オリジナル戯曲から翻訳劇、日本の近代劇まで、鮮烈な印象を与える作品を次々と世に送り出している長塚圭史。彼がこの秋、KAAT神奈川芸術劇場プロデュースにより、ルイージ・ピランデッロ(1867~1936年)の代表作「作者を探す六人の登場人物」を手がける。ある劇団の稽古場に、「私たちは、作者を探しています」と戯曲の中の“登場人物”たちが現れる。困惑する演出家と“俳優”たち。しかし“登場人物”たちがそれぞれの人生譚を語り始めると、芝居の枠組みは崩壊し、観客は想像の海に放り出され……。長年にわたり上演を熱望してきた長塚が、本作の「単なる古典じゃない」、錆びない魅力を語る。
取材・文 / 熊井玲 撮影 / 川野結李歌
ずっとやりたくて……ほとんど趣味です(笑)
──「作者を探す六人の登場人物」は、1921年に初演されたルイージ・ピランデッロの作品です。日本では築地小劇場で1924年に上演され、近年も幾つかのプロダクションで上演されてはいますが、それほど上演機会の多い作品ではありません。長塚さんが本作に興味を持たれたのはどんなところですか?
きっかけは全然覚えてないのですが、ロンドンに留学しているときに上演していて面白いと聞き、帰国してすぐに戯曲を読んで、惹かれたんです。以来、やりたいやりたいとずっと思っていて……なので、ほとんど“趣味”です(笑)。ただ、やり方が難しいと言うか、普通にやるのでは、ただこの作品を紹介するだけに終わってしまうかしれないと思い、最初は俳優ではなく、フィジカルの強いダンサーだけでやるというアイデアも持っていました。その後、白井(晃)さん演出の「夢の劇」(2016年)に台本・出演で関わることになって白井さんといろいろお話しする中で、「『作者を探す六人の登場人物』に興味がある」って話をしたら「やってよ」と。白井さんは近年、19世紀後半から20世紀初頭の近代戯曲に取り組まれていて、“20世紀初頭の世界の構図と今は似ている”とよくおっしゃっていますが、それには僕も同感です。またピランデッロと時代が被る、サミュエル・ベケット(1906~89年)やヘンリック・イプセン(1828~1906年)の作品は、いろんな常識を覆し、劇構築自体をひっくり返していく感じがありますよね。「作者を探す~」もすごくラジカルで、時代の転換期に合った劇。それと、この作品の時空の越え方や、作ったキャラクターたちが生き物であるという描かれ方に、非常に惹かれます。
──白井さんは2009年に上演された「ピランデッロのヘンリー四世」に寄せたコメントの中で、“『作者を探す六人の登場人物』などピランデッロ作品の持つメタシアトリカルな劇世界に興味があった”とおっしゃっています。白井さんとはどんなお話をされていますか?
作品についてはあまり話をしてないです。白井さんがこの作品を好きなのはなんとなくわかるし、僕に好きなことをやらせようと思ってくださってるのか、あまりいろいろ言わないようにしてくださってるんだと思います。そうそう、串田(和美)さんにもこの作品をやるとお話したら、観に行きたいとおっしゃってくださって。
──作り手たちの脳を刺激する作品なのでしょうか。
そうですね。“登場人物が自分に向かって話しかけてくる”ってね、僕はそういう話がもともと非常に好きで(笑)、想像されたものと現実世界が混じり合うような、常識を少し打ち破った発想、ファンタジーって面白いなと思うんですよね。この作品はある意味、あまり文学的にどうだとか演劇的にラジカルだとか、そんなことは抜きにして、“言葉言葉言葉”の作品じゃなくて視覚的にも楽しめるし、お話自体が面白いわけだから、例えば小学生でも「物語の中から登場人物が出てきちゃってるよ!」って楽しめるんですよ。しかもとても現代的なんですよね。例えば“登場人物”の父親が、“ある1つのエピソードだけ見て、僕が女たらしと思わないでほしい”って訴えるところとか、歳を重ねてもどうしても女に走ってしまう言い訳とか、ものすごく普遍性に満ちていて(笑)、面白いですよね。
俳優の佇まいを身体から醸し出す
──キャストにはさまざまな経歴の方がそろいました。舞台、映像と幅広く活躍されている山崎一さん、バレエ出身の草刈民代さん、KAATプロデュース「春のめざめ」にも出演した若手の安藤輪子さん、コンドルズの香取直登さん、舞台を中心に活動する平田敦子さん、ペンギンプルペイルパイルズの玉置孝匡さん、城山羊の会レギュラーメンバーの岡部たかしさん、そしてバレエやコンテンポラリーのダンサーの方たちと多彩な顔ぶれとなっています。
“在り方”が少し変えられないかなと思っていて。本作が初演された1921年頃なら、“俳優”と“登場人物”では話し方が違うことを打ち出せばよかったと思うんだけど、今やセリフの発し方で存在の違いを出すのはほとんど不可能だと思っていて。それでワークショップを重ねる中で、違いはセリフより身体性にあるんじゃないかという話になって。例えばサバンナみたいな何もないところに俳優がいて、遠くから見てもそれが俳優って生き物の群れだとわかるようにいられないか、と。俳優の言葉や振る舞い、自意識といったものを身体的に表現できないかと考えたんです。
──“俳優”を全身から醸し出しているような?
そうそう。身体的なところで俳優の共通する何かが見えてこないかと。稽古を見ていて、僕はそこに可能性を感じました。
──「音のいない世界で」(2012年)、「かがみのかなたはたなかのなかに」(2015年初演)で、長塚さんはコンドルズの近藤良平さん、バレエダンサーの首藤康之さん、松たか子さんと共演されていますが、そのときの経験が本作で生きる部分はありますか?
あるでしょうね。ダンサーの身体の在り方を活用しようと思っていて、例えば草刈民代さんに“登場人物”の母親役をお願いしたのは、母親役のある絵画的悲劇を打ち出すために、俳優の意識とは違うフィジカルを活用できないかと思ったからなんです。そういったダンサーならではの意識と、俳優としての意識が作用し合うと、何か違うものが生まれるのではないかと。また踊るシーンとしゃべるシーンが分離されているのは面白くないと思うので、その融合がうまくいけばいいなと思っています。こういう芝居作りをちょっとずつ積み重ねていって、最終的にはダンサーがセリフをいっぱい使えるようになるといいなと思ってるんです。そうなると俳優は居場所を失うんですけど(笑)、でもそうやって身体性と“言葉”を持った俳優が残っていけばいいと思っていて。もちろんダンサーたちがそんなに簡単に言葉を獲得できるわけではないんですが、でも俳優たちがダンサーたちのような身体性を獲得することに比べればずっと可能性はあると思うんですよね。
──キャストの方々は、この劇中劇的な構造をどう感じていらっしゃるのでしょうか?
好き嫌いによるとは思いますが、“登場人物”の人たちは面白いでしょうね。それぞれ自分たちの物語を抱えているし、あらゆる時間を全部自分の中に閉じ込めているわけですから。
──対する“俳優”役の人たちは、“登場人物”との距離感が難しそうです。
そうですね。“登場人物”の存在を“俳優”たちがどう信じ、認めていくのか、“俳優”たちの目線が鏡となってこの劇を華やぐものにさせていくので。ものすごく重要です。
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下は小学1年生から上は還暦まで
- KAAT神奈川芸術劇場プロデュース
「作者を探す六人の登場人物」 - 2017年10月26日(木)~11月5日(日)
- 神奈川県 KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ
- 作:ルイージ・ピランデッロ
- 翻訳:白澤定雄
- 上演台本・演出:長塚圭史
- 出演(戯曲配役順):山崎一、草刈民代、安藤輪子、香取直登、みのり、佐野仁香・藤戸野絵(Wキャスト)、平田敦子、玉置孝匡、碓井菜央、中嶋野々子、水島晃太郎、並川花連、北川結、美木マサオ、岡部たかし
- 長塚圭史(ナガツカケイシ)
- 1975年生まれ。劇作家、演出家、俳優、阿佐ヶ谷スパイダース主宰。96年、演劇プロデュースユニット・阿佐ヶ谷スパイダースを旗揚げし、作・演出・出演の3役を担う。2008年、文化庁新進芸術家海外研修制度にて1年間ロンドンに留学。帰国後の11年にソロプロジェクト・葛河思潮社を始動。「浮標(ぶい)」「冒した者」「背信」を上演。また17年に福田転球、山内圭哉、大堀こういちらと新ユニット・新ロイヤル大衆舎を結成し、4月に北条秀司の「王将」三部作を東京・小劇場楽園で上演した。近年の舞台に「かがみのかなたはたなかのなかに」、シアターコクーン・オンレパートリー2013+阿佐ヶ谷スパイダース「あかいくらやみ~天狗党幻譚~」、「音のいない世界で」(いずれも作・演出・出演を担当)、こまつ座「十一ぴきのネコ」、CREATIO ATELIER THEATRICAL act.01「蛙昇天」、シス・カンパニー公演「鼬(いたち)」、「マクベス Macbeth」(いずれも演出を担当)など。読売演劇大賞優秀演出家賞など受賞歴多数。また俳優としてドラマ「あさが来た」、「Dr.倫太郎」、「グーグーだって猫である」、映画「バケモノの子」、「yes!~明日への頼り」(語りを担当)などに出演。12月16日に出演映画「花筐/HANAGATAMI」が公開される。
2018年4月27日更新