ロームシアター京都開館5周年「シーサイドタウン」松田正隆インタビュー|描くのは、追憶でなく故郷の現在

松田正隆が自身の演出で、故郷・長崎をモチーフにした新作「シーサイドタウン」を立ち上げる。東京で職を失い、故郷の海辺の町に久々に帰った男は、空き家となった実家に住み着くが、周囲の住民達にもさまざまな“現実”が迫っていて……。11月中旬、京都でクリエーション中の松田に、作品について話を聞いた。なお本作はロームシアター京都がアーティストと共同で劇場のレパートリー作品を製作する「レパートリーの創造」シリーズの第4弾で、「ロームシアター京都 開館5周年記念事業」の1プログラムでもある。

取材・文 / 熊井玲 撮影 / 片山達貴

“凡庸としたファシズム”を顕在化させる

──本作は「レパートリーの創造」シリーズの第4弾となります。松田さんは今回、ご執筆にあたって“劇場のレパートリー作品になる”ことを意識されましたか?

松田正隆

「作品をどういう位置付けにしようか」ということは考えましたね。この数年はマレビトの会で、福島に関係するものをずっと書いていたんですけど、あと1・2年のうちに、東京を舞台にした新作を発表しようと思っていて。東京にももう十分住んで、東京という街を僕なりにちょっと面白く感じてきているので、住み心地について書きたいなと。それでドイツに行っている間(編集注:松田は2019年4月からある期間、ドイツに滞在していた)に、日記のように膨大に、東京のことを書き始めました。そんなとき、ロームシアター京都から今回の話をもらって、それならこちらはもっと個人的に自分が書きたいもの、もう一度自分の故郷を思い出すようなものを書いてみようかなと。私は長崎県平戸市の出身で、父親が亡くなってからも何度か故郷には帰っているんですけど、本作はシンジという男が、両親が亡くなって久々に故郷の町に帰り、空き家になった実家にしばらく住む、という話です。それと、マレビトの会に書いているものがわりと実験的なテキストなので、こちらは久々にきっちりと戯曲を書こうかなと思って。そうやって書いたものが、レパートリーになり得るものだったらいいなと思います。

──台本を読んで確かに、「松田さんの作品の中では、いつになく戯曲っぽいな」と思いました。

そうかもしれないですね(笑)。

──ご自身で演出される、ということも意識されましたか?

そういう依頼をされることはそんなにないから、うれしかったですね。

──物語の舞台となるのは、タイトル通り“海辺の町”ですが、松田さんにとって、故郷と海のイメージは分かち難いものなのでしょうか?

ええ。なので今回も、根底に流れるものとして海を扱いたいなと思いました。実際に音を流しはしませんけど、ドラマの背景でずっと波の音が聞こえているような、そういう話にしたいと。

──ただ、長崎を舞台にしつつも、言葉や固有名詞などには特に長崎らしさを感じる部分はありません。

あまり土着的に地域を意識させるような、具体的な地域性を出しすぎないようにしたいなという思いはありました。なので方言などはあまり使わず、標準語で田舎のことを書きたいなって。

──そのためか、観る人それぞれが自分の故郷を重ねて観やすいのではないかと思います。

そうですね。東京からはちょっと遠い、時間をかけなきゃ行けない、どこかの海辺の町、というイメージだと思います。

──言葉や固有名詞以外で、例えば登場人物同士の距離感や人物の思考性などに長崎らしさを潜ませたところはありますか?

長崎のイメージと言っていいかわかりませんけど、地域性っていうことで言うと、現在の平戸市の市長がTwitterで右翼的な発言をするような人だったことに驚いたんですよね。ドイツにいるときにネットで調べ物をしていたら偶然、その市長が左翼系のリベラルな言論人にツッコミを入れるような人だと知りました。父の葬儀でその人が弔辞を述べたりもしていた、ということを思い出し、「この人は一体どんな人なんだろう」と気になって調べるようになりました。その中で、ともすると地方ではそういった、凡庸としたファシズム的な考えが、白昼堂々勃発し、“微蔓”“偏在”しているのでないかと思うようになり、そのことを顕在化できないかと考えたんです。ただ僕は社会派の作家ではないので、そのような問題を作品に据えつつも、直接的に書くのではなく、東京で行き場をなくした男・シンジが故郷の実家に住む物語を描きたいと思っています。

作品に、劇場に“住む”

──松田さんの追憶の中の長崎ではなく、現在の長崎に迫った作品なのですね。

そうですね。都市部の人たちは地方に追憶的・牧歌的な癒しを求めるけれど、地方にも排他的な心情は眠っているんだということを書きたい。でもそういった警鐘を鳴らすためだけに私は作品を書いているわけではないので、私としてはドラマを作り上げたいなと。また今回、荒寥とした場所に住んでみるということも大きなテーマなんです。単にそこに一時暮らすってことじゃなく、その場所独自の慣習、その場所なりの住み方でそこに身を置いてみるという“住み方”。それによって、マレビトの会が福島や長崎でやってきたような、上演空間に俳優と登場人物が二重写しのように見えてくることができれば良いなと思っていて、シンジが海辺の町に“住む”ことと、俳優たちが上演期間中、劇場にある意味、“住む”ということが重なって見えればいいなと思います。

──“空き家”も気になるモチーフです。松田さんが昨年青年座に書き下ろした「東京ストーリー」も、空き家が舞台になっていました。

松田正隆

演劇ってやっぱり、一瞬劇場に“住む”ことだと思うんですね。空き家には誰かが住んでいた痕跡があり、そこへまた別の人が住み直していくわけですけど、劇場も誰かが何かを上演した痕跡が残る場所に、自分たちの痕跡を残していく。そういう点でやっぱり劇場はパブリックな場所だと思うし、劇場に堆積した時間とどう向き合い、どう関係していくのかに私は興味があるんだと思います。また今、都市部も地方も、どんどん空き家が増えていて、そこに日本とは違う出自の人が流入してくるということが起きていますよね。さらに老人がどんどん増えていて孤独死の問題もある。これから私たちは、老朽化した建築物だけが残って人が消えていく時代を生きていかないといけないわけで、空き家について考えることは演劇を考えることに通じると思います。

──劇中では、地域住民の連帯感を強めるべく、“Jアラートが発動したときのための訓練”に励む人たちが登場します。訓練中の様子は真剣なのに、動作自体は極めて緩くて、しかもそのシーンが延々と続く。稽古場で拝見して、最初は笑ってしまったのですが、不真面目なのか真剣なのかわからないその様子に、徐々に恐怖感を覚えました。

Jアラートに対する訓練ってことも、ドイツでぼんやりとニュースを見ていたときに知って、あまりにも馬鹿馬鹿しいと思いつつ、逆に気になったんですよね。日本は防空頭巾を被るような危険な生活を送らなくてもいいように、という思いで戦後を生きてきたはずなのに、なんで今、ミサイルが飛来することを想定した訓練をしてるんだろうと、ゾッとしました。