世田谷パブリックシアター芸術監督・野村萬斎の企画・監修により、古典の知恵と洗練を現代に還元する「現代能楽集」シリーズ。2003年のスタート以来、川村毅から鐘下辰男、宮沢章夫、野田秀樹、倉持裕、前川知大、マキノノゾミ、小野寺修二まで、多様なクリエイターが能の物語に着想を得た新作を生み出し、同シリーズを彩ってきた。
記念すべき第10弾には、てがみ座の長田育恵とミナモザの瀬戸山美咲が登場。2人はそれぞれ「隅田川」と「道成寺」をモチーフに、“今を生きる私たち”のための物語を紡ぎ出す。2本立て公演となる今回、幸福を激しく求める父・母・息子の姿を描いた「道成寺」のあと、3世代の女性の数奇な運命をつづる「隅田川」を上演する。2作に挑むのは、瀬奈じゅんをはじめとする6人のキャストだ。ステージナタリーでは、世代を同じくする瀬奈、長田、瀬戸山の鼎談を実施。コロナ禍で価値観がガラリと変わった今、自分たちが求める幸せ、2つの物語が示す幸福とは何か、3人がたっぷりと語る。
取材・文 / 熊井玲 撮影 / 片山貴博
ヘアメイク(瀬奈じゅん) / 藤原リカ(Three PEACE)
能の物語を通して、“鎮魂と癒やし”を描く
──「現代能楽集」は、能の物語に想を得て新作を生み出すシリーズです。長田さんと瀬戸山さんはどんなお気持ちでオファーを受けられたのでしょうか?
長田育恵 すごく興味深いことにお声がけいただいた、と思いました。能には鎮魂や生きている人と死者が交わりを持つという枠組みがあって、このシリーズではそこに当てはめる形で現代の物語を作っていくわけですが、普段オリジナルで物語を書くとき、鎮魂や癒やしを目的とした物語を作ることはあまりありません。でもこの「現代能楽集」という枠組みだと、そこに取り組むことができますし、“見えないものと対話する”という部分も演劇的だから、シアタートラムという空間にマッチするだろうなと。
瀬戸山美咲 私は以前から、能にもっと触れたいという思いがありました。というのも、私は普段から“死者と対話する”作品を現代劇でも書くことがあって、能の形式とか、能で描かれるものに興味があったんです。でもどうやって勉強したらいいだろう、と思っていたときに今回のお話をいただいて、すごく良いチャンスだなと。それで、ひたすら調べたんですけど、能って本当にいろいろなバリエーションがあるんですよね。
──今回、長田さんは「隅田川」、瀬戸山さんは「道成寺」を題材に選ばれました。それぞれ、どのような点に興味を持たれたのでしょうか?
長田 作品を決定する前に、それぞれ2・3作品ずつ候補を挙げて、プレゼンしたんです。「隅田川」は、瀬戸山さんも選んでいましたね。
瀬戸山 「隅田川」の物語に惹かれて。でも長田さんも挙げていらしたので、「これは長田さんがやるべきだ」とお渡ししました(笑)。長田さんはほかに「俊寛」も候補に挙げていましたよね。
長田 2人が選んだ作品に共通していることがあって。
瀬戸山 いわゆる“小町もの”を選ばなかったんですよね。男性が女性に幻想を抱いているような作品は、まったく琴線に触れなかった(笑)。
長田 そうそう(笑)。私が「隅田川」に興味を持ったのは、「隅田川」が旅の物語であるというところなんです。子供をさらわれて、行方を探してはるばる旅をしてきた女性が、渡し守の舟に乗ろうとするんだけど、「舟に乗りたければ面白く舞ってみせよ」と言われるんですね。一生懸命子供を探して旅して傷ついている人に、さらに「さらけ出して舞え」って、どういうことだろうと。「これが男性の旅人だったらこんなことを言われないんじゃないか。女性の旅人だからこそ、さらすことを要求され、応えないと舟にさえ乗せてもらえないのか」と、やけに心に残って。そのあと女性は子供の死に行き着くんですけど、子供はちゃんと埋葬されていて、祈りを捧げてくれる人たちがいることもわかる。絶望感のある世界の中で、名も知らない他者同士が、少しの思いやりを分け合いながら生きている。そういった部分も描かれる物語の美しさにも惹かれました。傷ついた女性は、そこでちゃんと癒やしてもらって、自分が元いたところへと、また長い旅をして帰っていくんですが、“癒やされて新しい日常に返る”という道筋を、今回の物語の中ではちゃんと描きたいなと。今コロナによって人の目が届かないところでつらい思いをしている人、貧困に苦しんでいる人、法の網目に落っこちてしまった人が大勢いると思います。そういった人たちを癒やすような体験にできればと思いました。
瀬戸山 「道成寺」は三島由紀夫も「近代能楽集」の中で書いているくらい、すごく有名な作品ですが、能の上演としては、鐘が落ちてくるところとか、女性が狂って舞うところとか、“狂った”部分に焦点が当てられがちだと思うんです。でも私が「道成寺」を読んで興味を持ったのは、主人公の女が狂ってしまった“きっかけ”のこと。真砂の庄司の娘は、父親に「お前はあの山伏と結婚するんだよ」と言われて育ち、それを信じていたけれど、自分が思っていたような幸せがつかめなくて、狂っていくんですよね。私たちも他人の姿をお手本に、ぼんやりとした幸せ像を描いて模索するんだけど、その通りにはなれないということがよくあります。特にその幸せの形が、自分が描いたものではなく人から与えられたものだったりすると、それは不幸の始まりなんじゃないかなと思い、現代にも通じる感覚だと感じたので、「道成寺」を選びました。
長田さんと瀬戸山さんの視点は男前で柔軟
──瀬奈さんは、「現代能楽集」シリーズについて何かイメージをお持ちでしたか?
瀬奈じゅん 私は以前からこのシリーズを知っていて、どんな方たちが関わってこられたかも知っていたので「私で良いんだろうか」という思いが強かったです。でもとにかくお芝居がしたかったので、ただただうれしかったのと、これまでなかなか触れてこなかった能というジャンルに、こういう形で触れられるのはすごく幸せなことだと思って、とても勉強になっています。
──長田さん、瀬戸山さんの作品という部分では、どのような思いを?
瀬奈 お二人の考える視点や発想の原点は、すごく男前だなって(笑)。と同時に、台本には女性の柔らかさみたいなものも感じられて、なんて柔軟な発想をされるんだろうと感動しました。能を現代に置き換えるという点で、もっと現実的な作品になるのかなって勝手に想像していたんですけど、長田さんが「隅田川」の最後を「ファンタジーで」とおっしゃって。そのバランスが、絶妙だなと感じました。「道成寺」についてはとてもシニカルで、最初に読み合わせをしたときに「これって笑っていいのかな?」と思うところもありました。上昇志向や欲望があるからこその失敗や滑稽さが描かれていて、そういうところがお客様の共感を得ると面白いなと思っています。
「助けて」を受け止めるネットに
──長田さん、瀬戸山さんは、史実や物語の中に埋もれている声を聞く、敏感な耳をお持ちの作家だと思います。「隅田川」「道成寺」にはさまざまな人物が登場しますが、物語からはどんな声が聞こえてきたのでしょうか。
長田 「助けて」でしょうか。その「助けて」という声は現在、より届きにくくなっているように感じていて。コロナの自粛期間中もそうだったと思いますが、助けを求めたい気持ちが厳然とあっても、現代はそのつらいという気持ちを伝える先さえなくて、TwitterなどSNSの海に打ち込むことしかできない。行政に行ったとしても、事情を話したり、たくさんの書類を書いたりするのは、気力や体力に余裕がないとできないですよね。でも本当に「助けて」って言いたい人はそんなこともできないわけです。なので、その「助けて」という声を受け止められる、柔らかいネットみたいなものがあれば良いなと思っています。「隅田川」には、それぞれ「助けて」という声を心の中に抱えながら、なんとか日々、自分の体を操縦してきた女性たちが出てくるんですけど、彼女たちは最後に川のほとりに集まるんですね。そこで彼女たちのつらい気持ちが溶けていったら、ちょっとは楽になれるのかなって。そういうシンプルな声をすくい上げたいなと思います。
瀬戸山 「隅田川」の登場人物たちは、本当にギリギリのところで生きている人が多くて、それこそ「助けて」とか「つらい」と言えることが大事だと思います。一方で「道成寺」の場合は、ある程度満たされているけれど、それでも足りないと思っている人たちなんですね。しかも彼らは、自分たちが何を求めているのかよくわかっていないにもかかわらず、承認欲求は強い。コンプレックスも強いから、それを隠すための武装の言葉を言うんだけど、本音は最後まで言わないんですよね。コロナによって、身近なところに自分の幸せを探し始めている人が増えた一方で、いまだに大きな幸せに執着して“幸せのインフレ”から逃れられない人もいると感じます。でもその価値観の行き着く先は破滅なんじゃないか、という問いかけが、「道成寺」ではやれたらいいと思います。
長田 「道成寺」に書かれている乾きにはすごく共感しますね。何があれば満たされるのかわからなくなっているところが、とても現代的だなと思いました。
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自分をさらけ出して演じたい(瀬奈)