「EPAD」飴屋法水インタビュー|創作のコアにあるのは、“半分半分”という目線

2月23日に舞台公演映像の情報検索サイト「Japan Digital Theatre Archives」と「EPADのポータルサイト」がスタートした。「Japan Digital Theatre Archives」と「EPADのポータルサイト」を使えば、これまで各団体が独自に管理し、散逸していた舞台芸術作品の情報を誰でも簡単に知ることができるようになる。

ステージナタリーでは、「Japan Digital Theatre Archives」と「EPADのポータルサイト」の公開を記念し、コロナ禍において変化せざるを得ない環境にありながら、自身の表現に真摯に向き合っているアーティストに注目した特集を展開。第3弾に登場するのは、飴屋法水だ。

「職業は○○」の○○に名前を入れる自己紹介を時折り見かけるが、飴屋法水にこそ、それはふさわしい。前の仕事(作品)と今の仕事(作品)が当たり前につながっておらず、通底するものを探すなら、飴屋法水という存在に尽きる。つまりキャリアの変化が激しいのだが、本人は泰然として、ターニングポイントを経た自覚はほぼないらしい。けれども、1つひとつが深いこの人の足跡は、高いところから眺めると、本質へと続く点と点、つまり太い線に見えてくる。

取材・文 / 徳永京子 撮影 / 藤田亜弓

「EPAD」とは?

「EPAD」は、文化庁令和2年度戦略的芸術文化創造推進事業「文化芸術収益力強化事業」として採択された「緊急舞台芸術アーカイブ+デジタルシアター化支援事業」の総称。

「EPAD」

「Japan Digital Theatre Archives」で検索

「転校生」
2007年に初演された飴屋法水演出版「転校生」を、「F/T09春」で再演。静岡県全域からオーディションで選ばれた高校生たちが出演し、とある高校の教室を舞台に、女子高生たちの1日が描かれる。

2009年3月26日(木)〜29日(日)
東京都 東京芸術劇場 中ホール

作:平田オリザ

演出:飴屋法水

出演:静岡県の女子高生、SPAC

「4.48サイコシス」
サラ・ケインの遺作を、「F/T09秋」で飴屋法水が演出。ホーメイ歌手・山川冬樹の声があうるすぽっとに響き渡り、生と死の境界線が揺らぐサラ・ケインの劇世界が立ち上がった。

2009年11月16日(月)〜23日(月・祝)
東京都 あうるすぽっと

作:サラ・ケイン

翻訳:長島確

演出:飴屋法水

出演:山川冬樹、安ハンセム、石川夕子、大井健司、小駒豪、グジェゴシュ・クルク、武田力、立川貴一、ハリー・ナップ、シモーネ・マチナ、宮本聡、村田麗薫

「わたしのすがた」
「F/T10」で上演された、“不動産”をテーマとする作品。かつて誰かが暮らしていた、しかし今は誰も存在しない場所に注目し、にしすがも創造舎(当時)ほか数カ所を舞台にツアーパフォーマンスを行った。

2010年10月30日(土)〜11月28日(日)
東京都 巣鴨・西巣鴨周辺の4会場

考案:飴屋法水

─宮沢賢治 / 夢の島から─「じ め ん」
「F/T11」のオープニング作品として、飴屋法水とロメオ・カステルッチが夢の島でダブルビル上演。飴屋構成・演出の「じ め ん」では、宮沢賢治の作品から想を得た、物質や生命をめぐる思考が描かれる。

2011年9月16日(金)・17日(土)
東京都 都立夢の島公園内 多目的コロシアム

構成・演出:飴屋法水

出演:ロメオ・カステルッチ、飴屋法水、小山田米呂、ブリジッド・コナー、村田麗薫、新川美鈴 / 関口旬子 / 小峰星花 / 村山竜規 / 徳永和奏 / 木間衣里、松村空弥、くるみ

「教室」
2013年に大阪で開催された子供を対象とする「TACT/FEST」で初演され、東京で再演。飴屋の家族であるくるみとコロスケが出演し、ドキュメンタリーとフィクションを行き来しながら、動物や家族、生命について考察する。

2014年7月25日(金)〜8月2日(日)
東京都 SNAC

作・演出:飴屋法水

出演:くるみ、コロスケ、飴屋法水

「いりくちでくち」
「国東半島芸術祭」にて上演されたアートツアー作品。国東半島の伝承文化に焦点を当て、同地に暮らす高校生たちと“家”や“家族”をモチーフに創作した。

2014年11月22日(土)〜24日(月・祝)
大分県 国東半島

演出・文:飴屋法水

文:朝吹真理子

出演:大分県立国東高等学校双国校の3年生、くるみ、吉武蓮太郎、藤原裕也

映像出演:青柳いづみ、上野一二美、Sam Fuller、Tran Minh Thuan、Phan Quang Thieu、古田恒河、森秀映、涌井智仁、朝吹真理子

死んだ亀は流れなかった…“想像と現実”のギャップ

飴屋法水

──この表現は正しくないかもしれませんが、飴屋さんが演劇界にカムバックされたのは2007年、宮城聰さんからのオファーで、それは突然でした。その後は1作ごとにゼロから題材と向き合うような姿勢で、飴屋法水作品全体を形容する説明は困難です。それ以前の経歴もやはり、十代で唐十郎さんの状況劇場に参加、退団後は東京グランギニョルを立ち上げて活動した後、現代美術に活動の場を移され、のちに珍獣専門のペットショップ経営と、振り幅が広い。この企画は作り手の方に変化について聞くシリーズですが、特に大きな岐路となったのは何でしょうか?

岐路ですか……うーん、難しい質問ですねえ。

──3つか4つ選ぶのも難しいですか?

1つはっきり覚えているのは、すごく小さいときですけど、飼っていた亀が死んじゃってね。川に流そうと思ったんです。たぶん頭の中には、灯籠流しみたいに亀が水面をツーッと流れ、自分が(川べりを走って)追いかけて行くみたいなビジョンがあったんだと思う。ところが、手を離した途端に亀はブクブクと沈んで、あっという間に見えなくなった。それで大泣きしながら帰ったんです。

──それは、事前に頭の中で考えていたことと、実際に目の前で起きたことの乖離がショックで?

そうですね。

──現実は、自分の思ったようにはならない。

その感覚がそのときからずっとあると思う。こういう創作的な仕事ってイマジネーションが大事とされるけれども、僕は逆に現実マニアというか、現実というものの、正体が知りたくて作っているのかもしれない。

──確かに飴屋さんの作品は、「ブルーシート」(2013年初演)や「いりくちでくち」(2014年)などが特に顕著ですが、「ある完成形を目指して整えていく」ではなく「途中で起きたことも混ぜてできたものが完成形」という感触があります。もしかしたらそれが作品の印象が1つにまとまらない理由なのかもしれません。取り込んだハプニングの枝葉がまず目に飛び込むから、その中心にいる飴屋さんが見えづらい。

「ブルーシート」より。

そもそも演劇は、現実の人間がフィクションを描く時点で、すごく矛盾した表現だと思うんです。俳優の体は現実だから、3m跳んでと言っても無理。じゃあどうするかという壁にぶつかるのが好きなんでしょうね。好きというか興味がある。だからなのか、白い紙に自由に好きなイメージを描けと言われると何もできない。文章もわりとそうで、対象に何か現実がくっついていないと書けない。想像力が極端にないかもしれませんね、僕には。亀、流れなかったし(笑)。

──(笑)。なのに想像力が重要視されがちな演劇の世界に足を踏み入れた。

高校で演劇部に入りました。新入生歓迎会で上演されたつかこうへいの芝居がすごく面白かったんです。つかさんが劇団を立ち上げたのが確か1974年で、「熱海殺人事件」の初演で婦警さんの役を演じられた井上加奈子さんが僕らの演劇部の先輩で、部全体がつかさんに傾倒していたんでしょうね。僕の初舞台は1年のときに出演したつかさんの「戦争で死ねなかったお父さんのために」なんですが、終戦から30年経って突然赤紙が届く話です。ちょうど1972年に横井庄一さんがグアム島で、1974年に小野田寛郎さんがフィリピンで戦後30年で発見されて、僕はこれにすごい衝撃を受けていた。さっきの話につなげていうと、現実は想像ほど面白くないというのが亀の教えかもしれないけど、戦争は終わっていないと思い続けて30年間ジャグルで暮らしていた残留兵がいたなんて、普通のイマジネーションでは思いつかないことが現実に起きた。

「いりくちでくち」より。

──あれは1971年頃に書かれた戯曲ですから、演劇が現実を予見したかのようでもありますね。現実と想像は、互いに影響し合うこともあると?

はい、侵食し合っているのだと。30年ジャングルにいたのは現実ですし、戦争は終わっていない、と思う想念は虚構でもありますからね。2年生で部長になって、自分は俳優には向いてない、演出をしようと選んだのが、安部公房の「城塞」でした。戦争で儲けた父親が戦後は認知症みたいになって、すべてを忘却している。彼に反発している息子が照明やテープレコーダーを使って戦争を再現、つまりお芝居すると、その間だけ父親が覚醒して意識が戻るという話でした。結局のところ、現実と虚構の問題、それが人間に作用することに興味があったんでしょうね。

状況劇場に入団、音響担当に

──そして高校在学中に唐さんの劇団に入団されます。

高3の春に初めて唐さんの芝居を観て、それまでは劇場で寺山修司さんの作品などを観ていましたけど、テントで「ユニコン物語 台東区篇」を観て衝撃を受けた。赤ちゃんの取り替え事件がもとにある話で、あとになって考えると、その事件が僕を引っ張った部分もあるのかもしれません。入団したのは……これは母が後にものすごく反省しますけど、新聞に状況劇場の広告が出ていて「お前が面白いと言ってた劇団が、研究生を募集してるよ」と教えてくれたんです。それで高3の終わりに入団試験みたいなのを受けて、補欠だったらしいですけど一応受かったので、3学期はもう学校に行かず、東京に引っ越しました。

高校の演劇部で上演された「ユニコン物語」に出演する飴屋法水。

──それはお母さん、魔が差しましたね(笑)。住む場所も環境もがらりと変わり、周りは癖のある大人ばかりになったと想像しますが、その変化には最初から対応できましたか?

一言で言えば、自分がどれほど凡人かと思い知った時期ですね。入ってすぐ看板俳優だった根津甚八さんが退団されて、でも公演が予定されていたから、別の団員さんがその穴を埋め、その穴をまた別の人が……とやっていたら、音楽や音響を担当されていた安保由夫さんが出演することになった。それで17歳の僕にいきなり本番の音響を、いわば無茶振りですよね。気付いたら毎回公演の音響担当に……。でも立場は研究生だから授業料みたいなお金もかかるし、休みは1年のうちお正月の5日間だけ。まあ今とは時代が違いますからね。ほとんどの人は辞めていったけど、僕はとても楽しかった。面白かった記憶しかない。いろんな人に出会えたし。

──それなのに退団された理由は?

自分の作品を作りたくなったからです。毎日稽古を観ながら音を流し、夜は翌日の稽古用の曲を探して唐さんに聞いてもらう、ということをずっと続けていた。音響って、演出家の横で一番長く稽古を観ているから、最後のほうは、演出助手は言い過ぎですけど、唐さんが、書いた戯曲を真っ先に見せてくれて意見を聞かれたりとか。辞めるきっかけになったのは、ある芝居のトップシーンを僕のアイデアをもとに唐さんが書いてくれたことがあったんです。でも稽古が始まったら僕が考えていたものと全然違った。それは主に音の問題でしたけど、これは自分がやりたいことと違うと、そのときはっきり思った。それでどうしても自分が好きな音だけが流れている芝居を1本で良いからやりたくなって。辞めるときにはもう、小さな劇場を借りていました。

──飴屋法水という人のクリエーションは音から始まっているんですね。

当時の僕は完全にそうです。