「この映画はまだ続いている気がする」同じ場所を、同じ視点で撮り続ける。終わらない映画「HERE 時を越えて」寄稿:しまおまほ

地球上のある地点にカメラが固定され、目の前で起こる無数の出来事を映し出す映画「HERE 時を越えて」が4月4日に全国で公開される。主な舞台は、1907年に建てられた家のリビング。全編を通してカメラは動かぬまま、時を超え、幾世代もの家族の喜びや悲しみ、すべてを“ここ”から見守っていく。

家そのものが大きな役割を果たす本作を、日本では珍しい洋館で育った経験のあるエッセイストのしまおまほに鑑賞してもらった。彼女が子供の頃に住んでいたのは、東京・世田谷の豪徳寺に佇む旧尾崎テオドラ邸。長い歴史の中で共同住宅として使用されるなど、多くの家族が暮らした場所だ。しまおは自身の記憶を紐解きながら、本作が描く、時を超えたさまざまな人の暮らしを見つめる。

文 / しまおまほ

映画「HERE 時を越えて」予告編公開中

家の窓は人が生まれて最初に観る映画

46年間、住んでいる場所がほとんど変わっていない。そのことがレビューを依頼された理由のひとつらしい。同じ場所に暮らし続けているだけで仕事がもらえるなんて、と思ったりもするのだが、「HERE 時を越えて」はまったく同じ場所の景色を視点を変えずに見つめ続ける映画なのだ。

わたしが子どもの頃に住んでいた部屋には横は大人が両手を広げても足りないほど、高さは天井から腰の位置くらいまである大きな窓があった。目が覚めて、寝るまでずっとその窓の景色と共にいた。外を眺めることもあれば、背中を向けて遊びに没頭する日もある。ただそこにあるだけの窓だけれど、いつも見守られているような安心感があった。晴れの日も雨の日も、カラスが多く飛んでいる日も風邪をひいた日も。昨日と同じ景色が少しずつ移り変わっていく様を窓は教えてくれた。

部屋の窓と真反対の方向、部屋の外の廊下にある小さな窓からは庭を隔てた向こうに隣の家の窓が見えた。小学生の男の子ふたり兄弟がいるその家は、ちょうど窓に向かってテレビが置いてあって、家にテレビがなかったわたしは廊下の窓に寄りかかり双眼鏡を構えて隣の部屋のテレビを覗き見ていた。いや、覗いているつもりはなかった。幼稚園生のわたしにとってそれが「テレビを見る」という行為だったから。いつも映るのは野球中継か「巨人の星」ばかりだったけれど、テレビのない暮らしをしている自分にはCMさえも刺激だった。窓の中にもうひとつ小さな窓があって。そこから違う世界に連れて行ってもらえるような、後にも先にも体験しえない異世界旅行の時だったのだ。もしかしたら、人が生まれて最初に観る映画は窓というスクリーンに浮かぶ場景なのかもしれない。この作品の所々でアクセントになる窓の外の様子や、流れていく時代を表現するシーンで用いられる窓を想起させるスクエアを観て、そんな風に思った。

「HERE 時を越えて」より、舞台となる家に最初に住み始めた家族。窓の外の風景も時代とともに移り変わっていく

「HERE 時を越えて」より、舞台となる家に最初に住み始めた家族。窓の外の風景も時代とともに移り変わっていく

映画の主人公であるリチャードの両親は1945年、この家に入居する

映画の主人公であるリチャードの両親は1945年、この家に入居する

「HERE 時を越えて」はタイトルにもある通り“時を越えて”同じ場所で暮らす人々を映し出す。それはまだ人類が存在しない時代から。あちこちで火山が噴火し溶岩が流れ、恐竜が卵から孵る映像を目の当たりにすると、そっから遡るのかい…!と、一瞬面食らいつつわたしたちの住む土地にだってそういう時代があったのだよな…と、途方に暮れずにはいられなくなる。わたしたちが「我が家」だと思っているその場所は、かつての誰かにとっても「我が家」で、さらにそのずっとずっと前から命を育み、いくつもの営みが複雑な繋がりを創造している。草も木も虫も鳥も。

自分の住んでいた部屋で昔暮らしていた人に会ったことがある。縁もゆかりもないと思っていた初対面の人間が「同じ部屋で住んでいた」とわかっただけで一気に仲間意識のようなものが芽生えて不思議な感覚だった。北側の部屋はどう使ってる? トイレはまだウォシュレットついてないの? 窓から見える桜がいいよね…なんて。血や心だけでなく、土地の繋がりというのも人間の生活にとって重要な要素なのかもしれない。「HERE」の人々も年代を越えて集まればきっと楽しいパーティーになるだろう。

トム・ハンクス演じるリチャード(左)と、ロビン・ライト演じるマーガレット(右)

トム・ハンクス演じるリチャード(左)と、ロビン・ライト演じるマーガレット(右)

この映画はまだ続いている気がする

トム・ハンクス演じるリチャードは10代でロビン・ライト演じる恋人マーガレットとの間に子どもを授かり、リチャードの両親と兄弟たちが暮らす家で生活が始まる。子どもの頃、クリスマスのプレゼントを喜んで広げたその部屋で行われた幸せな結婚式。部屋の真ん中に鎮座する主人のような貫禄のソファーでマーガレットは出産の時を迎える。400年近く前に先住民がそこで愛を育み、命を繋げたように…。もしわたしがアメリカ人だったなら、さらに自分事として観て、映画の中の「あるある」を見つける楽しみもあったのかもしれない。日本だったら登場するのは縄文人? もしかして神話も出てくる? 伊藤博文? テレビに映るのはコント55号かドリフか…なんて想像しながら。

家のリビングで行われたリチャードとマーガレットの結婚式

家のリビングで行われたリチャードとマーガレットの結婚式

自分が子供の頃のクリスマスのホームムービーを見つめるリチャード(左)

自分が子供の頃のクリスマスのホームムービーを見つめるリチャード(左)

同じ場所で同じ時間を過ごし、窓から同じ景色を眺めていたリチャードとマーガレット。その瞳に映るものは、想いは、果たして同じだったのか。娘が成長するにつれマーガレットはそろそろ自分たちの家を持たないかとリチャードに相談を持ちかける。しかし、口約束はことあるごとに反故にされてしまう。家族の歴史が詰まったこの家に10代で飛び込むことになったマーガレットが唯一勝ち取ることができたのは、ソファーの買い替えだけ…。一方のリチャードはかつて夢中でキャンバスに向かっていた自分を忘れた振りをし続けていた。前の住人レオとステラの自由なカップルは、自分色に染めたインテリアの中で好きな物に囲まれ、楽しい暮らしを続けながらレオは発明を成し遂げていたというのに。そのコントラストは人が老いていき、死を迎える様とはまた別の残酷さを滲ませている。

マーガレットが50歳の誕生日を迎えたその日に、彼女の心の糸はプツンと切れる。それはふたりが見ていた幸せの景色が同じではなかったという気づきと、ふたりの物語の新たなステージが始まる合図だった。

映画が終盤に向かうにつれ、目の前で繰り広げられているのは果たして物語なのかと思えてきた。なんだか自然界の事象のひとつのようにも感じてしまうのだ。建国、文明の発展と戦争、流感、差別。そこにいつも存在する愛だって正解ばかりとは限らない。全てを受け入れるにはわたしたちはちっぽけすぎる。

観終えた…といっていいのだろうか。この映画はまだ続いているんじゃないか? 同じ場所を、同じ視点でずっと撮り続けている。そんな気がする。

老年を迎えたリチャードとマーガレット

老年を迎えたリチャードとマーガレット

プロフィール

しまおまほ

1978年生まれ、東京都出身のエッセイスト。東京・世田谷の豪徳寺にある洋館で育つ。多摩美術大学在学中の1997年にマンガ「女子高生ゴリコ」で作家デビュー。以降「タビリオン」「ぼんやり小町」「しまおまほのひとりオリーブ調査隊」「まほちゃんの家」「漫画真帆ちゃん」「ガールフレンド」「スーベニア」「家族って」「しまおまほのおしえてコドモNOW!」といった著作を発表している。イベントやラジオ番組にも多数出演。両親に写真家の島尾伸三と潮田登久子、祖父母に小説家の島尾敏雄と島尾ミホを持つ。