マンガ編集者の原点 Vol.15「くも漫。」「アマゾネス・キス」の中川敦

マンガ編集者の原点 Vol.15 [バックナンバー]

「ニュクスの角灯」「アマゾネス・キス」の中川敦(リイド社 トーチweb編集長)

創刊以来「常にピンチ」10周年を経てトーチが目指す「混沌」

2

12

この記事に関するナタリー公式アカウントの投稿が、SNS上でシェア / いいねされた数の合計です。

  • 3 8
  • 1 シェア

マンガ家が作品を発表するのに、経験豊富なマンガ編集者の存在は重要だ。しかし誰にでも“初めて”がある。ヒット作を輩出してきた優秀な編集者も、成功だけではない経験を経ているはず。名作を生み出す売れっ子編集者が、最初にどんな連載作品を手がけたのか──いわば「担当デビュー作」について当時を振り返りながら語ってもらい、マンガ家と編集者の関係や、編集者が作品に及ぼす影響などに迫る連載シリーズだ。

今回はリイド社にてトーチの編集長を務める中川敦氏が登場。2014年8月にスタートし、2024年に創刊10周年を迎えたトーチにて、実兄である中川学の「くも漫。」、ドリヤス工場「有名すぎる文学作品をだいたい10ページくらいの漫画で読む。」シリーズなど初期のヒット作を手がけ、さらに高浜寛意志強ナツ子、川勝徳重、齋藤潤一郎、赤瀬由里子、大山海、まどめクレテック、ウルバノヴィチ香苗、坂上暁仁など、個性豊かな作家たちを多数担当している編集者だ。まるでマンガのような運命のいたずらから、30代でマンガ編集未経験からリイド社に入社し、さいとう・たかをみなもと太郎の謦咳に接し、現在に至る。波乱万丈の編集者人生に肉薄した。

取材・/ 的場容子

人間より家畜のほうが多い村に流れ着くマンガたち

トーチを率いる中川氏は、北海道は十勝・中札内村出身。故郷は「人間より家畜のほうが多い村だった」という。

「牧畜と畑作の村で、ジャガイモ、小麦、枝豆なんかが主要農産物。いわゆるカルチャーみたいなものが本当にない土地でした。車で30~40分行ったところに帯広市があって、そこから兄とか従姉妹とか上の世代がポツポツもたらしてくれるものを手当たり次第に見たり読んだり。だから、その作品がどういう位置づけで発信されていて、どんな評価をされている作品なのかがまったくわからないまま、手元にあるものをただ、夢中で見たり読んだりするという環境でした」

「百年の孤独」(ガブリエル・ガルシア=マルケス)を引き合いに出し、「『村に流れ着いてくるものを『これは何だ?』みたいな感じで体験していた」と振り返る。マンガの読み方も王道とは言えない。例えば、コロコロコミックやジャンプあたりから読み始め、サンデーやマガジン、チャンピオンに進んでいく……といった体系立った読み方ではなく、混沌としていた。

「マンガは、たまに歯医者とかで帯広に連れて行かれたときに、帯広駅の本屋にあるもの、という感じでした。もっと続きを読みたいなと思ったのは『風の谷のナウシカ』(宮崎駿)。並行してCLAMPの作品を友達の姉ちゃんが仕入れてきてたり、『Dr.スランプ』(鳥山明)などのジャンプ作品とか、『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ)、『魍魎戦記MADARA』(田島昭宇)とか。今思えば、いわゆるオタクカルチャーっぽいマンガも並行して家にあって、それもどういう人たちがどういう楽しみ方をしているのか、文脈もわからずに全部読んでいました。

時代的には、ジャンプが600万部突破!みたいなヤバい時期に、小学6年生~中学生くらい。マンガに限らず、田中芳樹さんの『創竜伝』『アルスラーン戦記』、宗田理さんの『ぼくらの七日間戦争』とか読んだり。音楽は、なぜか『スーパーユーロビート』シリーズに夢中でした。『はだしのゲン』とか『ナウシカ』を読んで人類の罪深さに頭を抱えつつ、ユーロビートをごりごり聴いてる……みたいなハードな感じでしたね」

高校は帯広市の難関進学校に学区外から入学するも、すぐに授業には出なくなった。

「親元を離れて帯広市内で下宿していたんですが、みるみるうちに成績が落ちて。同学年が400人と少しいて、入ったときは上から10番くらいの成績だったのに、卒業するときには400番台(笑)。

バレーボール部に入っていて部活は面白かったので、夕方、部活が始まる頃に登校していました。それ以外は下宿の裏の喫茶店でマンガを読んでいましたね。当時は『AKIRA』(大友克洋)とか『MASTERキートン』(浦沢直樹/勝鹿北星・長崎尚志)、『寄生獣』(岩明均)、つげ義春とかが置いてあって、青年マンガって面白いなと思って読んでいたのが高校時代です」

高校卒業後、札幌で1年浪人生活を送り、東京学芸大学の教育学部に入学。東京というカルチャーの中心地に強烈な憧れがあったかと思いきや、そこまでのものではなかったという。

「村にいたときは、世の中には多種多様な職業があることを全然わかっていなくて、自分が将来仕事に就くとしたら学校の先生しか想像できませんでした。ただ、大学は東京に行ったほうがいいのかなという漠然とした思いはあり、教育学部で国公立でと考えていたら、東京学芸大学という学校があることがわかり受験しました。今思うと、教育学部以外の学部や、私立大学という発想がそもそもなかった。つくづく何も知らなかったと思います」

心理学と文学、そしてマンガ

編集者を志したのは、大学の教育学部で専攻していた心理学の影響が強いという。

「特に僕が学んでいた分野は、被験者の言葉や行動を記録し、その統計から心の動きや状態を明らかにするというものだったのですが、統計や論理ではどうしても説明のつかないものもある。そこを引き受けてきたのが文学や哲学、芸術で、マンガも多分ここに含まれてくるのではないかと」

心理学と聞くと、ド文系の筆者はフロイトやユング、ラカンをイメージしてしまうが、中川氏が専攻した社会心理学は、統計を駆使する数学的なアプローチだった。

「実験して統計を取って、そのデータを解釈・考察して結論を出すというものです。すごく勉強になったけど大変でしたね。文系だと思って入ってみたら、『多変量解析と分散分析を筆算でできるようにならないと単位やらない!』みたいな感じで厳しかった。その分、科学的な考え方の基礎を学ばせてもらった手応えがありました。

ゼミの教官は社会心理学が専門の先生でしたが、印象的だったのは、先生ご本人が奥さんを亡くされたとき、悲しみが時間とともにどういう変化をしていくか、という記録を本にまとめていたんです。すごく深いところにある感情を、心理学者の眼差しで書いている。人間の割り切れなさや、感情がどこから来るのか、現実のこの厳しさとは一体?ということに向き合って言葉にした本で、学者ってすごいなと感じました」

教官の名は、相川充(あつし)。現在は東京学芸大学名誉教授で、専門書だけではなく、対人関係に関する一般著作も多数著している。中川氏が言及した本は「愛する人の死、そして癒されるまで:妻に先立たれた心理学者の悲嘆と癒し」(2001、大和出版)だった。

「先生の本を読んだときに、謙虚さというか、科学的に不確かなことを保留し本当のことをつぶさに見ていこうという姿勢に打たれました。想像だけで決めるのではなくて、観察したうえで論理を積み上げること、そしてそのプロセスの推進力となっているのが、個人の複雑で繊細な感情で……。この『個人の複雑で繊細な感情』は、つきつめると文学の範疇なのではないかと。当時、マンガに限らず、本もいろいろと読んでいましたが、心理学とのそうした接点も面白かったですね。ただ、先生とは当時そんなに親しくやりとりしていたわけではなかったので、先生は僕のことを覚えていないと思いますが」

まったく興味のない「軽自動車の専門誌」で得たことは

大学卒業後、2003年に新卒で立風書房に入社する。同社は1966年に学習研究社(学研)の子会社として設立された出版社。ある世代には、レモンコミックスの怪奇マンガシリーズや、ジャガーバックスの「日本妖怪図鑑」「世界妖怪図鑑」(佐藤有文)を出版していた会社、というとイメージが湧くかもしれない。ちなみに、筆者にとってはみつはしちかこ「小さな恋のものがたり」シリーズの出版社だ。

「立風書房はホラーマンガのレーベルがあったり、文芸だと池波正太郎や寺山修司の本を出しているなと思って入社したら、当時はすでにそうしたジャンルは商売として下火。モーター雑誌、つまり自動車やバイクの雑誌が看板の会社になっていたんですよね。僕は文学や哲学、心理学に興味があって、書籍のほうに憧れて入ったのに、書籍の部署には1人しかいなくて、その先輩ももう退職します、みたいな感じで……。

新卒は僕を含めて3人入社し、みんな実用雑誌に配属。内定もらったときには免許も持っていないのに、僕が配属されたのは軽自動車の専門誌でした。『免許取れないと内定取り消しだよ!』と言われ、取ろうとするも学科で何度も落ちて(笑)。というのも、『信号が青になったらそのまま進んでよい→マルかバツか』みたいな問題で、『論理的に考えて、信号が何色であっても次の瞬間に人や動物が飛び出してこないとは限らない、バツ!』とかってやると全部間違っているんです」

なんとか免許を取得し、軽自動車の専門誌・K-CARスペシャルで悪戦苦闘する日々が始まる。

「車を速くしたい人とカッコよくしたい人のためのパーツ情報なんかについて特集するんです。地方の走り屋とか、いわゆるヤンキーの車を撮影して、どこをどうカスタムしたかを聞いて記事にする。だから、月の半分以上が地方出張でした。正直、『嫌だな、ダサいな』と思っていましたけど、今思うとそのときの経験はすごく身になっていると思います。

自分にはまったく興味がもてないものでもすごく大事にしている人たちがいるって、頭では理解しているつもりでもちゃんと実感できていなかった。だけど地方に行き、写真撮って記事書いて、というのをずっとやっていると、『こういうことか』と思うわけです。どちらが多数派か少数派かという問題以前に、本や雑誌が売れているのは、読者のためにちゃんと情報提供して見たい写真を載せているからだと。就職するまでは “なんとなくカッコよくてイケてる感じの編集者”に憧れがありましたが、K-CARスペシャルでの仕事を通して、職務上の関心が『自分がイケてる感じに仕上がること』から『誰のために何かを為すか』に移っていきました」

32歳の新人マンガ編集者が、さいとう・たかを、みなもと太郎を担当

その後、立風書房は2004年に解散、学習研究社(現・学研ホールディングス)に吸収合併された。中川氏はほどなくグラビア誌・BOMB(ボム)に異動になり、のちに退職。その後篠田博之氏率いる創出版で半年ほど働き、2011年にリイド社の中途採用面接を受ける。

中川氏が志望したのはMen’s SPIDER(メンズスパイダー)という「Vホス系」ファッション誌の編集部。前職で培った地方取材の経験が活かせると思い応募した。無事採用決定の電話をもらったものの、直後に問題発覚。人事担当者の間違いで、採用が決まったのは最終面接に残ったもう1人のほうだったのだ。事情を知った先代社長・斉藤發司氏(さいとう・たかをの兄)の「ほんなら2人採るしかないやろ!」という鶴の一声で、無事中川氏も採用されることになるが、Men’s SPIDERで募集していたのは1人だったため、中川氏はリイド社の看板雑誌であるコミック乱預かりとなった。

「そんな経緯なので、僕がコミック乱に入ることは編集長含め全員が寝耳に水(笑)。マンガ編集も初めてだし、社内の誰からもまったく歓迎されてなかったです」

2011年10月、中川氏は32歳。ここに来てようやく、新人マンガ編集者としてのキャリアがスタートする。運命のいたずらのようにマンガ編集の道を歩みはじめ、コミック乱で土光てつみ、みなもと太郎、そしてさいとう・たかをの連載を担当するようになる。土光は、「ザ・代紋」「どチンピラ」(原作:原麻紀夫)「ザ・首領(ドン)」などの代表作がある劇画作家で、中川氏は「二代目 雲盗り暫平」(原作:さいとう・たかを)を担当することになった。

「編集者として最初に打ち合わせしたのも土光先生でした。あの頃、新人なのに『このコマこうしたほうがいいんじゃないですか』とか『ここ、わからないです』とか言っていたんですが、ふとした瞬間に『本当に自分の思う通りに直したら正解なのかな?』と思うことがありました。別に土光先生が直すのを嫌がった、とかではないのですが、もしかしたら自分が“仕事してる感”がほしいだけで言ってるんじゃないのかな、と思って。実は作品のためにも作家のためにも、読者のためにもなんにもなっていないことに気づきました」

編集者であれば一度は取り憑かれる悩みではないだろうか。何を基準に、自分の感性をどう信じればいいのかわからなくなる。中川氏は、そうした意味でも、みなもととさいとうを同時に担当したことが本当にラッキーだったと語る。

「風雲児たち 幕末編」1巻 (c)みなもと太郎/リイド社

「風雲児たち 幕末編」1巻 (c)みなもと太郎/リイド社

みなもとは1947年生まれのマンガ家で、1979年から連載を開始した「風雲児たち」で歴史ギャグマンガとしての作風を確立させ、「風雲児たち 幕末編」はコミック乱の看板作品となった。さいとうは言わずとしれた「ゴルゴ13」の作者で、リイド社の前身は1960年に創業した劇画製作スタジオ「さいとう・プロダクション」の出版事業部である。劇画作品の代名詞でもあり、超一流スナイパーであるゴルゴ13の活躍を描いた「ゴルゴ13」をはじめとした作品は国内外で唯一無二の評価を得ている。みなもともさいとうも、2021年に惜しまれながら逝去した。

「さいとう先生は王道を行く作家というか、みんなが思う『王道』そのものを切り拓いてくださった方。若い作家と話していて行き詰まったときなど、先生の作品を参照すれば『こうすればいいのか』あるいは『逆にこうしてみよう』という道筋が必ず見えてきます。

みなもと先生は、商業マンガの第一線を張りながら、マンガの自由と多様性の砦となってくださった方。先生が『私はネームをやらないので』とおっしゃるとき、同時に『なんでマンガ描くのに許可がいるんだ。編集者や出版社の許可がないとマンガ家はマンガを描いちゃいけないのか?』という声が聞こえる気がしました。

このおふたりのおかげで、私はマンガにとって王道とオルタナティブは車の両輪のようなもので、どちらも欠くことのできないものだと学ぶことができた。そのことを大変自慢に思っています」

中川氏が担当したさいとう作品は「鬼平犯科帳」。みなもと作品は「風雲児たち 幕末編」であった。新人時代に2人のレジェンド作家の謦咳に接した経験は、その後の人生で数多くのマンガを読み、さまざまな判断を下していくための基準を作ったことだろう。まさに、中川氏の編集者人生を照らす「トーチ」(灯火)になったのかもしれない。

「鬼平犯科帳」1巻 (c)さいとう・たかを/さいとう・プロ/池波正太郎/リイド社

「鬼平犯科帳」1巻 (c)さいとう・たかを/さいとう・プロ/池波正太郎/リイド社

「さいとう先生のお仕事場には紫綬褒章の賞状などが飾られていて、それを眺めながら語ってくださったことがありました。『かつてお上(かみ)は、我々の劇画を低俗や言うて目の敵にしとったんや。それが、テロリストの話(ゴルゴ13)を50年描き続けたら、お上のほうから表彰させてくれ、言うてくるんや。笑うやろ』って。頼りにできる権威とか権力が何もないところから、ただひたすら自分たちの劇画で大衆を味方につけてやってきた、という自負。いつ思い返しても胸が熱くなります」

次のページ
トーチの始まり、ドリヤス工場と中川学

読者の反応

  • 2

Takeman @stillblue_s

「ニュクスの角灯」「アマゾネス・キス」の中川敦(リイド社 トーチweb編集長) | マンガ編集者の原点 Vol.15 https://t.co/sLvHEjPuAJ

コメントを読む(2件)

さいとう・たかをのほかの記事

リンク

あなたにおすすめの記事

このページは株式会社ナターシャのコミックナタリー編集部が作成・配信しています。 さいとう・たかを / みなもと太郎 / 高浜寛 / 意志強ナツ子 / ドリヤス工場 / 中川学 の最新情報はリンク先をご覧ください。

コミックナタリーでは国内のマンガ・アニメに関する最新ニュースを毎日更新!毎日発売される単行本のリストや新刊情報、売上ランキング、マンガ家・声優・アニメ監督の話題まで、幅広い情報をお届けします。