岡田利規がつづり、湯浅永麻と太田信吾が紡ぐ「わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド」

岡田利規がテキストと演出を手がけ、岡田と湯浅永麻、そして太田信吾が共同振付する異色のダンス作品が、彩の国さいたま芸術劇場で生み出される。日々さまざまな情報に振り回されている私たち自身を描いた本作は、昨年、第1部のみがワーク・イン・プログレスとして発表され、今回が“完成版”となる。共にフラットな目線で、ジャンルを超越したクリエーションに臨んできた三者は、本作にどのような息を吹き込むのか。本格的な稽古開始を目前にした7月下旬、それぞれの思いを聞いた。

取材・文 / 熊井玲撮影 / 藤田亜弓

岡田利規インタビュー

岡田利規

私たち自身が、まさにナラティヴに振り付けられている

──本作のタイトル「わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド」は、非常に印象深く、示唆に富んだタイトルですね。身体の中で、ナラティヴ、つまり“人の思考を規定するための物語”がバトルを繰り広げている……真偽不明なSNS上でのやり取り、日々トレンドが変わる健康法、更新され続けるコロナに関するニュースなど、あふれかえる情報に向き合い、それを取捨選択しながら生きている私たちにとって、まさに自分の中で起きている問題と言えます。

簡単に膨大な情報に、ナラティヴにアクセスできる現代の状況の中で、ナラティヴが私たちに及ぼす影響というのはとても重要な問題ですから、それを僕も僕なりの仕方で扱った作品を作ってみたい、ということはわりとずっと考えてたんです。そこに彩の国さいたま芸術劇場のダンス部門のプロデューサーの佐藤まいみさんから「ダンサーの湯浅永麻さんとのプロジェクトを」というお誘いをいただいたんですね。で、このテーマはダンスという形式で扱うのにはうってつけだなと、すぐ思ったんですよ。私たちに及ぼす影響、というのを、私たちの身体に及ぼす影響、というふうにちょっとだけスライドさせて考えてみればそれはダンスの問題になりますからね。ナラティヴを振付としてとらえる。ナラティヴとしてのテキストを僕が書き、そのナラティヴに振り付けられている様をダンスとして提示する。そのようなコンセプトで作られるダンス作品は、ダンス作品であることの必然性を自ずと持つだろう、というふうにも思えた。「すごいダンサーを仰ぎ見る」というふうではなく、自分もそれと無関係ではない問題と美学的に感覚的に向き合う場としてお客さんに経験してもらえるようなダンス作品。で、この提案をしてみたところ、劇場からも永麻さんからも気に入ってもらえた。というわけでこの公演が実現しようとしているわけです。

──岡田さんと湯浅さんは、今回が初コラボレーションとなります。湯浅さんはネザーランド・ダンス・シアター(NDT)で活動後、近年は現代美術家や能楽師、建築家など、ダンスに留まらずさまざまなアーティストとコラボレートしながら活動の幅を広げています。岡田さんは、湯浅さんのどんなところに面白さを感じていますか?

一緒にやっていて楽しいしやりやすいです。ダンサーとして素晴らしいからそれを見ていて楽しいというのはもちろんなんですが、クリエーションの過程で行うディスカッションでもとてもオープンだし、考えてることも面白いですし。ダンサーだけど舞台上でしゃべることへの苦手意識とか尻込みとかも全然ない。それどころか、セリフをしゃべってるところがすごく面白いです。覚えるのもすごく早くてびっくりました。

──湯浅さんはご自身の作品でも、自分の内側を掘っていくのではなく、ダンスを介して世界との接点を求めているというか、外へ外へとダンスを広げようとしている印象があります。

そうですよね。だからこそ僕がこの作品でやろうとしているコンセプトにも興味を持ってくれたんだと思います。

──岡田さんは近年、酒井はなさん、森山未來さん、石橋静河さんなど身体性が強い人とのコラボレーションが続いています。身体への興味はずっとお持ちだと思いますが、その関心がさらに強まっているのでしょうか?

関心は以前から強いので、それがまだキープされているとは思います。ただ、関心のありようは少しずつ変化し続けてます。その結果、多岐にわたるようになって来ているというか、いくつかのバリエーションを持つようになって来てもいる気がします。以前だったらはなさんや未來さんや静河さんのような“踊れる人”との協働というのは、考えられなかったです。だってまず、僕がそこに介入する必要がどこにもない。そして、いわゆる“踊れる人”ではない人の身体を舞台芸術の主要な構成要素として、“観るに値する身体”として提示することが僕の当時の、ほとんど唯一の関心だったから。その状態から今とは、だいぶ変わってますよね。

太田信吾を迎え、“完成版”を目指す

──本作は、昨年3月に上演された「さいたまダンス・ラボラトリVol.3『明日を探る身体』」にて、第1部のみがワーク・イン・プログレスとして公開されました(参照:「さいたまダンス・ラボラトリ」公演に、岡田利規×湯浅永麻の新作など4作品)。第1部では、ある若い女性が、SNS上で人気のある“先生”の「身体の声を聴く」という言葉に思いを巡らせると共に、それに対するさまざまな意見に翻弄されていく様が湯浅さんの身体を通して描かれました。今回の“完成版”では2・3部が新たに創作されるほか、俳優の太田信吾さんも参加されます。

昨年のワーク・イン・プログレスを経て、「さらに作品が展開していく広がりを持つには、もう1人誰か入ったほうが良いんじゃないか、それはダンサーではなく俳優が良いのではないか」とまいみさんから提案があって、それに僕も完全に賛成でした。太田くんが良いのでは、というのもまいみさんのアイデアでした。太田くんってなんだかダンス関係者からの評価が高いんですよね。あるダンサーが言ってたのは、ダンサーの動きっていうのは、次はこう動くだろうなというのが見ていて大抵、なんとなくわかるものなのだけど、太田くんのは全然わからないらしく、それですごいと感じるみたいです(笑)。

──湯浅さんと太田さんは、パフォーマーとしてある意味、対極的な組み合わせですね。

そうですね。バリバリ踊れる、それでいてどこか翻弄されやすそうな危なっかしさを醸し出す永麻さんと、得体の知れない雰囲気と動きの太田くんとの、コントラストのある組み合わせはすごく良いですよね。

──ワーク・イン・プログレスでは、湯浅さんが1人で複数役を演じ、一人芝居というような形で展開していきました。2・3部では2人の対話という形で展開していくのでしょうか?

第1部では、永麻さん演じる“わたし”は“先生”という人のナラティヴに心酔している、その様子が描かれています。第2部から出て来る太田くんは、そこに異議を唱えていって、“わたし”を“先生”のナラティヴから引き離し、それとは別のナラティヴで翻弄します。第1部は永麻さんのソロですけど、第2部以降は2人でのパフォーマンスになります。演劇的な言い方するならダイアローグに、ダンス的な言い方するならデュオになる、ということですね。

──過去のインタビューで岡田さんは、湯浅さんが複数の人物の発言を語る様を“落語スタイル”と表現されていましたが、ある種、イタコのようにも見えました。というのも、最初は湯浅さん自身が自分の話として先生の話を始めるように見えますが、そこから別の人たちの発言が入ってくると、言葉上は複数人を演じ分けつつ、身体はそのどの人物にも付随しないように見え、身体が大きな器として存在しているように感じたからです。ですので、冒頭に登場する“意識と身体が一体化した人物”の輪郭がどんどんぶれて曖昧になり、意識と身体の距離が徐々に離れていくように感じたんです。

確かに落語というよりイタコに近いですね。

──また、湯浅さんの身体が一瞬誰でもなくなるというか、空っぽになる瞬間もありました。

それは、たぶん、永麻さんがそういうタイプのパフォーマーだということじゃないかと思います。自分自身は器のようなもので、そこに何でも容れられる、何にでもなってしまえる、みたいな感じがして、それはもちろん技術なんですが、でも同時にちょっとした危うさのようなものにも感じられる。永麻さんが見ていて面白いのはそういうところですね。

ダンサーに留まらず、誰にも関係する問題として

──ワーク・イン・プログレスの公演プログラムには「わたしたちはナラティヴに振り付けられて現実を生きている」という岡田さんのメッセージが掲載されていました。あえて「振り付けられている」という表現を選択したのは、なぜですか?

この作品がダンス作品だから「振り付け」という言葉を使った、という単純な魂胆です(笑)。自分は100%自分の意思で動いている、なんてことはありえない。それを、誘導されていると言ってもいいし、デザインされていると言ってもいいんですけど、“振り付けられている”と言っても良いと思います。

──岡田さんにとって、演出と振付は、どのような違いがありますか?

僕には違いがわかりません。違いを定義する必要を感じていないので、あまりきちんと考えたこともありません。

──前回のワーク・イン・プログレスから1年半が経ち、今回新たに加えていきたいと思っていることはありますか?

コンセプトが変化したということはありません。トレンドになっているナラティヴの内容は時期によって変わりますけど、ナラティヴをめぐる問題に私たちはからめとられているということ自体は、変わらないので。実際に1年半の間隔を空けたことでそれを再確認できていることは、有意義だなと思ってます。

──前回は舞台美術などがないほぼ素舞台のような空間で、湯浅さんも稽古着のようなラフな衣裳でパフォーマンスしていました。完成版では衣裳や舞台装置、照明といった要素も入ってくるのでしょうか?

本当に何もない素舞台、ということにはなりません。でも、とてもシンプルな設えの予定です。

──近年岡田さんは、人とモノの関係にフィーチャーした「消しゴム」シリーズや、能の形式にのっとった「未練の幽霊と怪物」、藤倉大さんとの新作音楽劇、上演と上映のあわいを行く〈映像演劇〉の作品群など、対象となるジャンルやコンセプトに違いはありつつも、人とモノ、生者と死者、フィクションとノンフィクションといったボーダーをフラットに見つめて現実を捉え直そうという姿勢が一貫しています。今作も、そのアプローチの最先端を行く作品になりそうです。

確かに、それぞれの作品の違いは、プロダクションの形式とか参加するメンバーの違いといった条件の違いだけかもしれません。

──本作も、ダンスの枠組みではありますが、演劇や多方面に広がっていきそうです。

そうなったら良いですね。そしてそれが、ダンスへの貢献に少しでもなったらうれしいです。今回、せっかくダンスの枠組みで作品を作らせてもらっているので。観に来てくれるお客さんの、日々の生活やそこで感じているいろいろなことと結びつきを持っているものとしてのダンス作品を提示したいです。

左から湯浅永麻、岡田利規、太田信吾。

左から湯浅永麻、岡田利規、太田信吾。

プロフィール

岡田利規(オカダトシキ)

1973年神奈川県生まれ。熊本県在住。劇作家、小説家、チェルフィッチュ主宰。1997年、チェルフィッチュを設立。2005年、「三月の5日間」で岸田國士戯曲賞受賞。同年、ダンス作品「クーラー」でTOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2005-次代を担う振付家の発掘-の最終選考会に出場。2007年以降、チェルフィッチュは国外公演も多く行う。2008年、デビュー小説集「わたしたちに許された特別な時間の終わり」で大江健三郎賞受賞。2016年以降、ドイツの公立劇場での作・演出作品発表の機会を継続的に得ている。「The Vacuum Cleaner」がベルリン演劇祭(Theatertreffen2020)に選出。ハンブルク・タリア劇場で制作した「Doughnuts」もTheatertreffen2022に選出された。2021年に発表した「未練の幽霊と怪物―『挫波』『敦賀』―」で読売文学賞戯曲・シナリオ賞及び鶴屋南北戯曲賞、2022年に小説「ブロッコリー・レボリューション」で三島由紀夫賞を受賞。