映画「愛しのアイリーン」公開記念インタビュー|新井英樹の怒りの炎は、今も燃えているか?

俺はもう政治の話は描いたから

──「シュガー」と同じ2001年には「ワールド・イズ・マイン」以上に政治色が強い「キーチ!!」の連載もスタートします。

仕事場に積まれた「キーチ!!」の単行本。

主人公の染谷輝一は、娘が通っていた幼稚園にいた子がモデルです。体中に噛み跡が付いていても「ママ、僕泣かなかったよ」と言って、運動会のレースで「走って!」と言われても1人だけ歩く。暴力を振るわれても泣かないし、でも誰かがいじめられているとその子だけは守るという。カッコいいでしょう。

──幼少期の輝一のエピソードそのままですね。

それでその子のお母さんに「この子がどんな人生を送るかを描きたい」と話したら快諾してもらえました。作中で輝一の両親が死ぬという展開を描いたら、かみさんにえらく怒られたけど。「人の子をモデルにしておいてその両親を殺すとはどういうことだ!」って(笑)。そのお母さんは「マンガはマンガなんだから面白いほうが絶対にいい、好きにして」と言ってくれたんですけどね。ただそれから程なくして、彼女の旦那さんが緊急入院して1週間で亡くなって。さすがに「俺はどうすりゃいいんだ」なんて思いながら謝罪しに行って子供編を描いていきました。

──そんなことがあったんですね。その「キーチ!!」が2006年に終了し、2007年から青年期の輝一を描く「キーチVS」が始まります。

「キーチVS」より。成長し、さらにカリスマ性を高めた輝一は、自身の支持者に「真っ当でいろ」というメッセージを送る。©新井英樹/小学館

「キーチVS」を描くとき、若い頃にあれだけカリスマ性があった子が普通の青年になったか、それともカリスマのままなのかを選ぶ必要があって。その頃ってもう小泉政権が終わり安倍(晋三)が総理大臣になっていた時期で、「これからは本当に好きなものが描けなくなる世の中になるから、今やらなきゃ駄目だ」と思い、カリスマ主人公による政治的なアジテーション色が強いものにしました。だから「キーチ!!」は結構読者に受け入れられたんだけど、「キーチVS」は最初から読者を地獄に叩き落とすように始まり、どんどん嫌われていった。でも政治的なことをより描きづらくなっている今振り返ったら、やっぱりあのときに描けてよかったなと思う。「ほかの人はどうか知らないけど、俺はもう描いたからね」って言えるし。

次に映像で観たいのは「SCATTER」

──「シュガー」と「キーチ!!」の2作は対極的な作品で、新井先生の持つ両輪的な資質が同時に展開したなと思い、ある意味理解しやすかったです。ただ2009年から始まった「SCATTER -あなたがここにいてほしい-」は、先生の歴史の中でどう位置付けすればいいのか悩んでいまして……。

新井英樹

「SCATTER」も、次世代に受け継ぐ的なことを描きたかったはず……。もともとは、当時読んで面白かった福岡伸一先生の「生物と無生物のあいだ」という本をベースにした物語ができないかって話していたけど、よく覚えてない(笑)。その頃にアシスタントや当時のコミックビーム(KADOKAWA)編集長の奥村勝彦さんとどんな作品にしたいか話していて、みんな「いいですね」なんて言っていたのに、全員なんの話をしていたか忘れているという。もう一方でクリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」みたいな受け継ぐ話をやりたいと言っていたのは覚えているんだけど。

──では副読本として「生物と無生物のあいだ」を読めば何かわかるかもしれませんね。

たぶん精液や精子でどうこう、というのはそっちから来ているはず。当時は福岡先生がテレビに出ていたら、それを全部文字起こししていたくらいハマっていたけどね。

「SCATTER -あなたがここにいてほしい-」(KADOKAWA)より。主人公の久保ヒカルは精力絶倫。その資質を見出され、終盤には精液でしか倒せないエイリアンに立ち向かう。©新井英樹/KADOKAWA

──当初は異常に精力が強い青年を中心にした陰鬱な展開が続きますが、終盤にぶっ飛んだアクションマンガになります。それがおかしくって。

描いている自分でも「すげー話になってる!」とびっくりしていた(笑)。ビルに乗り込んでエイリアン相手にテロする辺りは無茶苦茶楽しくって、「長くやってると、こういうこともあるんだな」と思いました。「SCATTER」ってきれいなヒーロー誕生の物語になっていて、俺の作品の中でたぶん一番まとまりがいいんですよ。しかも主人公の久保はちゃんと自分で手を汚しているからね。あいつはただの女性の寝込みを襲うレイプ魔。でも読む人が読めば「こいつは成長している」と騙せるくらいの話にはなっている。

──主人公が師匠を超え、女にも受け入れられと手順をきちんと経ていて、最後はその愛で戦うという王道を歩んでいますよね。

最後に渋谷の交差点で主人公が精液を放ち、ヒロインがそれを受け止めるということだけは決めていたんだけど、無事に着地できた。途中まで、敵のエイリアン集団・クラウドがどんな存在なのか自分でもよくわかってなかったくらいだったのに(笑)。

──「宮本」や「アイリーン」が映像化されましたが、次に映像で観てみたい作品はありますか? 個人的には「SCATTER」終盤のアクションシーンが映えそうだと思っています。

俺も「SCATTER」だね。1本の映像にしやすいだろうし。現実的に考えると「ワールド・イズ・マイン」は金がかかりすぎるし、「シュガー」は映像だとボクシング描写がリアルじゃないとつまらないだろうけど、そこに寄せると作品が違うものになる。「キーチ!!」は「自分は真面目です」って宣言しているような作品だから、観たら恥ずかしくなるだろうな。だから「SCATTER」が観たい。まあ性描写ばかりだからどの媒体でもダメだろうし、影響されて事件を起こした奴が出てきても困るけど。

「なぎさにて」は本気で代表作にするつもりだった

──読み切り「せかい!! ―岡啓輔の200年―」の冒頭で、2013年頃に50歳を過ぎ、一人飲みや女装などいろいろな初体験を始め、人と会うようになったとありました。そうした新たなチャレンジを始めた理由は?

「セカイ、WORLD、世界」(KADOKAWA)に収録された「せかい!!岡啓輔の200年」より。50歳になってからの新井の心境と変化が語られている。ファンは必読。©新井英樹/KADOKAWA

20年引きこもってマンガを描いているうちに、自分の中の世界が嫌になって外に出るようになりました。あと東日本大震災や原発の問題がでかかった、という言い方をすると怒る人もいるかもしれないけど。あそこでその後に描きたいことややりたいことが変わったので、その練習として山田太一さんの「空也上人がいた」のコミカライズをさせてもらって。あれや「せかい!!」は、ほとんど今後の作品のマニフェストみたいな気持ちで描きました。

──原作があるということもありますが、「空也上人がいた」は新井先生の作品の中でも異色ですね。

それまで恥ずかしくって自分のマンガを他人に薦められず「読まなくていい」としか言わなかったんだけど、「空也上人がいた」で初めて人に紹介できるようになった。どんなふうに思われても、責任の半分以上は原作の山田太一先生だから(笑)。あの作品は死に対する向き合い方がすごくって。若いうちは「人の命をこんなに弄んで殺せるんだ、すげーだろ」というのが過激だと思っていたけど、歳を取ると誰かの死をあっさり受け入れる過激さのほうがすごいと感じます。「ワールド・イズ・マイン」の頃から薄々気付いていたけど、その過激さが「空也上人がいた」にはあった。人が死んでも誰も泣かないし。

──そして2015年に連載が始まったのがホームドラマの「なぎさにて」ですが……。

終末が迫る世界で、普通の女子高生として生きる杉浦渚が主人公の「なぎさにて」。3巻までのエピソードで、彼女の物語は「未完」という形で一旦終了する。あとがきで新井は、「何年後か見えないけど完結させます」と綴った。©新井英樹/小学館

この先、若い子たちには絶望しか待っていないから、その絶望とどうやったら付き合えるか、絶望を遊び道具にする生き方を提示できないか。そんなテーマを持って、若者への応援のつもりで始めたのが「なぎさにて」。だけど打ち切られちゃった。

──ついにポジティブなメッセージを持った、新井先生の新境地を見られると思っていただけに、未完という終わり方が残念でした。

俺は「なぎさにて」を本気で代表作にするつもりだったから。カッコつけるわけじゃないけど、あれが打ち切りになったおかげで「いつ死んでもいい」と言えなくなったのが悔しい。それが心残りになるから。

「愛しのアイリーン」
2018年9月14日(金)公開
「愛しのアイリーン」
ストーリー

年老いた母と認知症の父と地方の山村で暮らす、42歳まで恋愛を知らずに生きてきた男・宍戸岩男は、コツコツ貯めた300万円を手にフィリピンへ花嫁探しに旅立つ。現地で半ばヤケ気味に決めた相手は、貧しい漁村生まれの少女・アイリーン。岩男は彼女を連れて久方ぶりに帰省するが、岩男の母・ツルは、息子が見ず知らずのフィリピーナと結婚したという事実に激昂する。

スタッフ / キャスト

監督・脚本:吉田恵輔

原作:新井英樹「愛しのアイリーン」(太田出版刊)

主題歌:奇妙礼太郎「水面の輪舞曲」(ワーナーミュージック・ジャパン / HIP LAND MUSIC CORPORATION)

出演:安田顕、ナッツ・シトイ、木野花、伊勢谷友介、河井青葉、ディオンヌ・モンサント、福士誠治、品川徹、田中要次ほか

※吉田恵輔の吉はつちよしが正式表記
※R15+指定作品

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新井英樹(アライヒデキ)
1963年9月15日、神奈川県横浜市生まれ。明治大学を卒業したのち文具メーカーに就職するが、1年で会社を辞めマンガ家を目指す。1989年、「8月の光」でアフタヌーン四季賞の四季大賞を受賞しデビュー。1993年、サラリーマン時代の経験を基に描いた「宮本から君へ」で第38回小学館漫画賞青年一般向け部門を受賞。仕事や恋に真剣になりすぎるあまり過剰になってしまう新米営業マンを描き高く評価された。以降、中年男とフィリピン人の嫁をめぐる人々のコミュニケーションギャップを描く「愛しのアイリーン」、怪物ヒグマドンとテロリスト2人組が世界を破滅へ導く「ザ・ワールド・イズ・マイン」、目の前で両親を殺され、感情のままに行動する3歳児を描く「キーチ!!」と立て続けに衝撃作を発表。2018年には「宮本から君へ」がテレビドラマ化、「愛しのアイリーン」が実写映画化と、映像化が続いた。そのほか著作に「シュガー」「RIN」「キーチVS」「SCATTER -あなたがここにいてほしい-」「空也上人がいた」「なぎさにて」「KISS 狂人、空を飛ぶ」「ひとのこ」などがある。