作家・演出家として、舞台、テレビ、映画と多方面で躍進を続ける加藤拓也。シス・カンパニーと3度目のタッグとなる今回は、イギリスで注目を浴びている劇作家ルーシー・カークウッドが2020年に発表した「ザ・ウェルキン」の演出に挑む。
舞台は1759年のイギリス東部・サフォークの田舎町。サリーは殺人罪で絞首刑を宣告されているが、妊娠を主張。妊娠している罪人は死刑だけは逃れることができるため、彼女が妊娠しているか否かを確かめるべく、助産師のエリザベスをはじめ出産経験がある既婚女性たちが陪審員として集められ……。
作品からさまざまな広がりや可能性を感じたという加藤に、その思いを聞いた。
取材・文 / 熊井玲撮影 / 平岩享
怒りのようなもので直接殴りつけてくるような脚本
──シス・カンパニー公演での演出は、2020年に上演されたオリジナル作品の「たむらさん」(参照:シス×加藤拓也の新作「たむらさん」明日開幕、橋本淳・豊田エリーが意気込み語る)、2021年の安部公房「友達」(参照:鈴木浩介は「怖すぎて笑える」、加藤拓也が大胆に切り込む「友達」開幕)に続き3本目となります。「ザ・ウェルキン」のどういったところに興味を持たれましたか?
まず直訳された台本を読んで、レジナルド・ローズの「十二人の怒れる男」(編集注:父親殺しの容疑に問われている少年の裁判で、12人の陪審員の男たちが議論を繰り広げるリーガルサスペンス)がベースにあると思いました。そしてそれを作者が女性に関するテーマに置き換えて再構築した作品だという印象を受けました。男性という性別に所属していると自覚している人間がこの作品を立ち上げていくことで見方が変わるとも。女性の演出家がこの作品をやる場合と、男性の演出家がやる場合とでは、お客さんの中にも異なるバイアスがかかると思います。ストーリーも良いと思いましたが、そういった劇場外の部分で、改めてジェンダーロールへの先入観に対して考えを張り巡らせることができるところも良いと思いました。お客さんには僕が男性という性別に所属していることは知れ渡っていて、実はそのバイアスがかかった状態で作品を観ているわけですが、そのことに気付いていない人はいると思います。
──加藤さんご自身が今まさに、筆に勢いが乗った作家ですが、本作を手がけたルーシー・カークウッドもまた、「チャイメリカ」(参照:「チャイメリカ」開幕に田中圭「セリフでは取りきれない本質を伝えたい」)や「チルドレン」(参照:「チルドレン」開幕、栗山民也「人間にとって必要な劇が生まれた予感」)など、現実に起きた問題を鋭く捉えたダイナミックな作風で注目を集めています。戯曲から、そのような勢いを感じたところはありますか?
当たり前ですが、僕とは違ったドラマを作る方だと思います。僕も怒りの手前にある感情から脚本を書き始めることもありますが、最終的にはいろいろなオブラートに包んでいく。でもこの脚本は、怒りのようなもので直接殴りつけてくるような部分があります。
──ほかの劇作家の作品を演出することで刺激を受けることはありますか?
僕は書きすぎてしまうところがあるので、自分以外の作家の思い切りの良さが良いなと思うことはありますね。
──そうなんですね。むしろ加藤さんの作品には、すべてを言い切らない、“余白の深み”を感じますが……。
いや、書きすぎです。
──また、加藤さんにとっては初の翻訳劇となります。
翻訳劇だからというより、自分ではない人の作品を演出する場合は、翻訳であろうとなかろうと、難しさがあります。
──「友達」では、一般的に使用される“改訂版”の戯曲に、原作となった小説や改訂前の台本のエッセンスを織り込み、新たな上演台本を作成されました。今回は?
そういうことはないです。この作品ではそうすることにあまり意味がないと思います。今回は、女性がわかりやすく表層的に押し付けられてきた役割、あるいは彼女たち自身が“自らそれを進んでやるべきだと考えてしまっていること”など女性に関するテーマが書かれていて、さらにその批判は1つの性別だけに向けられているものではないので、それらを見落とさないようにしたいなと思います。そして、それがこの物語の舞台である1759年から現在まで変わっていない、ということも大事なことの1つだと考えています。さらにそれが、彗星にたとえられているんじゃないだろうかとも思えます。
──“怒り”という点では、「チャイメリカ」は天安門事件、「チルドレン」は原発問題というように、フィクションを織り込みつつも、比較的現代の、現実的な問題に対する作家の思いがつながって感じられました。それに比べると「ザ・ウェルキン」は、“男性には不可能な妊娠の判断時のみ、妊娠・出産経験がある既婚女性たちが裁判に陪審員として参加した”という史実をもとにしていますが、時代設定が遠く怒りの対象も幅広く、寓話性も高いように感じます。カークウッドは2020年に、どんな思いをもって本作を書き上げたと思われますか?
どんな思いなのかは彼女に聞けばいい話で、聞けば教えてくれることを推測して、「ああなのかこうなのか」と頭を抱えるのは良くないことだと思いますが、“個人対社会”が“個人対もう少し抽象的なもの”、というものに代わった印象があります。
女性たちの価値観の多様さを俯瞰して観てほしい
──最初に加藤さんがおっしゃった通り、「十二人の怒れる男」を彷彿とさせる展開ですが、陪審員の女たちは、サリーが本当に妊娠しているかどうかを追求することより、それぞれに対する嫉妬や思い込みでぶつかり合い、互いをおとしめ合っていきます。
「十二人の怒れる男」は、少年の父親殺しという事件についてサスペンスがかかっていますが、「ザ・ウェルキン」は(大原)櫻子さん演じるサリーの事件に対してサスペンスがかかっていくというより、女性に対する偏見や、女性に押し付けられているものを、妊娠をしているかどうかを軸として、(吉田)羊さんが演じるエリザベスを中心に価値観を交わらせていくところが話の大半を占めています。
──女たちのやり取りは真剣で辛辣ですが、イギリスでの上演では笑いが起きていたと聞きました。
英語の台本を読むと笑える部分もあり、そこはイギリスの演劇らしく笑いも大事にされていると思います。ただ、日本語になったときにどうしても伝わらない部分があるとも思うので、その点は難しいなと思いますが……。
──そして審議の過程で、エリザベスの秘密が少しずつ明らかになり、彼女の内面にある葛藤も見えてきます。
性別によって押し付けられた役割に対し反発する部分がありつつ、でもそれを意識的にも、無意識的にも受け入れていることが描かれています。お客さんには現実世界でも考えることがあるように思います。
──12人の陪審員たちのキャラクターは、裁判が始まる前の“宣誓”のシーンや審議中のやり取りから色濃く感じられます。多くの子供を抱える者、多くの子供を亡くした者、夫への不満をにじませる者、年齢による身体の変化を感じている者、残してきた家事が気になって仕方ない者……。「友達」でも、家族8人を1人ひとり際立たせる演出が印象的でしたが、今回はどのように立ち上げていくのでしょうか?
特に僕から「この役はこういう感じで……」というような説明を(俳優に)言ったりすることはなく、「結果的にこういう人でしたね」という形で立ち現れてくるのが理想です。アプローチにはいろいろな可能性がありますし、僕1人で台本を読んだだけではわからないことも多いので、稽古場でトライアルアンドエラーを続けて考えていきたいです。
──バラエティに富んだ女性陣の顔ぶれにまずインパクトを受けますが、土屋佑壱さん演じる廷吏のクームス、田村健太郎さん演じるサリーの夫フレデリックといった男性たちの存在も、本作では非常に重要です。
クームスは、女たちが議論し合う傍らにずっと立っている、あの場で権力を持たない存在。男女の立場を逆転させ、男性であるクームスにそれを経験させるという構造がよくできています。フレデリック役のタムケン(田村健太郎)は好きな俳優です。いつか劇団(た組)で一緒にやりたいと思っていたのですが、今回先に一緒にやれることになりました。
──シアターコクーンでの演出も初めてです。美術は「友達」に続き伊藤雅子さん、ステージングにはカンパニーデラシネラの小野寺修二さんがクレジットされています。
伊藤さんとは先日4回目の美術打ち合わせをして、やりたいイメージがようやくまとまってきたところです。小野寺さんには主に、冒頭シーンの描写についてお願いしています。
男性か女性かではなく、人間としてどういう行動に出るのか
──幼なじみの2人の女性を軸にした「私は私の家を焼くだけ」(参照:劇団た組「私は私の家を焼くだけ」開幕、加藤拓也「この作品はラッキーな作品」)、やりたいことが見つからず現実と空想の間を行き来する女性を描く「ぽに」(参照:劇団た組の新作「ぽに」上演中、松本穂香「自由に想像しながら楽しんで」)、妊娠を巡ってすれ違っていく夫婦を描いた「もはやしずか」(参照:すれ違う人間模様を描く、加藤拓也の意欲作「もはやしずか」開幕)など、加藤さんは女性の心理をとても細やかに、リアルに描き出されます。毎回、「加藤さんはなぜこんなに女性の心理がわかるんだろう」と驚くのですが、そんな加藤さんが、「ザ・ウェルキン」をどのように立ち上げていくのか、楽しみです。
女性の気持ちが、わかっているとは思わないんですけどね。女性のことがわかるから女性の登場人物の言葉が書けるのではなく、女性が演じたからそのセリフが女性の言葉として受け止められた、という可能性もあるんじゃないかなと。僕自身は、男性か女性かということよりも、ある出来事に対し、その人がいち人間としてどういう行動に出るのかを考えています。それから一般化された理論と比べることはあるかもしれません。それでもこの性別に所属している意識のある人間はこうはしない、またはその逆、といった判断はしません。作家が所属していると認識している性別に、演出家や俳優、観客も作り方や見え方が左右されてしまうことがあるかもしれません。雑な例ですが「ぽに」も、もし僕が女性の作家だったら、お客さんは「ああ、作家自身にプライベートでひどいことをした男のことが描かれている」という解釈をする人もいたかもしれません。
──ジェンダーに対しフラットであろうとする加藤さんの目線は、どういったところで培われたのでしょうか。
うーん、どうなんでしょうね……。僕、子供の頃に野球をやっていたんですが、少年野球って“ザ・男社会”なんです。例えば、山の中で練習しているとよく蜂が寄ってくるんですけど、怖いじゃないですか。するとその様子を見ていた監督が「男なんだから蜂を怖がるな!」とか、そうやって常々「男なんだから」と言われたことで当時、なぜ男は虫を怖がってはいけないのかと疑問を持ち始めて、そこから社会の仕組みのようなものへと意識が向いていったのかもしれないです。わかりませんが。
──また加藤さんが描く女性たちは、あまり被害者的な意識にとらわれず、自分の置かれた状況を冷静に捉えている印象があります。その点も、多くの観客に支持されるポイントではないでしょうか。
ありがとうございます。
──人間同士の価値観の違い、それぞれの正義のずれを描いた人間ドラマである本作ですが、タイトルには英語の古語から派生した、“天空”を意味する言葉「ウェルキン」が冠されています。俯瞰的かつ文学的なタイトルだと思いますが、加藤さんはどんなふうにタイトルを捉えていますか? また劇中たびたび言及される彗星の存在については?
彗星に関しては、繰り返しやってくるもの、長い期間を経てやってくるものに対して、自分たちの変わっていなさを表しているのかと思ったり、いろいろと当てはめてみたりしますが、「ではなぜ『ウェルキン』というタイトルなのか」と点については、僕はまだわからないです。稽古の中で、その意味がいずれわかると良いなと思っています。
プロフィール
加藤拓也(カトウタクヤ)
1993年12月26日、大阪府生まれ。脚本家・演出家・監督。劇団た組主宰、わをん企画代表。17歳でラジオ・テレビの構成作家を始める。18歳でイタリアへ渡り、映像演出について学び、帰国後、劇団た組。(現在は劇団た組)を立ち上げた。2022年、第10回市川森一脚本賞を最年少で受賞。近年の舞台作品に、三島由紀夫没後50周年企画「MISHIMA2020」の「『真夏の死』(『summer remind』)」(作・演出)、シス・カンパニー公演「たむらさん」(作・演出)、「友達」(上演台本・演出)、劇団た組「私は私の家を焼くだけ」(脚本・演出)、映像作品には、テレビドラマ「俺のスカート、どこ行った?」(脚本)、「不甲斐ないこの感性を愛してる」(監督・脚本)、「カフカの東京絶望日記」(監督)、「死にたい夜にかぎって」(脚本)など。監督・脚本を手がけた映画「わたし達はおとな」が6月10日に公開される。
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