく描いていたので、編集者の意見がストーリーに影響することはなかったと思う。結果的に『エスガイヤー』は1冊完結だけどよく売れたよね。ビジネス的にも成功して、できれば2、3と出したかった。だけどあろ先生のスケジュールもなかなか取れなくて1冊ぽっきりになってしまいました」
月の残業268時間、新谷かおる「砂の薔薇」
友田氏が新人時代に大きな影響を受けた担当作2作目は、
「これはすさまじく大変だったね。担当になったのは入社して1年経ってからなんだけど、ともかく新谷さんはべらぼうに遅い! 毎回金曜の朝が締め切りだったんだけど、前任の編集担当は火曜日くらいから会社では姿を見なかった。新谷さんのところに泊まり込んでずっと見張ってるんですよ。まあ、見張ってても描かないんだけど(笑)。
とはいえ、新谷さんはすごい人。当時僕はまだ24くらいで、先生が40代前半くらいだったけど、とにかくいろんなことを知っている。政治情勢からマンガ界の噂話までなんでもかんでもよく知ってて、しゃべり出すと止まらないし面白いし、『この人とずっと話をしていたい』って思っちゃうんだよね。ところが、仕事となると一切進まない。『次の回はこんな話でさ……』って説明されるとすぐに上がりそうな気がするんだけど、できないと。ともかく鍛えられたね。
その頃、1年目だけど『砂の薔薇』に『エスガイヤー』『マーメイドガール』『カモン!恐怖』も持っていたので、5本くらい担当していて。だから、火曜の夜までにほかの仕事を終わらせて、そこから新谷さんの家に行って終わるまで泊まる。そういう生活でした」
聞くだに過酷である。都合、火曜から最短金曜まではずっと新谷邸に泊まり込んでいたわけだ。
「でも実際は合宿みたいで意外と楽しくて(笑)。あるいはお祭りというか、僕にしてみれば修学旅行みたいな感じだったんですね。自宅兼仕事場に編集が寝られる泊まり部屋があったんだけど、そこにいると新谷さんが降りてきて、『ネームできましたか?』と聞くと『できてねえよ!』『ちょっとラーメンでも食いにいかねえか』って(笑)。先生はいろんな車を持っていて、『どれがいい』って聞くから、『じゃあこれでいきましょう』とか言いながら2人で出かけたりして、楽しかったんだよね。こちらの話もすごく聞いてくれたし、物知りだし、すごく気が合った。年も離れていたけどすごくかわいがってもらって、『マンガ家ってこういうふうにものを考えるんだ』と勉強になりました。
だからと言って原稿が早くなるわけではなく、毎度毎度間に合わなくて凸版(印刷)の板橋工場まで届けに行ったり。ほとんど先生の家に泊まり込んでるから、会社で勤務表に『9時半~33時』とか書くこともざらで……。一番残業した月で、268時間くらいだったかな(笑)」
今なら労働基準局がすぐさま飛んできそうな勤務時間だ。ほとんど1カ月間、まるまる仕事しているような状態だったのだろう。
「いろんな意味ですごくお世話になったなと思います。なにより、度胸がついた。ちょっとやそっと遅い作家さんにはびびらなくなった。例えば、今担当している羽海野チカさんも早いわけじゃないけど、僕にしてみれば羽海野さんは見てなくてもちゃんと描くから。新谷さんは目の前で見てても描かなかったんで(笑)、そういう意味では腹が座ったよね」
「どうあっても原稿が上がらない」という極限状況を、新人のかなり早い時期に経験し、印刷所とも相当やりあったという。「今は木でできたバターナイフみたいな人間になってしまったが、昔はジャックナイフのような男だった」と笑う友田氏の、熱い編集者時代である。
「当時、寝た記憶がない。家に帰ると気絶するように倒れて、起き上がってまた仕事に行く。そんな生活の中でも、本はよく読んでいましたね」
まさひこ@こち亀データベース管理人 @maxaydar
#3月のライオン あとがきエッセイ漫画で頼れる有能編集者として印象深いT田さんこと友田亮さん、納得感強い語りは一読の価値あり。過去には #あろひろし 先生の担当もなさっていたんですね https://t.co/RHpTyC6hxm