ここでは「消しゴム森」の作・演出を手がける岡田利規、セノグラフィー担当の金氏徹平、映像担当の山田晋平のインタビューを紹介。それぞれのクリエイターが語る、「消しゴム森」に懸ける思いとは?
──「消しゴム森」上演の前には、対となる作品「消しゴム山」が上演されました。「消しゴム山」の上演では、どのような感触を得ましたか?
途中で帰ったお客さんがたくさんいたので驚きました。そこまでヘンなものを作っているつもりがなかったので。そのことには、初演の終演後に気付いた次第です。あるスタッフにそう話したら「俺は最初からわかってましたよ」と言われましたけど(笑)。同時に、この作品の核心部分が届いている感触も得られました。いつも以上に「“賛否両論感”高いな」というふうに思いました。
──「消しゴム山」「消しゴム森」の創作過程において、金氏さんの発言や言動で印象的だったことはありますか?
僕の演劇的なパースペクティブとはまったく異なるそれで金氏さんはリハーサルを観ていて、それがものすごく面白かったし、創作プロセスの大いなるブーストになりました。一緒に陸前高田の復興工事の様子を見に行ったのですが、その経験はやっぱり大きかった。金氏さんはそれをランドアートに喩えたりしました。
一番決定的だったのは、この上演における人と物の関係を探るための有効なツールとして金氏さんが持ち込んだ“半透明”というキーワードです。この言葉が創作プロセスにものすごく重要な指針を与えてくれました。半透明になるためのワークショップ、とかやったり。謎でしょ。
──金氏さんが用意したアイテムで、特に岡田さんや俳優さんを触発した“共演者(モノ)”があれば教えてください。
僕は例えば発泡スチロール製の大きな岩ですね。俳優には個々で触発されたものがあると思いますが、僕にはそれはわからないのでぜひ彼らに聞いていただければと。
──岡田さんはこれまでもギャラリーや美術館で作品を発表されていますが、金沢21世紀美術館のどのようなところに面白さを感じていますか。また「消しゴム森」に対して、金沢21世紀美術館という空間がどのような影響を与えると思いますか。
展示室が独立していて順路を規定しようとしても難しい。逆に言うと彷徨するにはもってこいの空間なので、森の中を逍遥するような、なんならちょっと迷子にもなってしまうような感じで、来場者に「消しゴム森」を体験してもらえるのではないかと思ってます。
──今回、岡田さんは人間中心主義の先を行くクリエーションを掲げられています。“人と物”の関係性という点では、劇場で観る「消しゴム山」より、美術館で上演される「消しゴム森」のほうが、よりその目線を強く体感できるのではないかと思いますが、「消しゴム森」で新たに試みたいと思っていること、深めたいと思っていることはありますか。
劇場は基本的に人(役者)を観る場所で、美術館は基本的に物(作品)を観る場所だと言えるでしょう。つまり劇場は美術館よりも人間中心主義的となりやすい空間。そこで「消しゴム山」のような作品をやったからこそ途中退席者続出という事態が生じたのかもしれませんが、これは言い方を変えればそうした因習があるおかげでやっていることが挑戦的に見えやすいというメリットが劇場版である「山」にはあったということで、対して美術館では物が主役なのは当たり前ですので、ある意味ではセキュアな状態で我々のやりたいことをやりきれるでしょう。また美術館では時間の概念が劇場におけるそれとは違いますから、その意味でもやりやすいというか、もっと具体的に言えば長い時間のパフォーマンスにできる。それがなにより「森」で突き抜けた仕方で、試みたいことです。
- 岡田利規(オカダトシキ)
- 1973年神奈川県出身、演劇作家、小説家。1997年にチェルフィッチュを立ち上げ、2005年に「三月の5日間」で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。同年に「クーラー」で、TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2005-次代を担う振付家の発掘-の最終選考会にも出場し注目を集める。同時に海外での活動も展開し、高い評価を得る。また小説家としては、2007年にデビュー小説集「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を発表し、翌年第2回大江健三郎賞を受賞する。2014年からは美術展覧会にも活躍の場を広げ、「映像演劇」の作品制作にも取り組んでいる。近年の活動では、2015年にKAATキッズプログラム「わかったさんのクッキー」で、初の子供向け作品の台本・演出を担当。同年、アジア最大規模の文化複合施設Asian Culture Center(光州 / 韓国)のオープニングプログラムとして初の日韓共同制作作品「God Bless Baseball」を発表する。2016年には瀬戸内国際芸術祭にて森山未來との共作パフォーマンスプロジェクト「in a silent way」を滞在制作・発表したほか、2016年よりドイツ公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレのレパートリー作品の演出を4シーズンにわたって務めている。チェルフィッチュ創立20周年にあたる2017年には、「三月の5日間」リクリエーションで全国7都市ツアーを実施。2018年にはウティット・ヘーマムーンの小説を原作にした新作を、タイで滞在制作・上演。2019年には作・演出を手がけた新作「The Vacuum Cleaner」がミュンヘンにて上演された。
──「消しゴム山」の上演では、どのような感触を得ましたか。
コンセプトの実現が含む不可能性と、それでこその面白さと手応えを感じました。それにしてもこれが誰かに伝わるかというと、まだまったくわからず、もしかしたら、スタッフそれぞれが、特に俳優陣は、まったく違ったビジョンに出会っているのではないかと感じています。
──「消しゴム山」「消しゴム森」の創作過程において、岡田さんの発言や言動で印象的だったこと、エピソードがあれば教えてください。
観客に届ける、観客の中で演劇を立ち上げるということにおいては、これまでの作品でやりきった、とはっきりおっしゃっていたこと。なかなか言えることではないので、カッコいいなと思いました。その一方で、その先のことを目指しているので、これは相当大変だなと思いました。
あとは陸前高田の復興工事の現場を見た経験はとても興味深いです。
──台本の中で、特に金氏さんを触発したエピソード、セリフはありますか?
制作を始めた当初から出ていたイメージである“逆バック・トゥ・ザ・フューチャー”というコンセプトにまつわるエピソードで、この世に生まれていない、存在していない青年が、「こんなクソみたいな世の中に生まれなくて本当に良かった」と思っていて、間違って生まれてこないようにいろいろと行動する、というエピソードで、実際の劇中ではミショーという青年の詩として出てくるのですが、生まれていない、存在していない人間が、“思う”ということに大きくイマジネーションを刺激されました。
──金氏さんは、金沢21世紀美術館の空間の、どのようなところに面白さを感じていますか。また「消しゴム森」に対して、金沢21世紀美術館という空間がどのような影響を与えると思いますか。
美しいホワイトキューブ(空白)の連続でありながら、それぞれにまったく異なった固有のスケール感を持っているところが特徴であり、別の星が連なっているようでもあり、それは例えば同じモノや人間が部屋を移動することで異なった時間軸を移動しているようにもできるのではないかと考えている。部屋と部屋をつなぐ空間は現実空間とも地続きの場所なので、そこの役割が重要であると思います。
──今回、「消しゴム山」「消しゴム森」では“人と物”のフラットな関係が目指されています。その点で、劇場で観る「消しゴム山」より、美術館で上演される「消しゴム森」のほうが、よりその目線を強く体感できるのではないかと思いますが、「消しゴム森」で新たに試みたいと思っていること、深めたいと思っていることはありますか。
フラットな関係や距離によるスケールの変化などは美術館では当たり前に成立してしまうので、劇場バージョンでのチャレンジングな部分がどのように変化するかは、まだわかりません。期待しているのは、物語の前後や、空間の見えていない部分など、引き延ばされた時間や空間の中でのモノの見え方や存在感の変化で、人間の時間のスケールとのズレははっきり出てくるのではないかという部分です。
- 金氏徹平(カネウジテッペイ)
- 1978年京都府生まれ、京都市在住。2001年京都市立芸術大学在籍中、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(イギリス・ロンドン)に交換留学。2003年、京都市立芸術大学大学院彫刻専攻修了。現在、同大学彫刻専攻准教授。日常の事物を収集し、コラージュ的手法を用いて作品を制作。彫刻、絵画、映像、写真など表現形態は多岐にわたり、一貫して物質とイメージの関係を顕在化する造形システムの考案を探求。個展「金氏徹平のメルカトル・メンブレン」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、2016年)など国内外での展覧会のほか、舞台美術や装 丁も多数。あうるすぽっとプロデュース「家電のように解り合えない」(2011年)、KAAT キッズ・プログラム2015おいしいおかしいおしばい「わかったさんのクッキー」(2015・2016年)での舞台美術を始め、自身の映像作品を舞台化した「tower(THEATER)」(KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2017)では演出を手がける。
──山田さんはこれまでもさまざまな舞台に関わられていますが、チェルフィッチュの“映像演劇”に対してはどのような可能性を感じていらっしゃいますか?
「映像を、どんな物質によって可視化するか」ということを、映像制作のスタート地点にしてみたいと考えています。撮影や編集と同じくらい、映像がどうやって観客の前に可視化されるのかを、大事に考えたい。写真を例にすると、ある写真は、それが新聞紙に印刷される場合と、分厚くて立派な写真用紙に印刷される場合では、明らかに異なる印象を生み出します。イメージは、それが可視化されるメディアの物質性(この場合は新聞紙か写真用紙かという、紙の性質)によって、語ることが変化してしまうわけです。そして、それが写真であれ映像であれ、もともとは光でしかないイメージは、可視化されるための物質がなければ、可視化されません。私たちは「映画はできれば映画館のスクリーンで、テレビ番組はテレビモニターで観る」のが「最適だ」と思っているところがあり、それを否定するつもりはありませんが、しかし突き詰めていくと、あるイメージにとって「正しい」あるいは「最適な」物質などなくて、選択肢は本当は無限にあるように思えます。イメージをどういう物質で可視化するかという選択は、映像の作り手として大いに企むことができる部分だと思うし、新しい表現や手法が生まれる可能性が残されている部分だと思います。
“視覚的触質感”は、おそらくすべてのビジュアルアートにとって重要な要素ですが、プロジェクションに関して言えば、それは映像の内容だけでなく、映像が投影されているものの質感にも関係させて考えられるし、考えていきたいと思っています。
──「消しゴム山」は劇場で、「消しゴム森」は美術館での上演となります。金沢21世紀美術館という空間は、作品にどのような影響を与えると思いますか。
近くで観るか遠くで観るか、ということは大きな違いで、これは何らかの影響が現れると思います。舞台や映画館と違って、かなり近くで映像を観ることができる、そういう経験ならではの質感を作り出したいと思っています。
映像演劇においては、2つのフィクションが同時に起こる必要があります。1つは“映像の中のフィクション”で、これは通常、映画やテレビドラマでも成立している、一般的なことです。もう1つは「観客がいる空間に対して、フィクションが作用する」ということで、これは「映像を観る」という経験全般から考えると、映像演劇独特の現象だと思っています。劇場と美術館では観客のあり方が違いますから、この2つ目のフィクションのあり方が変わってくるはずです。
劇場版「消しゴム山」も美術館版「消しゴム森」も、「人間の観客が、作品と同一空間に存在する」という事実が、作品に意識的に取り込まれていると思います。劇場の場合では「観客席から、ほかの観客を観る」ということはあまり起こりません。一方で、美術館では、作品を観ている観客が、別の観客の視線に含まれることになります。このことだけでも、劇場とは異なる現象が起こると期待しています。
──岡田さんは、演劇(人間)と美術(モノ)をつなぐ存在として、映像を重視していらっしゃるとインタビューでお話されていました。今回、「消しゴム森」で山田さんはどんなアプローチを試みていらっしゃいますか?
人間である“俳優”と、“モノ”を撮影して、投影することになります。カメラの前では、人間もモノも等しく“光を反射するもの”です。また、どちらも本当は3次元の立体物ですが、カメラの前では“平面化”します。映像というテクノロジーの前に二者を同じ条件に置くことで、同質化させることができると言えます。一方で、「消しゴム森」では生身の人間である俳優と、生身のモノが展示される / パフォームすることになります。それは、映像とは異なる質感で現れるはずです。映像によって、すべての存在の同質性と差異が意識化されるようなことができるのではないかと、考えています。
- 山田晋平(ヤマダシンペイ)
- 舞台映像作家。1979年生まれ。愛知県豊橋市在住。京都造形芸術大学 映像・舞台芸術学科 舞台芸術コース卒業。演劇やコンテンポラリーダンスを中心に、オペラ、コンサートなど、さまざまな舞台芸術の上演内で使用される演出映像の製作が専門。撮影から編集、舞台上での投影に至るまでの設営、上演中のオペレーションまで、すべてのデザイン及びディレクションを行う。これまでに参加した主な舞台作品は、チェルフィッチュ、維新派、白井剛など、国内外での公演多数。主な美術作品は、現代美術家・金氏徹平とのプロジェクションマッピング作品「holes and buildings」、舞鶴市赤れんが配水池を会場とした特別展覧会「パラピリオの森」の企画監修、演劇作家・岡田利規による「映像演劇」シリーズの映像担当、ツアーパフォーマンス「Kawalala-rhapsody」(兵庫・城崎国際アートセンター)の監修など。