映画「愛しのアイリーン」公開記念インタビュー|新井英樹の怒りの炎は、今も燃えているか?

「共感を得るなんて甘っちょろい」なるほどな、と

──新井先生は来年で1989年の「8月の光」でのデビューから30年を迎えられますが、映像化も続き、改めて作品への注目度も高まっています。ここからは、そんな歴代の作品についてじっくりと振り返らせてください。まずは初の長期連載作となる「宮本から君へ」が始まった経緯は?

新井英樹の仕事場。

「宮本」は、最初は「1本読み切りを描かないか」と言われて描いたものが連載になったんだよね。サラリーマンものなんて描こうと思っていなかったのに。

──先ほど「アイリーン」で「読者に嫌がらせしよう」という思いがあったという話がありましたが、そういった姿勢は「宮本」で中野靖子をレイプさせて読者から散々叩かれたことから芽生えたのでしょうか?

そもそも俺が天の邪鬼ではあるんだけど、まず、靖子の件は俺がきっかけじゃないから。もともとは真淵拓馬が部屋に入ってきて、宮本が寝ている横で靖子に迫るけど拒絶されて出ていく。そんなネームを切っていたのに、当時のモーニング(講談社)の名物編集長・栗原良幸さんから電話があって「新井さん、『宮本』でこういう展開は反則なんだけど、靖子をレイプさせないか」って言われたの。横にいた俺の担当はずっと首を横に振っていたけど(笑)。でも「それをやっていいなら、どんな話が描けるだろう」と興味が湧いて、その流れにしたんです。

──のちのカタルシスがあるとは言え、そちらに舵を切る決断は難しかったのでは。

当時のモーニングは売れているヒット作がいっぱいある中で、「宮本」はほとんど売れていませんでした。しかも編集部からは、俺は悪いことを伝えても潰れないと思われていたのか、嫌なことが書かれた手紙や葉書を全部送られてきていたの。単行本を買ってくれないのに、文句は言う。だったらこっちも徹底的に叩くぞと思って。

──「宮本」は当時賛否両論でしたね。

賛なんて全然。先日「宮本」のトークショーで共演した映画監督の山下敦弘さんと松江哲明さんも、「周りで『宮本』を嫌いなんて人いなかった」と言っていたけど、それは連載当時に聞かせてくれよ(笑)。単行本が売れていたり、「好きだ」という声が聞こえたりしていたら、その後のスタイルは変わっていたんだろうな……。当時、栗原編集長に言われて今でも肝に銘じている言葉があるんです。宮本と靖子が男女の関係になり、担当に「2人の幸せを10週間描け」と言われて、苦しみながらも2、3週間描いていたら、読者の反応がよくなったんだけど。そのときに「最近好かれてるみたいだね。いいか、共感を得るなんて甘っちょろいこと考えるなよ」と言われて「なるほどな」と思って。それからは、連載なんてものは読者の鼻先を指で捕まえて、引きずり回すものだと思って描いています。

新井英樹

子供が生まれて気付いた、下の世代につなぐこと

──「愛しのアイリーン」連載中にはお子さんが生まれましたが、特に作風に影響はなかったでしょうか?

娘が生まれたのはツルがアイリーンに対してショットガンをぶっ放したときだけど、自分では何が変わったとかはわからない。妹には「子供ができてから変わった」と言われるけど。ただ、それまですごく自意識が暴走して、ろくでもないことをして落ち込むということを繰り返していた俺でも……それは今も大して変わらないんだけど……生まれた子供を見たときに「俺の中で一番優先することは、もう自分じゃなくて子供なんだな」とは思いました。

「ザ・ワールド・イズ・マイン」(KADOKAWA)より。新井作品では、次世代に何かを伝えることへの賛美が頻繁に登場する。©新井英樹/KADOKAWA

──そういった次の世代への思いという要素は、「アイリーン」のクライマックスや次作「ザ・ワールド・イズ・マイン」の塩見警部補のセリフ「先に生まれだ者がこれからの者達に人間は素晴らしいって伝えねえで おメどうすんだ!?」を始め、その後の新井作品に頻繁に登場します。

自分たちの世代がいい思いをして、下の世代が自分たちよりもチャンスに恵まれず、環境もよくない。そんな状況に対して、自分が何もしない卑怯者になるのがすごく嫌なんです。だから「宮本」や「アイリーン」が映像化されてうれしかったのは、下の世代に自分が描いたことが届いていたのがわかったこと。さらに吉田監督も、「宮本」の真利子監督も同じように「若い子に観てほしい」と言っていて、「下の世代につなぐ」という意識は、人間の本能としてあるのかな。そういったことを幸せと感じられるのは、子供が生まれたからこそなのかもしれない。

──確かにおふたりとも新井先生に対するリスペクトを率直に表明しています。また両作とも今年の映像化に際して、連載時以上に好意的な扱いを受けているかもしれません。ただ続く「ザ・ワールド・イズ・マイン」に関しては、連載当時から雑誌などで取り上げられて評価が高かった覚えがあります。

あれがサブカル方面で評価されていたときは「俺、そこのレースには乗りたくないから。外したものがやりたいから」と思っていた(笑)。もともと「ワールド・イズ・マイン」は「アイリーン」以上に自分が知らないことを練習しようとして、政治や哲学、警察なんかを描いたの。警察なんて各県警のエンブレムからパトカーのデザインまで徹底的に調べて「これだけ細かく描いたら、オタクも引っ掛かるかな」なんて思いながらね。でも物語が進むごとにどんどんシリアスになり話の規模もエスカレートしていって、最終的に大統領までたどり着いた頃にはくたびれ果てた。それで単行本が売れていれば全然いいんだけど、連載終了時に銀行口座には7万円だけ。もう身も心もボロボロ。だから次は明るいものを描きたくなったんです。

「RIN」はBLマンガになるはずだった

──「ワールド・イズ・マイン」が終了した2001年、「シュガー」の連載が始まりました。「シュガー」やその続編「RIN」が歴代でも特に明るい作品になったのは、「ワールド・イズ・マイン」の後遺症だったと。

そう。あと俺は「宮本」なら田島、「アイリーン」なら斉藤さんみたいな脇役が好きなんです。主人公が熱くなっているときに横槍を入れたり、水を差したり、物語の進行には一切責任を持たないツッコミ役。それを主人公にやらせたら面白そう、と考えて生まれたのが石川凛。すごく好きな主人公です。

新井英樹

──凛はものすごい天才で成功していくけど、どんどん孤独になる辺りが新井先生らしいと感じました。

好かれようと思って主人公を描くのが嫌だから、絶対的に増長した奴にしようと思った。そもそも10代で突出した才能があったら増長するに決まってるし。あと「宮本」を描いているとき、例の栗原編集長に「ボクシングの天才は目が死んでいる。新井さんが描く目は生きているから、ボクシングはどうかな?」と言われていたの。確かに天才ボクサーの目を見ていくとみんな光がない。それはなぜかと考えていたら、孤独とか孤高って要素が浮かんだんです。ただし(マニー・)パッキャオの目は別(笑)。

──なるほど。

「RIN」は打ち切りだったけど、本当はあそこから凛と同じような能力を持った奴が現れて、そいつとのBLマンガにするつもりだったんですよ。才能ある者同士って、たぶん性別を超えたところで惚れ合うだろうから、そういう空気が流れてもおかしくない。

──ものすごい発想の飛躍に聞こえますが……。

いや、実際にボクシングの取材に行ったラスベガスで現地のカメラマンと話していて、「あのボクサー、ゲイですよね」って、俺が何人も当てたの。やっぱりそういう繊細な部分があるんだってわかったから、「これならBLを描ける」と思えた。本当はそこまで描きたかったんだけどね。

──とても残念です。「シュガー」と「RIN」はアクション描写の巧みさも際立っていたように感じます。

「RIN」より。卓越した動体視力とボディバランスで敵を翻弄する凛のボクシングスタイルが、新井のスーパーな筆致で描かれた。

すごく意識していました。ボクシングマンガを描くなら「あしたのジョー」や「がんばれ元気」「はじめの一歩」を超えるものにしなきゃいけないって。だからとにかくほかのマンガよりも動く……コマのリズムとか、多少リアルでなくてもここは腕を伸ばして描いたほうが動きのニュアンスが伝わるとか、そういったことをずっと考えていました。それをほかのマンガでやろうとすると、動きがスマートすぎて素人の動きに見えないんですよ。だから「シュガー」「RIN」は、スーパーな奴のスーパーな動きを、存分に描けたのが心地よかったです。

「愛しのアイリーン」
2018年9月14日(金)公開
「愛しのアイリーン」
ストーリー

年老いた母と認知症の父と地方の山村で暮らす、42歳まで恋愛を知らずに生きてきた男・宍戸岩男は、コツコツ貯めた300万円を手にフィリピンへ花嫁探しに旅立つ。現地で半ばヤケ気味に決めた相手は、貧しい漁村生まれの少女・アイリーン。岩男は彼女を連れて久方ぶりに帰省するが、岩男の母・ツルは、息子が見ず知らずのフィリピーナと結婚したという事実に激昂する。

スタッフ / キャスト

監督・脚本:吉田恵輔

原作:新井英樹「愛しのアイリーン」(太田出版刊)

主題歌:奇妙礼太郎「水面の輪舞曲」(ワーナーミュージック・ジャパン / HIP LAND MUSIC CORPORATION)

出演:安田顕、ナッツ・シトイ、木野花、伊勢谷友介、河井青葉、ディオンヌ・モンサント、福士誠治、品川徹、田中要次ほか

※吉田恵輔の吉はつちよしが正式表記
※R15+指定作品

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新井英樹(アライヒデキ)
1963年9月15日、神奈川県横浜市生まれ。明治大学を卒業したのち文具メーカーに就職するが、1年で会社を辞めマンガ家を目指す。1989年、「8月の光」でアフタヌーン四季賞の四季大賞を受賞しデビュー。1993年、サラリーマン時代の経験を基に描いた「宮本から君へ」で第38回小学館漫画賞青年一般向け部門を受賞。仕事や恋に真剣になりすぎるあまり過剰になってしまう新米営業マンを描き高く評価された。以降、中年男とフィリピン人の嫁をめぐる人々のコミュニケーションギャップを描く「愛しのアイリーン」、怪物ヒグマドンとテロリスト2人組が世界を破滅へ導く「ザ・ワールド・イズ・マイン」、目の前で両親を殺され、感情のままに行動する3歳児を描く「キーチ!!」と立て続けに衝撃作を発表。2018年には「宮本から君へ」がテレビドラマ化、「愛しのアイリーン」が実写映画化と、映像化が続いた。そのほか著作に「シュガー」「RIN」「キーチVS」「SCATTER -あなたがここにいてほしい-」「空也上人がいた」「なぎさにて」「KISS 狂人、空を飛ぶ」「ひとのこ」などがある。