「「EPAD」飴屋法水インタビュー|創作のコアにあるのは、“半分半分”という目線

グランギニョル、M.M.M.……自分の表現を追求

──東京グランギニョルの立ち上げ当初は拝見していないんですが、それに続く美術家・三上晴子さんとのプロジェクト、そしてM.M.M.も含め、1980年代に飴屋さんが確立された世界は、唐さんの劇世界の音とはまったく違う印象です。音で言えば、金属同士がぶつかる無機質でノイジーで、湿度が少ない音でした。

東京グランギニョルの公演より。

そうですね。と同時に、唐さんも誤解されがちなとこもあって。確かに叙情的なメロディをよく使うので、そこに湿度がないとは言えない。しかし同時に唐さんはループの人で。曲をそのまま使うことはなくて、自分が好きなフレーズだけを、当時はサンプラーなんてなかったからテープに録音してそれをつないで流していた。ヒップホップが出てきたとき、つまりラップのトラックですかね、それに出会ったときも、新しさというより唐さんがやっていたのと近いと思った。そのやり方は僕も踏襲していました。

──でも俳優の選び方は違いましたよね。唐さんと違うというより、ほかの誰とも違っていた気がします。

そうですか。いわゆる俳優さんを使わないのは決めていましたけど。演劇志望じゃない人というか、自分のことを俳優だとは思ってない人と組みたいと。

──それは最初におっしゃっていた、スムーズに行かなくても起こる現実はすべて受け入れて作品を取り込む姿勢と通じますね。

俳優さんって二重性があるじゃないですか。“他者”を技術と想像力で演じるわけだけど、同時に、その人以外の何者でもない。僕の興味はまずそこに向くんでしょう。でも、演劇を作る以上、作りたいのはやっぱり虚構とも言えるので。ただの現実の人間に過ぎないものが、その有限でしかない体のままで、なぜか無限のイメージを超える喚起力を持つ、っていう逆説みたいなことを起こさなければならない。それは大げさに言えば、奇跡みたいなことなんです。でもどんな俳優も、結局はその奇跡を起こせるかどうかだと思う。だから(一般的な創作とは)順番の違いというか、入り口の違いだけだと思いますけど。

──遠回りが豊かな時間であると認識しながらも、ほとんどの演劇創作の現場は、ある程度の枠の中で「演劇とは」「俳優とは」を共有して進むと思うんです。そのほうが効率的というだけでなく、思いもよらないものがしょっちゅう入ってくると、そのたびに自分が変化して、それは怖いことなので。飴屋さんはそこに恐怖心は生まれませんか?

飴屋法水

僕、怖がりと言えば本当に怖がりですよ。ただ、いろんなことに対して“半分半分”という言い方をするんだけど、その問題もまさにそんな感じ。半分はとても怖いし、もう半分は別に何とも思わないです。その両方が強くある。

──今のお話で言うと、グランギニョルやその後のM.M.M.の作品には、金属と土、鉱物と植物、化学と痛みなどのハイブリッド感がありました。“半々”という感覚が飴屋さんのコアだとしたら、演劇を離れたときも、その“半々”をほかに投影するビジョンはお持ちだったのでしょうか?

僕、演劇を意識的に辞めてはいないです。グランギニョルのときだけ自主制作でやって、そしたらPARCO劇場からオファーがあって、そこからは来た仕事だけすると決めました。1990年代に入る頃、レントゲン藝術研究所から「ギャラリーで何かやらないか?」と誘われ、その後は美術の現場が続いたけど、その間、演劇のオファーが来なかっただけですよ。でもそういう、来た仕事はやる、断らない、向いてるから引き受けるんじゃなくて、引き受けてから、何とか自分に向いているものに変えようとする、そういうやり方も、受動と能動の、半々を考えてのことなんだと思います。自分が人間に生まれてきちゃったこと、それとつなげて考えているというか。あ、つまり人間に向いてるから人間をやってるわけじゃないから。

動物から知る、生と死のこと

──そして2007年の「SPAC秋のシーズン」で、宮城聰さんから「平田オリザさんの『転校生』を演出しませんか」とオファーがあり、それを機に演劇の仕事が現在まで続いている。

そうです。その前が「バ  ング  ント」展(2005年)でしょ。あれは内容は美術っぽくないけど美術の土壌からのオファーなので、そっちが続いていれば、今も現代美術のフィールドにいた可能性はあります。でも「バ  ング  ント」のあと、美術の話は1つも来なかった(笑)。最近だと、2016年に茨城の県北芸術祭で、作品が存在しない場所だけの展示というか、場所から手紙が来るという「彼方からの手紙」を発表したり、2019年に東京駅近くの「2021」展で、展示期間中、言葉の下に座り続けている自分の体を展示したとかが久々だったかな。

──美術も辞めたつもりもなかった。

よくオウム真理教(が引き起こしたサリン事件)がきっかけで辞めたと言われるんですけど違います。確かに、オウムと阪神淡路大震災の影響はありました。1995年、僕は「パブリック ザーメン」という人工授精の作品を作っていて、ちょうど震災の夜、大友良英さんの精液を受け取りに行っていて、テレビで「何人の死亡が確認されました」というニュースを聞きながら、大友さんに射精してもらうという、なんか生と死が、そのとき、あっちとこっちに同時にあって……。オウムは、サリン製造の指導者と言われていた人──彼は刺されて亡くなるけど──が、たくさんの人間がいる中で自分たちは超越した存在だ、みたいな話をしているのを聞いて、ものすごく腹が立ったんですね。超越なんて動物は考えないでしょ? ただただ有限にまみれて生きて死んでいくだけです。人間の場合、精神というものが身体を、つまり有限を超えようとするのは当たり前ですが、有限を無視することは違うだろうと。それで、オウム真理教に対抗して動物教を作ろうと。

フクロウの子供。

──それが動物堂というペットショップ経営(「キミは珍獣と暮らせるか?」という著書も刊行)になった……。

はい。そんなにお金もかけず、やろうと思った1カ月後には店を開けられたんですよ。当時は資格も要らなかったし、サイテス、つまりワシントン条約も緩かったし。その時期は人生の中で一番ちゃんと稼いだ時期だと思う。それともう1つ、動物のお店をやったのは、演劇の外の人たち、つまり「飴屋法水なんて知らねーよ」っていう人たちと関わりたかったんです。その経験は、たぶんあとで「転校生」や「ブルーシート」を演出するときにすごく役立っていると思います。彼ら、僕のこともオリザさんも、何にも知らない高校生たちですからね。

──改めて“半々”の「何とも思わない」のほうですが、動物の仕事を通して、生と死を間近で見てその心境を強められたのかとも思ったのですが。

そうですね。小さいときから家にずっと生き物がいたという環境も大きいし。やっぱり生き物はバンバン死ぬし、交尾して子供が次々と生まれるというのを絶えず見ていましたから。思春期になるよりも早く、そういう動物の姿を見続けていたので、自分の場合も、初恋とか異性への憧れとかは全然なくて、「あ、自分にも発情期が来たな」としか思わないというか。

──飴屋さんのターニングポイントとして私が予想していたのは、実はご家族のこともありました。パートナーのコロスケさん、娘さんのくるみさんとは作品も作っていらっしゃいますが、家族ができたことがもたらした変化はありませんか?

「教室」ドイツ公演より。©︎Christian Herrmann

うーん……、それはまあ、あるといえば、ものすごくあるんでしょうけど。やっぱりその前に動物をやっていたのが大きいですよね。最終的には繁殖もやっていたので、動物の子供をどう育てるかをすごい熱量で考えて、何度も経験していて、くるみが生まれたときはそれを真似するような感じでした。それともう1つ、これはあまり迂闊には言えないけど、自分の子供だと信じれば自分の子供でしょ? 子供の取り替え事件じゃないけれど、それはもう信じるかどうかだけだというのが僕の考え方なので。だから、そういう状態なんですよ。自分の子だ、という鉄壁の“現実”が重要なわけではない。自分の子供と思って育てていく、というもしかしたら虚構かもしれないことに意味があるんです。や、きっとそれも半々のことかもしれないですね。結局のところ、演劇をやることと子供を育てることに、僕には何の区別もないんです。

長い目で見て役立つ、映像アーカイブの価値

──話は一気に最近に飛びますが、コロナはどんな変化をもたらしていますか?

動物堂も、アフリカからのウイルスでお店が全滅しました。だから何というか根本の感覚に変化はないんです。ウイルスの存在は現実ですよね。しかし自分や家族の命には、生きていくだけの価値がある、という思いは現実というより、人間の想念みたいなもの。いわば自分という個が信じている虚構だと思っています。生き物はすべて個で生きているのと同時に種でも生きていて、種の現実は何割かが死ぬのは当たり前で、全滅しなければそれでいい。食物連鎖はそうでなければ成り立たない。種や自然にとってはそれが現実で、ウイルスはそちら側に属している。そこからしか人間を捉えない。しかし人間の僕は、個の命は大切だ、かけがえがない、という強い虚構を生きている……ただ、感染はあるけどパンデミックは、動物の世界にはないんですよね。人間が動物の有限性を超えようとしたからこそ訪れたものだと思う。コロナは、動物でもある人間の有限性と、それを超えようとする虚構の問題を、改めてつきつけていると思います。さておき卑近なことを言えば、昨年予定していた仕事は全部潰れ、今年に入ってからもいくつも流れています。まあ仕事は大変だからそんなにいっぱい来てほしくはないんですけど、ちゃんとお金になる仕事がちょっと来るといいですよね(笑)。

──それ、理想的ですね(笑)。EPADは、直接的にコロナと関係してはいませんが、それを機に進んでいる取り組みです。飴屋さんの作品も、2007年の復活以降のものが6作アーカイブ化されますが、EPADの話をお聞きになったときにどうお感じになりましたか?

いいことなんじゃないですかね。僕自身は、ちゃんと残すということに関して何もしてこなかった人間です。その場限りで消えてしまう有限性こそ、演劇の宿命だと思ってきましたから。過去の作品をほとんど残さずにきました。また劇作家というより演出家だと思っているので、戯曲もほぼないですしね。記録として残っている映像も、どうだろう、一般的な意味で、多くの方が観て楽しむという感じには、正直ならないと思います。そういう力を持っているのは、否定的な意味ではなくて、やはり商業演劇ですよね。ただ、たとえ数が少なくとも興味を持った人が、いつでも観ることができるのはすごく大事だと思うんです。僕も、「転校生」を演出することになったとき、早稲田の演劇博物館に平田オリザさんが演出した初演の映像を観に行きましたもん。そういう、資料的価値と言ったら良いのかな、時間を経た目が、過去に出会う回路ができる、それはとてもいいことだと思います。そうですね、他人の手を借りながら、こうして有限を超えることがありえるということ、これもまた人間の証なんでしょうね。

──演劇作家としての飴屋さんのイメージは常に変化していますが、海外戯曲を演出した「4.48サイコシス」や、朝吹真理子さんとの共作で、ご自身でパフォーマンスされた「いりくちでくち」や、カステルッチとのダブルビルだった「じ め ん」、また生きている人間が1人も登場しない演劇「わたしのすがた」など、その幅広さが実感できる作品が収蔵されるのは、観客としてはうれしいです。

「4.48サイコシス」より。©︎Jun Ishikawa 「わたしのすがた」より。©︎Yohta Kataoka

ああ、「わたしのすがた」が演劇としてアーカイブされるのは僕もちょっとうれしいです。藤井光さん(映画監督で美術家)が、当時は「F/T」で普通にカメラマンとして働いていたらしく、撮影を担当してくれてたそうなんです。彼の映像で観ることを僕も楽しみにしています。

──それは一層興味が湧きます。ありがとうございました。