「夜能〜語り部たちの夜〜『葵上』」いとうせいこう×長田育恵 対談|分裂した世界で己と会う、能楽はアバンギャルドで超バーチャル

能楽の世界を、現代作家の脚本を用いた朗読と、能楽師たちの舞台で堪能できる、宝生会の「夜能 夜語りの会」シリーズ。今年からは「夜能〜語り部たちの夜〜」として、1つの作品を異なる語り手3人が3カ月にわたり朗読するシリーズにリニューアルされる。また、これまで語り手を声優が多く務めてきたが、ミュージカル俳優を含む多彩なジャンルのアーティストが担当することも決定した。

1月から3月までの<冬クール>では、2018年から「夜能」に関わり続けている劇作家・長田育恵の「葵上」が上演される。また、4月からの<春クール>には、作家・クリエイターのいとうせいこうが「杜若」を訳し下ろす。ステージナタリーでは、2人の対談をリモートで実施。彼らの初顔合わせの場となった対談は、「はじめまして」に始まり、能楽に書かれた言葉の考察、謡(うたい)の力、能楽が持つ効能の話へと膨らんだ。

取材・文 / 大滝知里

「葵上」の読み手は幼なじみ?能の間口を広げるために

──長田さんは2018年以降、「夜能」朗読パートの脚本を手がけていますが、「夜能」シリーズにどんな手応えを感じていますか。

「夜能~語り部たちの夜~『葵上』」チラシ

長田育恵 「夜能」では、何の予備知識もない状態でお客様が劇場にいらっしゃるということを想定しています。なので、朗読ではまず、これから観る能がどういう物語で、主人公がどういう思いやバックボーンを持っているのか、知っておいたほうが楽しめる登場人物の“心のあや”をお客様に手渡して、能の間口を開いてあげる。読み手にも、単なるナレーターではなく、この物語にどう関わる人物なのかということを大事にして読んでいただきたいなと思っているんです。例えば「葵上」では、読み手が六条の御息所と幼なじみの設定で読んでいただきたくて(笑)。

──幼なじみの視点で物語が紡がれるんですね。「葵上」は「源氏物語」に出てくる、女性の嫉妬や恨みを描いたもので、能では源氏の正妻である葵上は登場しません。御息所が怨霊の姿で現れ、思いを語っていきます。

長田 読み手は、宮中で地道に仕事をしながら、東宮の妃となっていく御息所の姿を側で見てきた人物で、東宮の死後、未亡人となった彼女が若い源氏に恋をして怨霊になってしまう過程を知っているとしたら、情が乗って聴こえてくると思うんですよね。話の筋や背景をまったくわからないで観ると、ただ怨霊が出てきて終わってしまう。でも、前からの知り合いであるかのような、怨霊が人間だった頃の素顔も知っている親しい目線で物語に導入できたら、と。これまでの作品でも、その橋渡しを読み手の方がうまく果たしてくださっているなと感じます。

──長田さんは第28回読売演劇大賞で、脚本を手がけた「ゲルニカ」が優秀作品賞、「現代能楽集X『幸福論』~能『道成寺』『隅田川』より」が選考委員特別賞を獲得しました(参照:第28回読売演劇大賞受賞者・受賞作発表、大賞・最優秀女優賞に鈴木杏)。「ゲルニカ」は第65回岸田國士戯曲賞の最終候補にも挙がっています(参照:第65回岸田國士戯曲賞の最終候補作が明らかに、選考会は3月12日)。「幸福論」では「道成寺」を瀬戸山美咲さんが、「隅田川」を長田さんが執筆(参照:現代能楽集X「幸福論」瀬奈じゅん×長田育恵×瀬戸山美咲 鼎談)。後者は能「隅田川」を現代版として書き下ろしたもので、「隅田川」も、「夜能」の「葵上」も、“女性の生き方”を描いています。長田さんは能に出てくる女性像についてどのような思いを持っていますか?

「現代能楽集Ⅹ『幸福論』 弐 『隅田川』」より。(撮影:細野晋司)

長田 能に出てくる女性たちは、自分の口から素直な思いを語ることが許されていないなと思うんです。「葵上」も照日の巫女という媒介を借りて語っているし、「隅田川」でも望みをかなえたいだけなのに、「ならば面白く舞ってみせよ」と船頭に試される。彼女たちが自分の心を伝えるためには、誰か代理人の口が必要だったり、試練を果たしてみせなくてはならなくて、能では女性の本当の思いに到達するまでがすでに1つのドラマになっているんですよね。だから現代演劇に置き換えるときは、女性たちの素顔が見えると良いなと、まずは自分が代弁者になろうと思って取り組みました。彼女たちの抱えるものは、決して特別なことではない。普遍的な感情。だからこそ余計に解き放ってあげたいなという気持ちになるんですよ(笑)。逆に言うと縛られていた、そういった女性たちが最後に楽になるということ、赦されることが、能の一番の祈りが込められている部分であり、観客が感動するところだと思うんですよね。

──いとうせいこうさんは4月からのシリーズとなる「杜若」の脚本を担当されます。「杜若」は、旅をしている僧が三河国にたどり着き、杜若をめでていると、そこに1人の女が現れて……という物語です。これまでの「夜能」はご覧になりましたか?

能「杜若」より。

いとうせいこう いえ、観ていないんです。僕は「新潮」で「能十番 日英現代語訳」という連載をやっていて、能を現代語訳しているんですね。僕が日本語訳したものを、日本文学の翻訳家ジェイ・ルービンさんが英語に訳すんですが、昔、宗家(宝生和英)がやったイベントで僕もジェイさんも能を訳したことがあり、その縁で今回、参加することになって。今、長田さんがそういうふうに「夜能」で演出的な目線も持ってやられていると知って、逆に面白いなあと思いました。僕はたぶん、もう少しブッキッシュ(文字寄り)にやっていて。古典って言葉遊びが多くて、“縁語”と言って、1つの言葉で2つ以上を表すことが盛んにあるんです。「衣」と出たら「褄」が出て、それは着物の褄(裾の両端)なんだけど、そこに「愛する人」もかかってくる。一文では訳せないので、もったいないなと前から感じていたんです。だから、基本的に読めば全部わかるように一文で訳すのが僕のやり方。それは長いことラップという形で韻文に関わってきたからでもあって、日本語では頭で韻を踏む“頭韻”が多いんですが、それをそのまま現代語でも頭で韻を踏ませるようにしています。今回は、最終的には読む人に渡してその人の声でそれをやってもらうので、あえてあまり身体のことを考えてない翻訳なのかもしれないです、僕は。

めちゃくちゃアバンギャルドな能は、朗読に着地点あり

いとう この頃、能について考えることが多いんですけど、能って驚くほどレペゼンしないんですよ。レプリゼント、つまり表象ですが、表現学の表象は1つのものに対して自分がそれをどう外に表すかということ。「月」と言ったら上のほうを指して月に見立てて、「柳」と言ったら自分の身振りで柳を表現するとか、そういう一対一対応の文化が日本舞踊とかにはある。でも、能は「月に柳の」とあると、ただ前に出て、手を開きながら後ろに下がるだけ(笑)。“サシコミ開キ”って言うんですけど、一体これは何なんだ?っていう思いが、最近は特に強くて(笑)。表現をしていないことが表現であるという、室町時代のめちゃくちゃアバンギャルドな演出を、観阿弥世阿弥がやってたんですよね。能管でさえビーッと音が鳴る、邪魔をするものをわざと管に入れて、素直に音が出ないようにしている。こういう、“表象しません”って宣言している文化は、世界でもあまりないですよ。

長田 (うなずきながら)そうですね。

いとう 文字の中にも一対一対応ではないものが入ってるんですよね。一対三くらい入っていたりするから、1つのことでは済まない形式になっていて。だからきっと能の朗読が面白いだろうなと思うのは、そこが着地点になるから。声は、聞いた人の中で意味が分散すれば良い。「柳」って聞いて「春の柳か、秋の柳か?」と観客が思うじゃない? その中にコミュニケーションがあるっていうことをわからせるためには、僕はブッキッシュにやる以外になかったんですよね。

長田 ああ、面白いです。私も最初、自分の前に脚本されていた方の「夜能」を観たことがなかったんですよ。

いとう そうなんだ? 良かった良かった(笑)。

長田 だから私も正解がわからなくて。今、せいこうさんがアバンギャルドっていう言い方をされましたが、能は歌舞伎よりももっとポエジーで、霊的な膂力(りょりょく)がある。かけ言葉も多用されていて、レイヤーがあるんですよね。最初に「夜能」を朗読する、上演時間は25分で、って聞いたときに私はまず、人間味をいかに伝えられるかということに舵を切りました。そして、朗読のあとに能を観たお客様が、やりとりに覚えがあるぞとか、言葉に聞きなじみがあるなと思ってもらえるように、という拾い方をしたんですよね。でも毎回、能は言葉自体がとても美しいなって思うんです。なので、言葉もちゃんと織り上げて書かれるせいこうさんの朗読台本がすごく楽しみです。

いとう 僕もまだ、どうなるかわからないけど(笑)。たぶんこれは、作家と劇作家のやり方の違いなんだろうね。逆に言うとそこがこの企画の面白さで、どっちにも振ろうと思えば振り切ることができる。長田さんは役者に優しいですよ。僕の台本をもらった人はどう読むんだろう(笑)。