「ジャポニスム2018:響きあう魂」 PR

「書を捨てよ町へ出よう」「マハーバーラタ~ナラ王の冒険~」フランス公演レポート

藤田貴大演出「書を捨てよ町へ出よう」と、宮城聰演出「マハーバーラタ~ナラ王の冒険~」は、共に原作をベースとしつつも、演出家の手によって大胆に再構築された現代演劇作品だ。フランスでは両作品がどのように受け止められたのか。演劇ジャーナリスト・徳永京子がレポートする。

一筋縄でいかない藤田演出がどう受け止められるか

「書を捨てよ町へ出よう」より。©KOS-CREA   写真提供:国際交流基金

藤田貴大は、いくつもの点で先行例がない演劇作家だ。26歳という若さで岸田國士戯曲賞を受賞していることからもわかるように、劇作家として早くから完成していたし、同じシーンを角度を変えて何度も繰り返す「リフレイン」という独自の演出方法は、編み出してから10年近く経つ今も効力がある。そうした早熟の才能の持ち主は、往々にして自分の世界へのこだわりが強いが、藤田はオリジナリティを重視する一方で、さまざまなクリエイターとコラボレーションし、既存の戯曲にも手を伸ばす。その結果、主宰するマームとジプシー、脚本や構成を担う個人活動、再演などを含めると年に2ケタの作品を発表する多作ぶりが何年も続いており、さらにその合間に詩や小説を文芸誌に発表し、「ひび」と名付けたクリエイターの卵の集団を自主的に育成している。それらがどういうことかと言えば、藤田にとって演劇を作る行為は、毎日の生活の中で手足を動かすのと同じくらい自然ということだ。

そこまで身体化された創作は、ときに観客に不親切になる。アウトプットまでの回路が作り手にとって自明過ぎて、外側から観たときにどう感じられるかに敏感になれない場合があるからだ。この作品が「ジャポニスム2018」のラインナップに入ったと聞いたとき、実はそれが気になっていた。「書を捨てよ町へ出よう」は寺山修司の同名映画をベースにしており、寺山の映画の特集が組まれると今も盛況と聞くパリではあるが、映画を観た人にとっても一筋縄ではいかないいくつものアレンジが施されている。それがパリの観客にどう受け止められるのか。

寺山のコラージュ精神を藤田が継承

「書を捨てよ町へ出よう」より。©KOS-CREA   写真提供:国際交流基金

もともと「書を捨てよ町へ出よう」は、戯曲、映画、評論という3つの形で発表され、そのいずれもがまったく異なる内容という変則的な作品だ。この舞台のストーリーは映画版に沿っているが、むしろ藤田が重視したのは「コラージュの天才」と呼ばれた、自分が面白いと思うものをジャンルにこだわらず集め、時代の空気で糊付けする寺山イズムだ。私は2015年の初演と18年の再演を東京で観ているが、ストーリーとは関係のないファッションショーがいきなり挿入されたり、芸人で作家の又吉直樹や歌人の穂村弘が映像で登場したりするのを、寺山のコラージュの精神の継承として受け取っていた。もちろん何の根拠もなくそれらが採用されたわけではなく、寺山が今を生きていたら、ファッションやお笑いに注目しなかったはずはないという考えや、寺山と同じ歌人の穂村を通して短歌の感性を織り込む目的が藤田にあったのだろうと思う。だが日本でもそれが充分に共有されたとは思えず、寺山を知る人からは「これは寺山なのか」、それほど詳しくない人からは「なぜファッションショーが始まったのかわからない」という感想を聞いた。

野田秀樹演出「贋作 桜の森の満開の下」や松井周演出「自慢の息子」の会場で感じた、言葉(日本語のセリフ)に頼らず、ビジュアルやフィジカル性から作品の世界観、構造をキャッチしようとアンテナを伸ばすパリの観客の能動性が、この作品でも発揮されることを半ば祈りながら客席に着いた。

集中力を傾ける観客たち

この心配は、7割は杞憂で、3割は当たったと言える。その詳細の前に、客層について書いておきたい。私が観たのは初日だったため、記者やジャーナリストが多かったからかもしれないが、予想よりずっと幅広い年齢層の観客が集まっていた。寺山は演劇実験室◎天井棧敷でフランス公演を成功させており、先に書いたように映画も人気なので、それらをリアルタイムで観ていた世代が多いかと予想していたが、三十代、あるいは二十代とおぼしき人たちも少なくなかった。ちなみに、会場のパリ日本文化会館は普段から日本のカルチャーを紹介するイベントを開催していて、親日家にはなじみがあるそうだ。

さてこの作品はオープニングからハードルが高い。まだ兄と妹の役になる前の佐藤緋美と青柳いづみが登場して、青柳の指導で佐藤が魚の眼球を解剖するシーンから始まるのだ。水晶体にメスを入れられ、透明な膜がくるりとむかれる様子はプロジェクターで舞台の壁にアップになる。案の定、客席全体が固唾をのむ。そして、俳優たちが手際よく、だがそれなりの騒音を立てながら鉄パイプで舞台装置を組み立てていくシーンに移ると、その音の先にあるものをつかもうとするように観客の集中力が高まる。上演中、繰り返し組み立てられ、解体される鉄パイプの音に戸惑う空気、苛立つ気配も感じたが、全体的に辛抱強く、観客は集中力を向け、くるくると表情を変える(コラージュされる)舞台をどうキャッチすべきかアンテナをチューニングしていた。私の席からは見えなかったが、あとから聞くと途中で席を立って帰った人も5、6人いたそうだ。それでも最後の拍手は高い温度を伴ったもので、終演後のロビーには多くの人が残り、興奮した表情が少なくなかった。

時代と場所に共振したのではないか

「書を捨てよ町へ出よう」より。©KOS-CREA   写真提供:国際交流基金
「書を捨てよ町へ出よう」より。©KOS-CREA   写真提供:国際交流基金

三十代であろう男性に感想を聞くと、心配したオープニングのシーンは「確かにショッキングだったが、この作品が“観る”ということを示唆していると思った」と、おそらく藤田の意図とブレのない感想が返ってきた。六十代らしき女性は「字幕が多くてついていけなかった。もう少し俳優のセリフの内容がわかれば、さらに楽しめたかもしれない」と言っていた。視覚にも聴覚にも情報量の多い作品なので、何を取捨選択すればいいのか戸惑う人はほかにもきっといただろう。

帰国後、主にWebに出た劇評を読ませてもらったが、予想以上に好意的なものが多かった。冒頭のシーンは「身体の器官の美しさを見せるメリットがあった」という意見もあったし、鉄パイプの装置については「フレキシブルな装置を作るために選択された」と理解していた評もあった。さらに「映画のストーリーを尊重しながら、また、舞台上にコラージュのセンスを統合しながら、観客の反応が反響される。(中略)演出家は、今日の若者の反乱と共鳴した現代的な解釈を届けようとする」と、コラージュにも触れながら、藤田が更新した現代社会との関係に言及し、組み立てと解体が繰り返される装置に震災を重ねたものもあり、自分が心配したことの小ささを痛感した。本質を見極める目は、間違いなくいくつもそこにあり、パリの観客はその意味で、成熟していたし、みずみずしい感性を持っていた。

藤田に感想を聞くと「五月革命を思い出したというお客さんが何人かいて、僕が演出した舞台にはそれらしいシーンはないけど、寺山さんがこの作品を書いたり映画を撮ったりしていた頃の日本の学生運動と、どこかでシンクロしているのかなと思った」という答えが返ってきた。「書を捨てよ~」のパリ公演は折しも、「黄色いベスト運動」のデモが激しくなる頃で、複数の時代、複数の場所が偶然にも共振したのかもしれないと思った。この偶然を聞いたら、寺山はきっと喜ぶに違いない。

パリの観客が持つアンテナの多さ

「マハーバーラタ~ナラ王の冒険~」より。©Christophe Raynaud de Lage 写真提供:国際交流基金

SPAC-静岡県舞台芸術センターの芸術監督である宮城聰が演出した「マハーバーラタ~ナラ王の冒険~」についても書いておきたい。筆者は10月と11月にのべ2週間、「ジャポニスム2018」の現代演劇作品から合計5作を観た。内訳は、野田秀樹演出「贋作 桜の森の満開の下」、松井周演出「自慢の息子」、岩井秀人構成・演出の「ワレワレのモロモロ ジュヌビリエ編」、「書を捨てよ町へ出よう」、そして「マハーバーラタ~ナラ王の冒険~」で、一連の体験を通じて感じたのは、パリの観客が持っているアンテナの多さだった。セリフが導くストーリー、音や音楽、俳優の声のトーンによる喜劇性やシリアス度のパーセンテージ、俳優の身体性が醸し出すテンポやスピード、照明が導く世界観、美術など、舞台から発せられるヒントを積極的に受信して、自分の感度を細やかにチューニングしていく──。それをごく自然にやっている人の多さを、客席にいて痛感した。

想像以上に高い、演出家・宮城の評価

「マハーバーラタ~ナラ王の冒険~」より。©Christophe Raynaud de Lage 写真提供:国際交流基金

だが唯一、開演前から客席の空気が決まっていたのが、「マハーバーラタ」だった。会場となったラ・ヴィレットは、かつて馬や豚など家畜の食肉市場だったという広大な敷地に造られた、半分野外、半分屋内のような劇場で、客席は1000という大きさなのだが、6公演すべてが前売完売という人気ぶりだった。ぎっしり埋まった座席ではっきり感じたのは、演出家・宮城への“尊敬”という空気だった。14年にアビニョン演劇祭のメイン会場であるブルボン石切場で上演し、ル・モンド紙をはじめとする信頼性あるメディアで絶賛されたことを知ってはいたが、宮城のフランスでの評価は、日本で考えられているよりもずっとずっと高い。私が座ったのは後方で、おそらく舞台関係者や行政の関係者が多く、すでに観た人も少なくないはずなのに、お付き合いで、あるいは仕事だから観に来ているといったぬるい空気はなく、皆、これから始まる公演を全面的に信頼し、楽しみにしている様子だった。どうやら学校の授業の一貫で来ているらしい高校生の集団もいて、彼らの中には途中から飽きてスマホをいじり出す子もいたのだが、それは世界共通、仕方のないことだろう。

また宮城は「マハーバーラタ」の前々月、開催中の「ジャポニスム2018」とは関係なく、フランス国立コリーヌ劇場から委嘱されて「Révélation(顕れ)」を演出し、SPACの面々によって上演された。作者のレオノーラ・ミアノの指名だったと聞くが、それもまさに、フランスにおける宮城の評価の高さを証明する快挙だろう。「マハーバーラタ」初日の開演前に宮城に会ったので挨拶すると「パリが終わると次はサウジアラビアで、初めてのアラブ圏であり、会場のサイズなどもまったく変わるので緊張する」と話してくれた。フランスでの成功は価値あるものだが、演出家はもう、ずっと先を見ているのだった。