響きあうアジア2019「プラータナー:憑依のポートレート」岡田利規×徳永京子|タイのコンテクストを、自分のこととして“共有”する

パリ、そして日本へ

徳永 ではタイで初演されたときと、昨年パリで上演されたときでは、かなり状況が違いましたよね?

岡田 そうですね。

徳永 私はパリ公演を拝見できなかったんですけど、単純に想像するに、パリの人にとってタイは、日本より遠いコンテクストだったのではと思います。反応はどうだったのでしょうか。

左から岡田利規、徳永京子。

岡田 会場の熱気として、ムンムンしている感じではなかったと思います。ただこの作品のコンテクストが伝わっている人は、観客の中にもちろんいたと思いますけど。僕にとってパリで上演するときの比較対象になるのは、チェルフィッチュの作品を上演したときのことで、チェルフィッチュの作品はいわば日本のコンテンツですから、それをやるときと「プラータナー」ではだいぶ温度差がありましたし、そこに対する悔しさみたいなものはありました。でも、タイ語上演の作品がフェスティバル・ドートンヌやポンピドゥ・センターで上演されたのは「プラータナー」が初めてだったそうなので。

徳永 日本公演は当然、タイともパリとも異なるコンテクストになりますが、日本の観客にどのように伝わるか、岡田さんの中で予想は立っていますか?

岡田 タイでウティットに会う前、実は彼と東京で挨拶だけ交わしたことがあるんです。そのとき彼は、ゲンロンのイベントでタイの文学の検閲についてのトークに出ていて、僕もそれを観客として観に行っていたんですね。それはタイに興味があるというより、検閲という問題が人ごとじゃないと思っていたからで、検閲がもっとグロテスクな状況にあるタイの作家の話を聞いてみたいと思ったからなんです。基本的には「プラータナー」も、そういう関心で観ることはできると思います。今まだ日本の演劇では(検閲の)圧力が強いわけではないけれど、それが先行している国の話を聞きたい、という関心で観る人はいるのではないかと思います。

自立している「プラータナー」の出演者たち

徳永 タイ初演を観て興奮したことの1つに、出演者の方たちがとても魅力的だったことがありました。

岡田 本当にチャーミングですよね。

徳永京子

徳永 彼らを観ているだけで4時間飽きない、と思ったくらいです。タイ公演では昼夜公演の間にプレゼンテーションの時間があって、出演者の中の何人かと演出助手の方が、日本から来たジャーナリストたちに対して、自分たちの普段の活動を説明する時間でした。そのとき、「プラータナー」の出演者たちには演出家や自分の劇団を持っている人がたくさんいることがわかり、彼らの魅力の理由に触れた気がしました。この言い方は誤解を生んでしまうかもしれませんが、その方たちが、俳優である前に、それぞれに独立した表現者だと感じたんです。おそらくかなり早いうちから、自分の表現について考え、活動をいかに継続していくかを考えてきていると感じました。そして、演出家の指示を待っているのではなく、能動的に作品に関わろうとしていて、それが舞台上に生き生きした空気、密度と風通しの良さをもたらしていると思いました。岡田さんは出演者たちと、どのように関わっていったのでしょうか?

岡田 彼らのような、タイでインディペンデントな活動をやってるアーティストは、おのずと政治的な態度をはっきり持ってるし表明してもいる。過激な言い方だけど、社会に対して中指立てながら彼らはやってる。

徳永 なるほど。でもその中指の立て方が、すごく柔らかい。

岡田 そう。強くプッシュするというのじゃなくて、そうした社会で苦しんでる人に、共感する姿勢を持っている。だから「プラータナー」のクリエーションは、感情的な現場でもありました。「プラータナー」に描かれた凄惨な出来事を、出演者たちもリアルタイムで体感しているから、いわゆる役への感情移入とは違った意味で、苦しい目に遭わされた人々に共感して、涙したりすることもときどき起こりました。

徳永 私はアジアの演劇人の事情に詳しくありませんが、東南アジアで演劇をやっている人は基本的にお金持ちの家に生まれて、親の理解と支援を受けてアメリカやヨーロッパに留学し、今もある程度の余裕がある人たちだという偏見が、これまでありました。

岡田 それは必ずしも偏見ではないとも思いますけどね。

徳永 だから「プラータナー」以前にアジアで作られた現代演劇を観たときに、「結局はアジア人の俳優の身体を通して、アメリカやヨーロッパの演劇教育のもとで行われている方法論を観ているのではないか」と思っていたんです。でも「プラータナー」の出演者の方たちには、はっきり、それだけではないものがたくさんあった。そしてそれは、日本人である岡田さんが関わったことで引き出されたものではないかと。

岡田 うーん、ある程度は引き出したとは思いますが……でも演出ってやっぱり、お花に水をあげるみたいなものだと感じていて。水をあげなければ枯れちゃうかもしれないけど、水さえあげれば勝手に伸びてくるようなものなんです。

徳永 その“水”はどうやってあげるのですか?

岡田 本当に簡単なことです。まず戯曲を読むんです。読んでもらって、あるシーンをどういう想像力で演じたら面白いかを考えていくんです。もちろんそのままやってはつまらないということは大前提としてあって、例えば詩的な飛躍があるとか、書いてあることとは全然違うんだけど何か通じるものとかを想像したりしていきます。それを発展させたり、アップデートしたり、ただそれだけ。

徳永 それは「プラータナー」で初めて試したことですか?

岡田利規

岡田 いえいえ、いつもそれをやってます。それだけをやってます。

徳永 ああ、カンマーシュピーレで「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」を稽古されていたとき(16年)、ある程度稽古が進むと、岡田さんと俳優さんたちがテーブルを囲んでディスカッションをされていましたが、あれですね。今回のタイ人のキャストはオーディションで選出されたそうで、ステレオタイプな質問ですが、日本の俳優とタイの俳優は……。

岡田 どう違うか、ですか?

徳永 はい。たまたま、自分のカンパニーを持っている自立した人たちが集まってあのメンバーになったのか、あるいは、選んだ時点で優秀ではあったけれど、稽古で大化けしたとか……。とにかく出演者の方たちに興味津々なんです。

岡田 もちろん、あの11人しかタイにいい俳優がいないわけではないです(笑)。オーディションワークショップでは僕が何を大事に思っているか、どうやってパフォーマンスを作っていくかというアイデアを伝えて、それが理解できたり面白がれたり、自分のものにできた人を選びましたね。ただそれが日本人とどう違うかと言うと……。

徳永 私には、出演者たちが、岡田さんに対して余計な緊張感を持っていたり、岡田さんの要求を苦労して消化したように見えなかった。軽々とタスクを飛び越えてそこにいて、フラットな関係を当然としているような軽やかさを感じたんです。

岡田 そうですね。その軽やかさは、やっぱり彼らがアーティストとして独立している、社会と対峙している存在だからだと思います。そこから逃げているヤツは、基本的にいないんじゃないかな。

徳永 肚が据わっているんですね。

岡田 日本だと(社会との対峙を)もうちょっとかわしていたり、「かわすことが政治的な態度の1つだ」っていう言い方が通用したりして、肝が据わってない傾向が全体的にあると思うんです。まあ、そのぬるさが日本独特の質であり、チェルフィッチュの特徴でもあったりするとも思うんですけど……。