KAAT神奈川芸術劇場 新芸術監督・長塚圭史インタビュー|とどまらない劇作家・演出家が起こす新たなアクション

2021年4月1日、長塚圭史がKAAT神奈川芸術劇場の芸術監督に就任した。3月1日に行われた就任会見と2021年度ラインナップ発表会で、新芸術監督としての所信表明をした長塚は、明快な口調で自身のイメージする新たなKAAT像を語った(参照:KAAT新芸術監督の長塚圭史「より開いた劇場に」、3つの新方針を発表)。

ステージナタリーでは、就任会見直後の長塚にインタビュー。芸術監督への就任を前に最初の大仕事を終えた長塚は、屈託のない笑顔を見せながら、演劇への思い、芸術監督就任への思いをざっくばらんに語ってくれた。

取材・文 / 熊井玲 撮影 / 平岩享 ヘアメイク / 谷口ユリエ

KAATの固まってないところ、
動いているところが面白そうだと思った

──芸術監督就任会見と2021年度ラインナップ発表会を終えられて、今どんなお気持ちですか。

長塚圭史新芸術監督就任会見、および2021年度ラインナップ発表会の様子。左から長塚圭史、白井晃。

これを毎年やるのは大変ですね(笑)。自分の作品以外のものについても説明するのは初めてなので、どうやってお話ししようかと構成を考えたり、各作品について紹介する焦点を定めたり……準備が非常に大変でした。でも自分がなぜこの作品をラインナップにチョイスしたのかということを、改めて整理できたので、会見は貴重な時間だなと思います。

──芸術監督としての所信表明では、「劇場をより開いていく」というテーマのもと、“シーズン制の導入”“ひらかれた劇場”“「カイハツ」プロジェクトの実施”という3つの柱を打ち出されました。冒頭で「僕は興奮すると早口になりすぎるので、落ち着いてお話しできれば」とユーモアを交えるなど、和やかな雰囲気の中、明朗で生き生きとしたお話しぶりでしたが、いつ頃から準備をされていたのですか。

会見について具体的に考え始めたのは1週間前くらいで、本当は当初、倍くらいの長さがあったんですけど(笑)、長くなるので削って、方針だけをきちんとお話ししようと思いました。ただ最初はもっと、例えば車座になったりして、来場者の方たちと近くでお話しできればと思っていたのですが、コロナの状況でそういうわけにもいかず、でもできるだけ近しい空気になればいいなと思って。

──長塚さんはKAAT開館の年である2011年に「浮標」を上演され、以来ほぼ毎年、KAATでご自身が関わられた作品を発表しています。この10年間に、KAATは宮本亞門さん、白井晃さんと2人のアーティストが芸術監督を務められ、さまざまな変化を遂げてきましたが、長塚さんはどんな特色がある劇場だと感じていらっしゃいますか?

良い意味で途上にある劇場、という印象ですね。10年の歴史の中で、その間に亞門さんの時代、白井さんの時代があり、僕自身、2年前から芸術参与として劇場に関わっています。何かが固まる前に動かそうとする劇場、というところがあって、良い意味で過渡的であり、チャレンジを続けざるを得ない状況に自らを追い込んで進んでいる。それはすごいことだなと思います。

白井さんが僕にお声がけくださった理由の1つとして、会見では「王将」でのチャレンジを例に挙げてくださいましたが、劇団にせよ何にせよ、僕は1つに凝り固まって慣習化されることに多かれ少なかれ不安を覚えます。また「何かおかしいな」と思ったら、それを解消するために思い切って舵を切る、ということをこれまでにやってきました。結果はそれぞれですが、アクションを起こして状況を変えたいと思いますし、実際そうやって作ったり壊したりを続けてきました。白井さんが僕にお声がけくださったのは、僕のそういったところも要因の1つなのかなと思います。僕としてもKAATのまだ固まってないところ、動いているところに惹かれてお引き受けしたところがありますね。

──ただ長塚さんはまだ四十代。年齢的・キャリア的にも、劇作家・演出家としてこれからさらに脂が乗ってくる時期だと思いますが、芸術監督としてのお仕事が増えることで、アーティストとしての葛藤はなかったですか?

あります(笑)。今年度は5月に新ロイヤル大衆舎×KAAT「『王将』─三部作─」(演出・出演)、9月は「近松心中物語」(演出)がありますし、来年2月のKAAT カナガワ・ツアー・プロジェクト第1弾「冒険者たち ~JOURNEY TO THE WEST~」(上演台本・演出)の台本を書かないといけなくて、でももちろん劇場についてさまざまなことを話し合わないといけないことも本当に多い……自分の中でうまく時間を切り分けていかないとなって。いや、けっこう大変ですけど楽しみます(笑)。

演劇の作り方を変えた、留学での体験

──これまでの長塚さんの足跡を振り返ると、やはり2008年のイギリスへの留学体験がとても大きなターニングポイントだったのではないかと感じます。留学前の長塚さんは、学生時代に演劇活動を開始、1996年に阿佐ヶ谷スパイダースを始動させ、「イヌの日」(2000年)、「日本の女」(2001年)、「はたらくおとこ」(2004年)など次々と話題作を打ち出されました。そしてPARCO劇場、Bunkamuraシアターコクーンへと活躍の場を広げ、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの、“孤高の劇作家・演出家”という活躍ぶりでした。しかし留学後は、三好十郎作品をはじめ骨太な日本人劇作家の作品に、座組み全体でじっくりと取り組まれるようになり、また仙台の演劇人たちと創作したCREATIO ATELIER THEATRICAL act.01「蛙昇天」(2015年)、言葉と身体と音に注目した「かがみのかなたはたなかのなかに」(2015年初演)など創作現場重視の演出家というイメージに変わったと感じます。そういったクリエーションスタイルの変化が、今回の芸術監督就任に実はつながっているのではないかと予想するのですが……。

長塚圭史

留学体験からは、非常に影響を受けました。留学する前は、幸い注目していただいて、いろいろな作品を発表することができ、それはすごくハッピーだったんです。でもこのままずっと作り続けていくと考えたとき、自分は何を求めて作り続けているのか、よくわからなくなって。演劇を続けていく原動力みたいなものがほとんどなくなりつつあったんです。それで1年休もうと思っていたところに、文化庁の新進芸術家海外研修制度でイギリスに行かせていただけることになって。でも正直、最初は何もする気が起きなかったんですね。

ところがイギリスの俳優2人と井上ひさしの「父と暮せば」をワークショップで試してみる企画書が通ったんです。僕はそれまでひたすら作品を作ることしかして来なかったので、ワークショップなんてやったことがありませんでした。でも結果を求めず、俳優たちとクリエーションすることがすごく新鮮だったし、畳とか着物じゃない、イギリスのセットの中でイギリス人の俳優が、日本人の感覚だけ捉えて広島の原爆の劇を演じるということにとてもワクワクして。もちろんそのときはうまくいった点もいかなかった点もあると思うんですけど、1カ月半その準備ばかりして1週間のワークショップを行って、僕は息を吹き返しました。こういうこともできるならやっていきたいなって思ったんです。さらにその直後、三好十郎の「浮標」に出会って「これだ!」と思い、それまでの“演劇の作り方”をそこで一旦捨てました。俳優たちと一から構成・構築していくスタイルに僕の思考が変わっていったんです。

──クリエーションの手順、構築の仕方、また演出に対する意識の変化があったんですね。

変わりましたね。だから帰国後の「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」(2010年)や「荒野に立つ」(2011年)、「南部高速道路」(2012年)などはすべてワークショップで立ち上げましたし、首藤康之さんと一緒に新国立劇場の門を叩いて「僕たちにお芝居をやらせてほしい。ダメなら稽古場を貸してほしい」と直談判したこともありました。それが「音のいない世界で」(2012年)や「かがみのかなたはたなかのなかに」につながるんですけど(笑)。まず上演の日程を確定させるのではなくて、ワークショップをやりながら作品に対する確信をつかみ、そこから実際の稽古に向き合うような流れも模索しました。これは大きかったです。

劇団と劇場、2つの視点で見る“舞台芸術”

──留学後の長塚作品は、クリエーション現場がかなり面白いという噂が、俳優さんやスタッフさんたちから聞こえていました。そのようにフラットな現場作りを実践されるようになった長塚さんが、俳優やスタッフ、学生や主婦など多様な人たちを巻き込みながら阿佐ヶ谷スパイダースを劇団化したことは、自然な流れだったように感じます。

そうですね。もちろんいろいろな理由が重なってはいましたが、興行的に演劇をやる、商業的に公演を成立させるということと違った考え方で作品を作れないか、やりたい人が集まって創作する“村”のような場ができないかということを考えていました。ただ、今身近にいる人たちだけだとなかなか世界が広がらないので、オーディションをやって新しい人たちにも関わってもらって。プロデュースユニット時代に比べると今は35人と大所帯なので(笑)、集団としての仕組みにはまだ謎な部分も多いですが、ゆるやかな集団なので、これからどうしていこうか模索している段階です。

──そんなゆるやかな集団形成を目指す長塚さんが、より多くの人たちと関わっていく、芸術監督という立場に就かれました。これもまた、自然な流れのように感じます。

長塚圭史

阿佐ヶ谷スパイダースは、公共劇場であるKAATとは違う文脈にあるので、そういう意味ではまったく別の流れだとは思いますが、僕が劇団の中のお父さんだとしたら「お父さんが芸術監督にもなったよ」というような感じかな(笑)。でも劇団をやっていると、自由さや身軽さは非常に感じます。公共劇場では、例えば「明日から毎日バックステージツアーをやろう」と言ってもなかなか実現が難しい。でも劇団ではそれができるわけです。そういう、民間の自由な集団と、小回りはなかなか利かなくても芸術に使っていいと言われている素晴らしい施設と資金がある公共劇場と、この対比が僕にとっては非常に刺激になります。

──長塚さんが劇団で考えるようなアイデアが、これからKAATに盛り込まれていく可能性もあるのでしょうか。

そうですね。ただ慌ててことを仕損じてもいけないので、1つずつやっていかないと。そういう場所なんだなということは、理解してきました。白井さんにもよく言われるんですけど、「圭史くん、広げた風呂敷を忘れないように」って。最初に気になったこと、やろうとしたことを、いろいろ動き始めると忘れてしまいそうになる。それは意識していかないと、と思います。順々にですね。