愛知県芸術劇場が主催するAAF戯曲賞は、「戯曲とは何か?」をテーマに、次代を担う劇作家・戯曲の発掘を目指す戯曲賞。第22回AAF戯曲賞で大賞を受賞した村社祐太朗の「とりで」が、愛知県名古屋市を中心に活動する,5(てんご)の澄井葵と、けのびの代表を務める羽鳥嘉郎の演出により上演される。AAF戯曲賞受賞作を複数のクリエイターが演出するのは今回が初。新たなフェーズの第一歩となる「とりで」では、3月にワークインプログレス試演会が行われたのち、12月に本公演が実施される。試演会を控えた1月、「とりで」を執筆した村社、同作を演出する澄井と羽鳥、そして愛知県芸術劇場の仲村悠希プロデューサーに、公演にかける思いを聞いた。
取材・文 / 興野汐里ヘッダ写真撮影 / Satoshi Nishizawa
新たなフェーズへ、初の試みも
──第22回AAF戯曲賞受賞記念公演「とりで」は、例年のAAF戯曲賞受賞記念公演とは異なり、ワークインプログレス試演会が実施されるなど、今回は作品の制作期間が長く設けられています。AAF戯曲賞は2025年度以降にリニューアルされることが検討されていますが、AAF戯曲賞が新たなフェーズへ向かうことになった経緯や、「とりで」の演出家として澄井さんと羽鳥さんを選出した理由について、プロデューサーの仲村さんからご説明いただけますか?
仲村悠希 私は2024年7月に愛知県芸術劇場のプロデューサーに着任し、AAF戯曲賞の事業を担当しています。AAF戯曲賞は近年、受賞の翌々年に記念公演を行っていましたが、芸術監督である唐津絵理の意向により、創作環境をしっかりと整え、受賞作が決定してからの公演制作のプロセスも公開し、時間をかけてより良い作品を制作していこう、ということになりました。
また、複数の演出家によってAAF戯曲賞受賞作が上演されることも、今回が初の試みとなります。“劇場は世界を見る窓”と言われるように、強度がある魅力的な戯曲をさまざまなクリエイターが演出し、いろいろな形で上演することで、多くの観客の目に触れる機会を創出していきたいと考えたためです。
今回、澄井さんと羽鳥さんのお二人をお招きしたのは、村社さんが羽鳥さんのお名前を出してくださったことがきっかけでした。それを踏まえて、かねて羽鳥さんと交流があり、当劇場がある東海地方を中心に活躍されている澄井さんに、お声がけをさせていただきました。
──第22回AAF戯曲賞で大賞を受賞した「とりで」は、川と川に挟まれた陸の孤島と呼ばれる住宅地を舞台に、とある家族のやり取りを描いた会話劇です。「大事な話がある」と子供たちを自宅に呼んだ母、母のもとを訪ねて来る娘、息子夫婦たちの間に流れる静かな時間が、淡々とした筆致で丁寧に紡がれます。また、東京都の東側に位置する実在の地名が多数登場するため、かなり緻密に取材をされた印象を受けたのですが、舞台となった地域は村社さんにゆかりのある場所なのでしょうか?
村社祐太朗 そうですね。私が6歳ぐらいから住んでいた江戸川区や葛飾区周辺が舞台になっています。大学を卒業してからずっと、モノローグ形式で戯曲を書いていたのですが、「とりで」を書く直前に、モノローグを書くことに対して限界を感じてしまって。限界というか、モノローグに関して、自分の中で取り組めそうなことがなくなってしまったというか。そこで、久しぶりに会話劇を書いてみることにしたんです。会話劇に挑戦した理由がもう1つあるとすれば、時間をかけて岸田國士の戯曲を読む取り組みを、ここ数年親しい方とずっと続けてきたことも影響しているかもしれません。その取り組みの延長で、自分でも会話劇を書いてみたのですが、やはりモノローグの執筆に慣れていたこともあり、「とりで」はうまく書き進められなかった記憶があります。
羽鳥嘉郎 ダイアローグ形式だと書きづらかったのはなぜだと思いますか?
村社 モノローグを書くときは、自分が1つの主体になりきって書くことができるのですが、ダイアローグとなると、主体が単体ではなく複数になるので、「こういう書き方でいいんだろうか?」と最後まで自信が持てなかったからだと思います。
──村社さんと羽鳥さん、澄井さんと羽鳥さんは元々お知り合いで、村社さんと澄井さんは2024年に実施されたサハのイベント「演出家の読書術」で初めてお会いになったそうですね。AAF戯曲賞受賞記念公演「とりで」の演出家として、村社さんが羽鳥さんのお名前を挙げた理由は何だったのでしょうか?
村社 羽鳥さんが戯曲を演出するプロセスに立ち会ったことがないので、想像がつかない部分も多いのですが、羽鳥さんがどういう演出をなさるのか、もともと興味があったので、お名前を出させていただきました。
コンプレックスを刺激される戯曲
──3月のワークインプログレス試演会、および12月の本公演では、澄井さんと羽鳥さんがそれぞれ演出した作品が連続上演されます。澄井さんと羽鳥さんが「とりで」を読んだ際に感じたことや、現時点で挑戦してみたい演出プランがあれば教えてください。
羽鳥 例えばおこりんぼのキャラクターというような、わかりやすい人物像が出てくる戯曲ではないですよね。繰り返し戯曲を読むことで立ち上がってくるもの、見えてくることが多い作品だと考えています。繰り返し読むことを強く求めてくる戯曲、と言ってもいいでしょう。
もちろん演出プランを準備してクリエーションに臨みますが、稽古に入って座組の方々とお会いして一緒に制作していくので、前もってお話ししづらい部分があるのも正直なところです。
ただ、2024年12月に行ったワークショップ形式のオーディションで、“もどかしさ”をオーディション参加者と共有する時間が持てたのは大きな収穫でした。稽古を進める中で、動作や言動がだんだんスムーズになっていくことが、演劇においては良しとされる場合が多いと思うんですけれども、むしろ、ぎこちなさやズレがあるほうが良い場合もある。うまくできたほうが良いわけではない身振りというのが、この世にはたくさんあります。「とりで」に書き込まれている身振り手振りを、“うまくできないことを経験する装置”として使えるのではないかと考えています。
澄井葵 率直な感想で恐縮なんですが、私は「とりで」を読んで、「ちょっと気取っているな」「少し苦手なお家のお話だぞ」という感想を抱きました。都会にある良いご家庭で生まれ育った人が書いた戯曲だなという印象で、自分のコンプレックスを刺激されるというか……私は岐阜から東京の大学へ行かせてもらい、ある程度恵まれた環境で生きてきたとは思うんですけど、それでもやっぱり“東京の家庭”が当たり前のこととして描かれているのは、少しおっかないなと思いました。なので、その点について村社さんのお話を伺ってみたいです。
それから、東京を舞台にしたテキストを愛知で上演するとどうなるのかについても考えながら戯曲を読み進めていきました。戯曲に書かれている地域性はどうしても無視できないですし、東京にある地名や東京を彷彿とさせる固有名詞が登場することに対して、私の中で緊張感が走るときがあります。ただ、そういうところにばかり執着していると、演劇として上演する必要がなくなってしまうので、どうしたら演劇的な取り組みができるかに焦点を当てて演出したいと考えています。
演出の構想については、誰かが1人で母役を演じる形式ではない方法を取ろうと思っていて。母役を1人で担うと、背負うものが多すぎて潰れてしまう気がするので、“母”という存在に重なっているレイヤーを1枚1枚めくりながら、作品を作っていけたら良いなと思います。
村社 先ほど澄井さんが「コンプレックスを刺激される」とおっしゃっていましたが、戯曲に登場する固有名詞が積み重なって、文化レベルや経済的な事情が見え隠れする点については、ほかの方からもよく指摘されることがあります。ただ私はその具体性を、他者を想像するための手続きとして重要視しています。一見して“極端な例”には見えない中庸さのようなものにも、当然極端さはあると。恐らく意識しづらいものだと思いますが、私はそれを書きたいと思っています。なので“これが当たり前の家庭だと主張している”つもりは微塵もありませんが、そう思われても仕方がないということを認識はしているということです。
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執筆と演出を引き剥がす