松田正隆が、2021年に続きロームシアター京都で、2月に新作を発表する。新作「文化センターの危機」は、松田の故郷・長崎をモチーフに2021年に初演された「シーサイドタウン」に続く、海辺の町を舞台にした作品で、今回、2作品が“海辺の町 二部作”として連続上演される。
その上演を前に、ステージナタリーでは松田と玉田企画・玉田真也の対談を実施。玉田は2022年に松田の代表作「夏の砂の上」の演出を手がけており、松田を「尊敬する先輩」と慕う。そんな2人が、“海辺の町 二部作”について、そして観客との関係性や配信演劇の今後について語った。
取材・文 / 熊井玲撮影 / 藤田亜弓
書かれていない部分にも情報が詰まっている
──玉田さんは2022年に松田さんの「夏の砂の上」の演出をされました(参照:玉田真也、松田正隆の戯曲「夏の砂の上」上演に「普段の玉田企画とは全く違う感覚」)。それ以前からお二人は親交があったのですか?
松田正隆・玉田真也 はい。
玉田 松田さんには2018年に「あの日々の話」(参照:大学デビューの痛々しい思い出を描く群像劇、玉田企画「あの日々の話」再演)という舞台を上演した際、アフタートークに出演していただきました。そのあと飲みにも行き、いろいろお話しさせていただいて。尊敬する先輩です。
松田 (笑)。
玉田 「夏の砂の上」は5年前くらいから上演したいと思っていたのですが、出演してほしかった人が急遽出演できなくなってしまったりと、3回くらいタイミングが合わなくて。でも昨年ようやく上演できました。
松田 そうでしたね。若い……と言っても、もうベテランの域に入ってらっしゃいますが、今活躍されている方に、自分の何十年も前の戯曲をやってもらえたのはうれしかったです。
──「夏の砂の上」は最近戯曲が文庫化もされ(参照:松田正隆の戯曲が文庫化、「夏の砂の上」「坂の上の家」「蝶のやうな私の郷愁」収録)、さまざまな演出家によってコンスタントに上演され続けている作品です。実際に演出されて、玉田さんが作品から刺激を受けたことはありますか?
玉田 それはめちゃくちゃあります。「夏の砂の上」を最初に読んだのは10年以上前の学生時代で、以来ずっと読み続けているんですけど、稽古場で俳優とやってみたら、台本には書かれてなかったり、セリフになっていなかったりするところとか、場面と場面の間に起きていることの情報の密度がすごく高いと感じました。玉田企画では、ぎゅっとした空間で“閉じる”ように演出したいと思い、BUoYで上演したんですけど、栗山(民也)さんが演出された世田谷パブリックシアター(参照:松田正隆×栗山民也「夏の砂の上」スタート、田中圭は「どれだけ変化、進化していくか」と手応え)のように、“開いた”空間でも密度の高さを感じましたし、演出家によって“間”をどう想像するかは全然違うだろうから、すごく演出の幅が広い作品だなと思いました。
──松田さんにとっては、どんな思い入れのある作品なのでしょうか?
松田 僕のキャリアの中でも、ある意味“ちゃぶ台を囲んで1つの場所の中で始まりから終わりまでが展開する”、緩やかで太い軸線がしっかりある作品だと思うんですね。その軸線からいくつもの枝葉に分かれていくんですけど、それが一番成功している作品なのかなと思います。1990年代頃から書き始めた、ドラマ演劇の集大成でもあり、だからこれを書いたあと「これからどうしよう?」と考えるようになりました。
松田戯曲から感じた“映像性”
──玉田さんは「シーサイドタウン」もご覧になったそうですが、1998年に初演された松田さんの初期作「夏の砂の上」と2021年に上演された「シーサイドタウン」につながりを感じるところはありましたか?
玉田 大きな言い方になってしまうんですけど「シーサイドタウン」を観たときに映像的だなと感じたんです。描かれている街がどういうところで、そこの風景や空気がこうで……と視覚的に想像できた感がありました。また今回、資料として「シーサイドタウン」と「文化センターの危機」の戯曲を両方読ませていただいたのですが、どちらも言葉から映像を感じました。ただ、“映像的”って言ってしまうとすごく言葉が大きすぎるというか、「じゃあ映像的とはどういうことか」という話になってくるんですけど(笑)、でも「夏の砂の上」を演出しているときも、映像に置き換えるシナリオを作っていくような気持ちを感じました。もちろん、「夏の砂の上」「シーサイドタウン」「文化センターの危機」はそれぞれ手法が全然違うんですけど、同じ作家さんが書いたものだ、という印象を持ちました。
松田 「シーサイドタウン」は「夏の砂の上」を書いた頃の感じで書いたものなので、そういう意味で近いと思います。ただ一昨年「シーサイドタウン」を作るまでには、いろいろと旅をしてきたというか、さまざまな試みを経てきたので……(笑)。
「夏の砂の上」の頃から2010年まではスケッチ風の戯曲のコレクティブを手がけていました。でも2012年に拠点を東京に移してからドラマ演劇みたいなものを再考察することを始めて、「フェスティバル/トーキョー」や「KYOTO EXPERIMENT」などでは、劇場ではないような場所で芝居を再編集するような演劇体験ができないかと考え、ドラマ的なものが崩壊していく作品を作りました。それを経て2020年以降は、もう1回劇場で“第四の壁”(編集注:舞台と客席を分ける一線のこと)を重視しながらやってみようとしているところです。
なので、「夏の砂の上」から「シーサイドタウン」までの間にはさまざまな試行錯誤があり、またロームシアター京都からの依頼もあって、戯曲を今一度しっかり書いてみようと思って書いた最初の作品が、「シーサイドタウン」なんです。ただ「夏の砂の上」ではちゃぶ台が中心にあり、その周りでいろいろなことが起きるんですけど、「シーサイドタウン」ではそのちゃぶ台という中心性をもう1回考え直して、今は誰も住んでいない空き家に、親戚関係ではない周辺住人や、まったく忘れていた中学時代の友人、また本当にいるかどうかもわからないような人物が入り込んでくる、“空虚な中心”を描いています。新作の「文化センターの危機」は、さらに中心性が全然なくて、“ちょっとキャンプに行って戻ってくる”という話です。
……で、玉田さんの映像的という問いだけど、演劇ってちゃぶ台から放射状に、透視図法のように(作品世界が)広がっていくわけで、それによって見えるものと見えないけどイメージとして観客に喚起させるものとがありますよね。私は今、その方法をもう1回検証してみようと思っているんですが、見えないものをイメージとして喚起させる、その喚起のさせ方が、“私の戯曲が映像的である”ということと、何かリンクしそうな気がします。
“窓から外を眺める”ことで戯曲の世界が広がる
──ロームシアター京都の公式サイトに掲載されている「文化センターの危機」上演に向けたインタビューで(参照:レパートリーの創造 松田正隆作・演出「文化センターの危機」 「シーサイドタウン」 松田正隆 インタビュー|コラム&アーカイヴ|ロームシアター京都)、松田さんはこの海辺の街を舞台にしたシリーズが「何作かできるかもしれないと思っていた」と話しています。「シーサイドタウン」上演時に「文化センターの危機」の構想も既にあったのでしょうか?
松田 いや、それはなかったです。でも海辺の町をモチーフに連作したいという思いはあったので、起点になるような作品を作らないといけないと思って「シーサイドタウン」を手がけました。また僕を駆り立てるような社会的かつ現代性のあるモチーフ、つまりファシズム的な振る舞いをする人たちについて書いてみたいなという思いはあったので、演劇的手法の問題と戯曲を書くうえでのモチーフがそろって連作がイメージできたという感じですね。
──設定や登場人物はまったく異なりますが、2作品を同じ俳優が演じます。役の連続性はあるのでしょうか?
松田 2作品を連続上演したいという思いがあったので、1人の俳優に負担が集中しないようにということは意識しましたが、役についてはあまり意識してはいませんね。
玉田 質問して良いですか? 「文化センターの危機」の戯曲の中で、赤字で書かれていた部分がありますよね?(編集注:取材前の段階の原稿では、後から追記された部分が赤字になっていた) 劇場を案内されたイベント会社に勤めているという加藤が、劇場から会議室への廊下を歩いているときにふと窓の外を見て「海が見えますね」と言うと、劇場のスタッフが「ここは四方海なんですよ」と返答する。あのセリフは後から足したんですか?
松田 足しました。
玉田 赤字になっていたから余計にそう感じたのかもしれないんですけど、あのやり取りは重要なんじゃないかなと思いました。「夏の砂の上」でも、(主人公・治の家に預けられた、東京から来た姪の)優子が窓から外を眺めるシーンがありますけど、そうやって窓から外を眺めているのはたいていよそもので、“当たり前にその景色を見ていない人”なんじゃないかなって。
松田 ああそうか、そんなに意識してなかったけれど(笑)、確かに異邦人というか来訪者のほうが、景色を見るかもしれないね。「文化センターの危機」では、海辺の町の話なのに急にキャンプに行く展開になったので、“海”という言葉を出しておこうかという感じだったんだけれど(笑)。でもそこまで意識していなかったけれど、確かに来訪者の加藤に言わせた、というところはあるかもしれない。あそこは稽古中に足したいなと思って、書き足したんですよ。
玉田 あのやり取りがあることで、海の像が結びやすいというか、空間的に開かれる感じがします。だからすごく重要なんじゃないかなと思いました。
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観客が了解し、感じることで演劇が立ち上がる