2025年10月1日、岡田利規がアーティスティック・ディレクターを務める舞台芸術祭「秋の隕石」がスタートする。国内外の14演目がラインナップされた「上演プログラム」、レクチャーやワークショップを中心とする「上演じゃないプログラム」、幅広い観客に向けた「ウェルカム体制(=来場サポートのこと)」という3つの柱で構成される同芸術祭では、異物感を備えつつ他者に影響を及ぼす可能性があるもの──すなわち“隕石”をキーワードに、「新たな芸術の創造」「海外発信」「人材育成」を目指す。
ステージナタリーでは、「秋の隕石2025東京」の“隕石み”を特に象徴するプログラムとそれを手がけるアーティストに注目。特集前半は、オブジェクトシアター(人形劇から派生した、日用品・自然物などの「もの」が演者となる演劇)のキュレーションを手がける山口遥子、“広角レンズの演劇”を標榜する演劇ユニット[関田育子]と岡田による座談会を実施。後半は、広く募集され選ばれた“ママさんコーラス演劇”うたうははごころの菊川朝子と、メディアアートや現代美術を手掛ける花形槙による対談を紹介する。また最終ページには「上演プログラム」14演目の紹介なども掲載している。
取材・文 / 熊井玲撮影 / 藤田亜弓
“異”なものを集めた芸術祭に
──まずは岡田さんに「秋の隕石」というフェスティバル名に込めた思いをお伺いします。
岡田利規 隕石という言葉は、単純に言うと“異”なもののイメージで、そういったものを集め、構成されたイベントを観たいと考えました。その核になること、音頭を取ることなら僕もできるんじゃないかと思ったので、お話をいただいたときにいいチャンスだなと思いました。
──岡田さんが山口さん、関田さんに興味を持たれたのは?
岡田 隕石、という言葉の向こうにはいろいろな文脈のいろいろな受け取り手がいて、いろいろな広がりがあるといいなと思っています。隕石とは、今の日本・東京・舞台芸術の状況において、“メインストリームじゃないもの”ということになりますが、そう考えたときに思い浮かんだのがオブジェクトシアターであり、[関田育子]でした。
「秋の隕石」では、国内外で観た素晴らしい演目を招聘するだけではなく、作品のクリエーションもしたいという構想は、初めからありました。そしてその第1弾は[関田育子]にしたいということも、当初からのアイデアです。[関田育子]がやろうとしていることは、とてもラディカルで、実はとてもシンプルな問いです。シンプルであるがゆえに、とても過激です。演劇ってこういうもの、とされている要素のほとんどすべてを疑ってかかっている。その結果、ユニークな感覚・質感を備えた上演が実現している。そのような演劇があるということを、広く紹介したいと思ったのです。
オブジェクトシアターは、実を言うと僕自身、詳しくないです。ただ、舞台芸術のメインストリームと言える人間が演じる演劇──ヒューマンシアター、ですかね(笑)──には、ヒューマンシアターの限界というのが必ずある。人間であるがゆえに余儀なくされる、超えられない制限がある。そしてこれは舞台芸術の文脈に限った話ではない。現在の世界が直面している大きな問題にこれは通じている。というわけで山口さんに参加をお願いしたところ、乗ってくださいました。山口さんはご自身でも「下北沢国際人形劇祭」(編集注:2024年2月に7日間にわたって行われた人形劇祭。アイルランド・イギリス・スロヴェニア・チェコ・ドイツ・米国などの先鋭的な人形劇が上演された。2026年2月に第2回の開催を予定。山口は企画・統括を担当)をオーガナイズされていますが、「下北沢国際人形劇祭」を実施するのと、「秋の隕石」に参加するのとで、ご自身の中に違いはありますか?
山口遥子 はい、あります。今回お声がけいただいて、まず岡田さんがオブジェクトシアターや「下北沢国際人形劇祭」をご存知だったことが驚きでした。人形劇が話題になるのは児童演劇としてだったり、おもちゃ文化の一環としてだったりで、人形劇は演劇界から切り離されているという気がしていました。明治時代の終わり頃の演劇雑誌に「近代化の時代に人形劇なんか見ているのは日本の恥である」ということが書かれていたこともありました。でも人形劇には人形劇の技術や方法論がすごくあり、演劇の人にも人形劇をもっと観てもらいたいなと思っていたので、今回「秋の隕石」にオブジェクトシアターを、と思ってくれてよかったです。演劇の人にとって人形劇は演劇とは違うものという感じがするかもしれませんが、そういう国ばかりではなくて、たとえば人形劇が盛んだと言われるチェコでは、演劇祭の中に人形劇のプログラムも入っています。
ない物をないまま、あることをあるままに捉える
岡田 人間の身体という点については、関田さんはどう思っていますか? 人間の俳優が演技をするということそのものに対しての根源的な違和感みたいなものを、僕は感じているし、そしてそれを関田さんも感じているんじゃないかなと思いまして。
関田育子 あります。でもその気になる感覚は自分が感じていることなので、演出がつくことでそう感じないようにコントロールすることもできると思います。という点でも、私は人形劇が演劇じゃないとは思わないし、逆に人形劇のほうが演劇以上に広がりがあるんじゃないかと思うので、先ほど山口さんがおっしゃった「人形劇は演劇界から切り離されている」というお話を意外に感じました。
──[関田育子]の「under take」では、会場となる東京芸術劇場 シアターイーストの舞台機構を徹底的にリサーチし、“新たな空間理解の視座と身体表現の在り方”をクリエーションメンバーと共に追求し、作品に昇華します。
山口 (「under take」リサーチの様子をまとめたレジュメを見てうなずきながら)床下や客席、キャットウォークとかもリサーチの対象になるんですね。
関田 はい。建築にはある意図があり、劇場にも構造があって、それを理解しないと使えないという思いが私にはあります。とはいえ、完全に理解することは建築をちゃんと学んでいない限り難しいと思うんですけど、ある仮説を立てることで、自分たちなりに使えるようにカスタマイズすることができるんじゃないかと思っていて。なので、どこでやるか、何を使うかを考える以前に、まずは構造を知るところから入らないといけないと思って、とにかくリサーチを続けています。
山口 オーディションに200人近く集まったと聞いてびっくりしました。すごいですね!
岡田 すごいですよね。
関田 書類でかなり絞ったので200人に会ったわけではないんですけど。言葉と写真について、あらかじめ課題を出したんです。どういう言葉を使う人なのか、物事をどういう切り取り方で見る人なのか、ということが知りたくて。あと調べてわかる人は(YouTubeやSNSに上がっている動画で)声を調べたりもしました。セリフを言っている声はコントロールされている声なので、実は普段の声のほうが大事かもしれません。その声を聞いて「この人がいいな」「今回のクリーションにはこの人は合わないな」と判断することもあります。
岡田 Webで調べたりもするんですね。課題の写真はどんなものですか?
関田 自分のカメラロールに残っているお気に入りの写真を3つ提出してもらいました。その人が何に興味を持っているのか、世の中において何を大事としているのかが気になって。
山口 俳優の感性も大事にされているということですか?
関田 そうですね。稽古場でも俳優にめちゃくちゃ意見を聞きますし、俳優によっては稽古場にテキストを書いて持ってきてくれる人もいます。それをそのまま使うことはあまりないんですけど、なんでこう書いたのか?を話し合うこともあります。今回も、俳優やスタッフも一緒に劇場に何回も下見に行かせていただいて、そこで何を感じたのか、何を作りたいのか、このシアターイーストの機構をどう生かしたいと思っているかを話し合っています。ちなみにシアターイーストってとても情報が多くて、壁や床も傷がいっぱいあるので、それらも情報として生かしたいと思っています。
山口 関田さんは、物を動かすときと人間を演出するときってどういう違いがありますか?
岡田 関田さんは、あまりその違いを感じてないんじゃないですか? おそらく関田さんは人間の物質性というかマテリアリティの部分に興味がありますよね?
関田 そうですね。物を動かすことと人間の運動を考えることに違いはないかもしれません。
山口 私が気になっているのは、役者の物の使い方で、その点で人形劇の役者は演劇の俳優より断然上手いと思います。俳優はどうしても(と目の前のペットボトルを持って違いを実演しながら)持った物より、持っている人のほうを意識させようという風になる。というのも、俳優は自分が見られ慣れているからだと思うのですが、でも人形劇の役者の場合は物が主体になっているように見えます。
関田 物に関しては、私たちは舞台上で小道具を一切使わないんです。またパントマイムというのともちょっと違って“身振り”と言ったほうが適切なのかなと思いますが、“ない物をないと表すためにやる”んじゃなくて、“ないということをわかってやる”ということが重要だと思っています。“ないということをわかってやる”のってある意味空虚というか、空の状態の身体になると思うんですけど、私たちはそうであることのほうが重要だと思っていて。たとえばコップがある、という顔をしてマイムでコップを持たれると「そういうことではないかも」と思ってしまうんですけど……。
岡田 イ・チャンドン監督の「バーニング 劇場版」の最初のほうに、主要キャラクターの1人がパントマイムをやってみせるすごく面白いシーンがあるんですけど、今、あれを思い出しながら聞いてました。確かに[関田育子]がやっていることも、本質は近いかもしれないですね。それがそこにない、ということが際立ってくる身振りという点が。
関田 そうですね。ない物をあると思っているのはある種、フィクションへの没入だと思いますが、ない物をないまま、あることをあるままに捉えるのは事実に即した、ある種の散漫的な感覚で、実際にはない物にフォーカスが当たるということは、同時にあるものも自覚しているということだと思います。
“隕石なら…”と思うプログラムに
岡田 遥子さんはものすごくたくさんのオブジェクトシアターをご存知で、その中から「秋の隕石」でこれを紹介したらいいんじゃないかということを考えてくださったと思うのですが、キュレーションしてくれた3つの上演やワークショップについてはどう考えられたのですか?
山口 作品として素晴らしいもの、芯がある物を考えた結果、このようになりました。ハンダ・ゴテ・リサーチ&ディベロップメントの「第三の手」は、観たときに「これを紹介するのはちょっと“ツウ”向けすぎるんじゃないかな」と思って、「下北沢国際人形劇祭」の候補からは外していたんです。「下北沢国際人形劇祭」はまだ2回目で、現代人形劇を初めて観る方も多いので、「これはまだちょっと……」と思っていたんですけど、「秋の隕石」スタッフの方から「あの作品は良かった」という声もあり、「秋の隕石」の候補に挙げました。人形劇には、人間がまったく見えない場合と出遣い(人形遣いが観客に顔や姿を見せながら人形を操ること)の場合がありますが、ヨーロッパの伝統的な人形劇のあり方としては、人間の手は一切見せずに、物が動いているように見える状態で、プロセニアムの中で行われるものです。1950年代にヨーロッパで出遣いが始まってから、70年の間に人間と物の関係が探求され、さまざまな人形劇が生まれた中で、「第三の手」はリバイバルというか、改めてプロセニアムで見せることにフォーカスしており、伝統的な人形劇の形式に現代的なセンスでアプローチした作品です。
岡田 「第三の手」は、ちょっと魔術みたいにも見えるんだけど、やられていることに特に何の意味もない、というところが面白いですね(笑)。でも今のお話を伺って、「『下北沢国際人形劇祭』ではできないかもしれないけど『秋の隕石』なら」って思ってもらえたのはうれしいし、そういうものでありたいです。
山口 「やがて忘れてしまうもの」のシャヴィエ・ボベスは、スペインのカタルーニャ地方から来た、とても職人気質な人です。スペインには、風土もあるのか古い物や手作りの物をすごく大事にする人が多く、それを使って本作のような「ドキュメンタリー・オブジェクトシアター」を作っている人も多いんです。また人形劇の作り手にはコレクター癖のある人がすごく多いので、たとえばお土産のキーホルダーをすごく集めていたり、着工当初から現在までのサグラダファミリアを毎年撮影した小さなカレンダーを集めていたりと、ものすごく細かいものをたくさん集めている人が多いんですけど、「やがて忘れてしまうもの」ではそういった物を使って、壮大なスペインの歴史を描き出します。本作は観客5人限定で、サロンのようなぎゅっと凝縮した空間で、出される課題を解いていったりします。そして最終的にそれらが物語と結びついて、とあるスペイン人の家族を追いかけていくという内容になっています。これも、非常に観客数が限定されるので、「下北沢国際人形劇祭」では難しいなと思っていたんですけど、「秋の隕石」には適しているんじゃないかなと思って。ちなみこの作品は口コミで評判が広まって、ヨーロッパ全土を回っています。
アリエル・ドロンは、もともと「セサミ・ストリート」のローカル版でエルモの操演と声を担当していた人で、物の使い方がうますぎて、本当になんでも動かすような人なんです。まだ若いのですが技術がすごくて、彼には「オブジェクトシアター ワークショップ」をやってもらいます。
隕石は、強い
山口 岡田さんは、“東京”についてはどう捉えているんですか?
岡田 割と距離をとって、醒めて見てるところがあるんですよね。そのことがプラスに機能したらいいんですけれども。日本の中での東京の位置付け・存在感と、国際的なパースペクティブで見たときの東京のそれと、どちらもドライに意識してたいです。そのへんの意識を抜きに東京の舞台芸術祭のプログラミングをすることは「ないな」と思っています。ちなみにお二人は東京出身ですか?
山口 はい、東京出身です。
関田 私も東京です。
山口 「秋の隕石」っていうタイトル、いいですよね。例えば「東京」を冠した、「東京国際パフォーミングアーツフェス」みたいなものでも良かったわけですけど……。
岡田 そういうのは避けたかったんですよ。そういうインパクトのある、ヘンな名前をつけているのも、さっき言った、ぼくの東京に対する距離感と決して無関係じゃないでしょう。
──「秋の隕石」に向け、岡田さんは“隕石み”というタイトルでディレクターズ・メッセージを発信されました。その中では「舞台芸術の機能する文脈を変動させ、拡張させたい」という思いが語られていますが、この座談会からも“隕石み”を感じることができました。さらに“物と人の関係”に関するお話などは、実際に劇場で体感することでより実感を持って感じられるのではないかと思います。
岡田 はい。隕石っていう、地球外宇宙からやってくるものにほかならない異物のイメージをもつものだからこそ、この舞台芸術祭がむしろ、自分と関係のある何かであるように感じてもらえたら、こんなにうれしいことはありません。舞台芸術は、演目と観客のコラボレーションです。観客の文脈も広げたい、隕石みを増したい。いろいろな方に参加していただきたいです。
プロフィール
岡田利規(オカダトシキ)
演劇作家、小説家、演劇カンパニー・チェルフィッチュ主宰。2005年「三月の5日間」で第49回岸田國士戯曲賞受賞。同作での2007年クンステン・フェスティバル・デザール(ブリュッセル)参加以降、国内外の90都市以上で新作を旺盛に上演し続けている。2015年日韓キャストによる「God Bless Baseball」、2018年ウティット・へーマムーン原作・タイキャストによる「プラータナー:憑依のポートレート」(第27回読売演劇大賞・選考委員特別賞受賞)、2023年ウィーン芸術週間委嘱作品「リビングルームのメタモルフォーシス」など、国際共同制作作品も多数。2016年以降、ドイツ語圏公立劇場のレパートリー作品の作・演出も継続的に務め、2020年「掃除機」及び2022年「ドーナ(ッ)ツ」でベルリン演劇祭に選出。2022年、「未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀」(第72回読売文学賞・戯曲・シナリオ賞及び第25回鶴屋南北賞受賞)および歌劇「夕鶴」の演出に対して、第29回 読売演劇大賞 優秀演出家賞を受賞。小説家としては、2007年に「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を刊行、第2回大江健三郎賞受賞。2022年に「ブロッコリー・レボリューション」で第35回三島由紀夫賞および第64回熊日文学賞を受賞。2025年より舞台芸術祭「秋の隕石」アーティスティック・ディレクター。2026年4月に東京芸術劇場新芸術監督に就任予定。
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山口遥子(ヤマグチヨウコ)
人形劇研究者。博士(美術)。JSPS海外特別研究員としてドレスデン国立美術館に在籍し、ヨーロッパを中心とした現代人形劇論、および日本現代人形劇史を研究。NPO法人Deku Art Forum理事長。「下北沢国際人形劇祭」では企画統括を担当。
下北沢国際人形劇祭 (@sipf_tokyo) | Instagram
関田育子(セキタイクコ)
2019年に演劇ユニットとして[関田育子]を設立。“広角レンズの演劇”を提唱し、演劇作品の創作を行う。2023年に「かながわ短編演劇アワード2023」大賞・観客賞を同時受賞した。
[関田育子](SEKITA IKUKO)-info- (@IkukoSekita) | X
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菊川朝子(うたうははごころ)と花形槙の“隕石”対話