語りの主体は誰?“ジョジョ”のスタンドと不気味なコロス
いとう 「葵上」は、霊媒の言葉と、霊媒にとりついた怨霊の言葉もあるから、立体的ですよね。読む人は同じなのに、能のテキストには「すると女は言う」という部分がなくて動きで示されるから、我々としてはどのくらい地の文を入れるかというのも腕の見せどころ。
長田 そうですね、登場人物が多いと、スイッチングがうまくいくように、“次は誰がしゃべる”ということを整理させてもらいます。以前書いた「雷電」では最後に宮中でバトルのような場面が展開するんですが、家元(和英)には「『ドラゴンボール』の戦いみたいなものだ」と(笑)。丁々発止の2人のやりとりをどう1人で演じ分けてもらうか、お題がけっこう難しくて楽しかったですね(笑)。
いとう あははは! 渡された役者の方も面白がるでしょうね。落語みたいだなと思えば落語っぽくやれば良いだろうし。我々でストップじゃなくて、その先に演じる人がいるというのが、まさに芸能の面白いところで。身体で示されて、台本が残っているものを、僕らが文字にして、身体に渡し返す。今僕は、4月からの「杜若」の脚本の直しをしている段階だけど、長田さんの話を聞いて、宗家からの指摘がよくわかりました。裏側にあるものをどのくらい表側に持ってきたいのか、とか。あと、主人公の言っていることを途中から地謡が言い出すってことがよくあるけど、“誰として言っているか”という問題は長田さん、どうしていますか?
長田 すごく恥ずかしいんですけど……「ジョジョの奇妙な冒険」のスタンドのようなもので(笑)。地謡は主人公の精神世界のパワーが増幅されて、後ろから聴こえているものだと。
いとう あははは! 耳打ちの内容物だ。
──例えば今回の朗読「葵上」だと、「葵上が源氏の妻であることには変わらない、自分は忘れ去られて他人同様の身」などと恨みを語る、本来なら地謡が言うセリフを、朗読では御息所が語っていますね。
長田 スケール感や常識、何かのストッパーが外れた、主体の心が開放された瞬間なのかなとも思っていて、話者は変えずに整えています。
いとう なるほど。僕の場合は地謡が人のセリフを引き取っちゃうっていう構図が面白いものだから、そのままセリフとして続ければ良いところを、“改行して地の文として目立たせる”ということがしたいんです。そうすると、これは誰のセリフだろう?と思える。地謡、つまりはコロスが文中に勝手に入ってきて、不気味に見えるというかね。目で読むとその不思議さが良くわかるけど、人の声で聞くとどうなんだろう?って。読む人によって、“主人公100パーセント”なのか、“主人公55パーセントとよくわからない存在20パーセントと何か”なのか。興味ありますね。
長田 コロスに当たる部分は、朗読のあとに上演される能を観ると、面白さがよくわかります。呪術的な匂いもするし、複数人が重なって1つの声に聴こえる瞬間があると、声は1つなのに質量には1人を超えた厚みがあって。だから今回、「夜能」では初の試みとして朗読者以外の声を入れてみようと思っています。調伏のシーンがあるので、能楽師の方に不動明王の御真言(編集注:密教における、仏・菩薩の本誓やその教えのこもった秘密の言葉のこと)を唱えてもらおうと。先日リハーサルを拝見したとき、朗読を務める声優の方が人間界における最上の声で読んでいて、でもその後ろで能楽師の方たちが謡の声を出していると、種類の違いがよくわかりました。
いとう 僕もあまりに面白いからこの何年か、謡を習っちゃってるんだけど。
長田 すごいですね(笑)。
いとう 地謡の声の厚みに関して言えば、僕らは集団でお稽古していても「合わせにいってはいけない」んですよ。西洋的な音楽教育を受けると、どうしても他者と合わせることを考えてしまうけど、謡はそれぞれが勝手に、自分の音程で、一番良い声で謡う。その声の粒が層になって厚みになるから、聴こえが違うんだよね。もちろん、音階の動きの幅は同じようにするんだけど、合わせないことが大事にされるのが、日本の声の文化。全員が自分のベストをやる迫力は、マイク時代ではないやり方なんだよね。長田さんは朗読でマイクは使っているんですか?
長田 読み手はマイクを使っていますね。
いとう そうなんだね。マイクを使うならウィスパーするとか、わざと声色を変えて読むとか、そういうことをやっても、面白いでしょうね。
長田 能楽師さんたちはマイクが入ると足かせになってしまうと思うんですが、声優さんたちは、マイクがたぶん、自分の楽器みたいなのかなと思います。
いとう 自分の声がどう返ってくるか、その“聴こえ”の問題でやるのが彼らの芸だからね。実は芸の本質が違うものに置き換わっているわけ。だから、両方観ていて飽きないっていうことでもあるんですよ。ミュージカル畑の人が読むときは「マイクはいらない」って言うかもしれないし。能はもともと実験的なものなのだから、なるべくいろんなことをやったら良いと思う。
長田 本当に、何をしたところで能の懐が深いので。テキストがどういうアプローチでも間違いではないし、能やその物語を味わうということに真っすぐ向かっていることだから。しかもあとにはびくともしない能が控えているっていう(笑)。
いとう こっちは安心だよね(笑)。責任がないというか、能さえ出てくれば大丈夫。
長田 朗読パートはお客様の緊張を解してリラックスさせる効果もあると思うので、イベントとしても良い一夜だと思いますね。
いとう そう、思いつくようで思いつかない。「同じ演目をやるのかよ!」っていう。つい変えちゃうよ、普通は(笑)。だからある意味、室町時代に行われていた能のバトルに先祖返りしてるんですよね。それを楽しんでいただくためにも、我々は今の言葉を使って心に刺さるフレーズを繰り出していくと。
長田 そうだと思います。
訳のわからないものを観て、自分と出会っちゃう瞬間
──いとうさんは「能は、行かずとも名跡を知ることができる」をテーマに、能や舞台となった土地の言い伝えについて掘り下げる宝生会のオンライン企画「いとうせいこうの能楽紀行」にも参加されています。能楽には“敷居が高い”という印象がありますが、それを乗り越えてでも観るべき能楽の魅力は何ですか?
いとう 基本的には、全部はわからないんですよ。訳のわからないものを観る時間というのが、今の生活の中にはもうないと思う。我々は、わかるようにお膳立てされた情報を与えられて、ネットですべてがわかると思い込んでるけど、それは質問したから答えが返ってきただけであって。自分の範囲を超えるようなもの、しかも圧倒的に迫力のあるものに浸る、時には寝てしまっても構わない、そういう世界を今でも味わえるって、僕はすごいことだと思っているんですね。しかもどこかでビーンと「わかっちゃった!」っていう部分があったら、それはそれですごいこと。「この人の気持ち、一瞬わかっちゃた、けど何だったかは言えない」っていう。そういう体験こそ、芸能の効能なんだと。僕は能という、こんなわけのわからないものがあってくれて良かったなと思うんです。
長田 本当に訳のわからないものを観ているときって、自分の中にいろいろな言葉が浮かんだりして、自分と会う時間にもなりますよね。そういう、内なる自分の声を聴いてしまう時間も尊いんだっていうことを、このシリーズでは家元が認めてくださっている気がします。例えば歌舞伎はお話もすぐにわかって、娯楽たるサービス精神を感じるし、日本舞踊も艶やかに美しい角度を何度も見せてくれる。浴びるだけで良いんですよね。でも、能は湖に似ていて、くみに行きたくなる。くんでくるものが1人ひとり違う可能性があって、それがその人の唯一になるというか。能が巨大な媒体になって、自分自身を投影して、跳ね返ってくる。心をまるごと明け渡す時間を時々でも作ると、すごいリフレッシュになると思います。
いとう 1つの言葉の音が2つの意味を表しているということは、その音を聞いて“違う3つ目”を自分が思っても良いということだもんね。能は分裂した世界だから、違う言葉が聴こえてしまっても不思議ではない。むしろそういう効果を日本語が作り出しているのかもしれないね。超バーチャル空間で楽しむ面白みというか。まあ、だいたいはお化けの話ですから。お化けが出てきて去っていくお話だっていうことを大まかにわかっていたら(笑)、特に構えることはないし、構えてもわからない。
長田 うつらうつらしても大丈夫。
いとう そうそう、誰も怒らないからね。だた、僕らのところは寝ないでください。そういう夢の機能は減らしてるので。
長田 聞けばわかるようになっています(笑)。
いとう そのあとの能は寝てても良いかもしれない。その眠りは今までの眠りとは全然違うものだから。