「ボーはおそれている」人を不安にさせる天才アリ・アスターの内面世界に迫る対談2本立て / アイナ・ジ・エンド&「映像研には手を出すな!」大童澄瞳が登場 (2/2)

マンガ「映像研には手を出すな!」で知られる大童澄瞳が、「ボーはおそれている」を引っさげ来日したアリ・アスターと対談。「私にとっては、この映画に映っているのはすべて『普通』のこと」と語る大童が、世にも奇妙な「ボーはおそれている」を作り上げた監督の内面世界に迫る。大童が映画にインスパイアされて描き下ろしたイラストもお見逃しなく。

アリ・アスター×大童澄瞳 対談

「この映画に映っているのはすべて“普通”のこと」

大童澄瞳 私は「映像研には手を出すな!」というマンガを描いているのですが、高校生たちが絵を描きながらだんだん妄想の世界に突入していく描写があるんです。そこが「ボーはおそれている」にも通じるのではないかということで、今回呼んでいただきました。

アリ・アスター ちょっと拝見してもいいですか?(と英語版の「映像研には手を出すな!」のコミックを手に取る) すごく美しく描かれていますね。この様式美が素晴らしい。

「映像研には手を出すな!」の1巻を読んで驚くアリ・アスター。

「映像研には手を出すな!」の1巻を読んで驚くアリ・アスター。

大童 ちょうどここが、妄想の世界ですね。頭の中のイメージに登場人物たちが入るという。

アスター なるほど!

大童 先ほどお話ししたように、そういった作品の共通項でお声が掛かったのですが──「ボーはおそれている」を観て驚きました。「私の人生を映画化してくれたのか、これは……」と思ってしまって。というのも私は精神障害者の方とも関わりがあるし、家族全員が障害者手帳を持っているんです。自分自身もそういった症状を抱えていて発達障害もあるものですから、その目線で「ボーはおそれている」を拝見してすごくエキサイトしました。私にとっては、この映画に映っているのはすべて「普通」のことなんです。

アスター なんと。なおさら大童さんのマンガを早く読みたくなってきました。

大童 ありがとうございます。そのうえで1つ気になったのは、本作を作るうえでアリさんは医学的な知識をどれだけ盛り込んだのか、それとも個人の主観でこの映画を描いたのかということです。

大童澄瞳

大童澄瞳

アスター なるほど。幾分かは医学的な知識を生かして作ってはいますが、ほとんどは身近な話です。先ほど大童さんがおっしゃっていたように、劇中で起きることは僕にとってもさほどミステリーではなくて。「ボーはおそれている」を観た方の反応は、だいたい2つに分かれると感じています。

不安神経症を抱えていたり、ある種の精神障害を経ていたり、あるいは誰かと共依存のような関係にあるような人々は「わかる」と言うんです。そうではない、いわゆる“ノーマル”な人々は「何が起きているんだろうか」という目で観ているようです。僕たちみたいな人々は、親近感を持って観てしまいますよね。

ホアキン・フェニックス演じる主人公のボー。

ホアキン・フェニックス演じる主人公のボー。

大童 僕は自分のメンタル的にこの映画を観られるタイミングだったからよかったですが、薬を飲んでいなければもしかしたら途中で劇場を出ていたかもしれません(笑)。それくらい、真に迫っていました。

だからこそ気になったのは、アリ監督ご自身と創作の関係性です。「血の轍」(押見修造)というマンガがあるのですが、母親との軋轢をものすごくダークに描いていて。その作者に対して私が思うのは、「なんでこんなつらい話を描けるんだろう、描いていてつらくないのか?」ということ。僕自身は描き手としても読み手としても、そういったものが耐えられないんです。「血の轍」の作者は「自分のセラピーのため」と話していたのですが、アリさんはいかがですか?

「ボーはおそれている」は、とある衝撃的なオープニングのあとボーのカウンセリングから始まる。

「ボーはおそれている」は、とある衝撃的なオープニングのあとボーのカウンセリングから始まる。

アスター 僕も作品を作ることは一種のセラピーだと思います。なぜなら、書き出して作り出すことで自分の中に巣くうあれこれを浄化することができるから。作っている間はそのことに必死になるものですよね。テーマがダークなものであれ「どうやって作っていこう」という方法論や、「いい作品にするにはどうしたらいいのか」と試行錯誤することで、その悩み自体が自分から引きはがされるのです。そうすると、パーソナルなものではなくなっていくんですよね。

ただ、公開するとなるとまたいろいろな不安が生まれるんです。みんなどう反応するんだろう、言いすぎてしまったんじゃないか、身近な誰かを傷付けることにならないか等々……。作品を破壊して、公開できないようにしてしまおうかとすら考えるようになります。そうした世に送り出す過程そのものがトラウマになって、またセラピーが必要になって作品を作って……ということをぐるぐると繰り返して今に至ります。

アリ・アスター

アリ・アスター

大童 なるほど! 先ほど私は「これは自分の映画だ」と思ったと言いましたが、「理解した」とは思っていません。それは、自分が作家としてマンガを作っているときに、本当に理解してくれる読者はいないから。どう受け止めるかは個々に任せられていると思うので、「ボーはおそれている」を観て「アリ・アスター監督はこう考えている。この監督のすべてがわかった」なんてことは言えません。どこからどこまでが自分にとって理解できたことで、ここからここまでは到底理解の及ばないところだ──ということを観たあともずっと悩み続けています。「わかった」とも言えるし「わからない」とも言える両方の感情がありますが、アリさんは「理解されたい」あるいは「理解されたくない」について、どんな思いをお持ちですか?

アスター 今いただいた質問への答えを言語化するのは難しいですね。どちらかというと僕以上に観客のほうが作品を理解してくれているかもしれないと思います。というのも、僕自身は今回、けっこう衝動に任せて撮っているから。マンガにしても映画にしてもそうかと思いますが、1回観ただけで「全部わかった」と思えてしまう作品は面白くないし、表面的なものでしかないですよね。僕自身も何かを観たり読んだりするときは、自分から掘りに行かないといけないものじゃないと受け身のままでつまらないと感じます。

そこで本作にはいろいろな内容を示唆したり埋め込んだりはしましたが、かといって洗練された“ほのめかし系”かと言うとそうではない。つまり、サブテキストがそのまま前面に押し出されている類いの作品なのです。思いつくまま、なんの足かせもなく自由に盛り込んでいくアプローチをした結果がこれであって。もちろん「ここはやりすぎだからちょっと抑えよう」とか「この内容に関してはもう1回言っておこう」「こんなに簡単に行きすぎてはダメだからもう少し付け足そう」といった微調整は行っていますが、最初から計算して戦略的に脚本を書いているわけではありません。

「ボーはおそれている」は自分の“木霊(こだま)”のような作品だと思っています。あるいは、僕の世界を投射したミラーハウスのような映画だとも。そこをベースにして、もう少し自分の要素を強めたり、それが出すぎだと感じたときはもう少し丁寧にならしてみたりと、やりながら整えていきました。

左からアリ・アスター、大童澄瞳。

左からアリ・アスター、大童澄瞳。

大童 確かに、ストーリーライン自体はすごく追いやすいですよね。ただ、構成要素が本当にさまざま。日本の最近の傾向として、映画が公開されたあとにSNSが盛り上がるというものがあります。何人もの頭のいい人が「このシーンにはこういう意味がある」という考えを発信して、その集合を読んだ人が「なるほど」となるような。今はそれを少し期待しているし、少し恐れているところがあります。「自分だけの映画のはずなのに……」と。

同時に、SNSは作家たちにとってプラスなのかマイナスなのか?ということも自分の関心事です。私は「映像研には手を出すな!」の中でプロデューサーのような役を出しています。3人のメインキャラクターのうち、2人はアニメーションを作るけど1人はそれを広告していくポジションに据えていて。この3人はすべて私の中にいるので、自分としてはSNSを「使う」タイプではあります。

ただ……何万人もフォロワーを獲得してその人たちに発信していますが、反応を読んでいると、自分の作った物語が表面上はかなりわかりやすいものなので、そこに込められた本当の意味について話してくれている人が少ないことに悩んだりはしています。SNSにやられてしまう作家もいれば、私のようにある程度乗りこなす作家もいるのでプラスかマイナスかはなんとも言えないなと思うのですが、アリさんはいかがですか?

アスター いやぁ、どうでしょうね……。ちょっとアンビバレンスというか、なんて言ったらいいんだろう……(考え込む)。

大童 難しいですよね、話を変えましょう(笑)。冒頭にお話ししたように、「映像研には手を出すな!」では、場面の中で現実と妄想がコロコロ変わるのですが、「ボーはおそれている」でも、「これは現実なのか? SFなのか? 妄想なのか? そもそも相手は人間なのか?」と気になってしまったり、演劇のシーンで書割が出てきたりしますよね。こうした表現を横断するような舞台装置や仮面を使うのは、監督として突っ走りたい気持ちなのか、何かそこに込めたいものがあったのか、どちらでしょう? ちなみに僕の場合は、「普通の表現はしたくない」という傾向からでした。

アリ・アスター曰く“ボーの主観に縛られた”本作では、わけのわからない出来事が立て続けに起こっていく。

アリ・アスター曰く“ボーの主観に縛られた”本作では、わけのわからない出来事が立て続けに起こっていく。

アスター 「ボーはおそれている」はダークコメディかつ冒険譚でさまざまな要素が入ってきますが、いずれにせよダークコメディなわけだから自分自身を笑わせるつもりで作っています。また、長い長いオデッセイを描く分、自由に世界を作ることができるという利点もありました。本作では、壁に貼られたポスターにしろ小道具にしろ、ありものを一切使わずにすべてイチから構築しています。それはチャレンジングでしたし、非常に楽しいものでした。

例えば舞台劇の中にボーが入るとしたら、これはいっそのことアニメにしたほうがいいと思いついて非常に興奮したことを覚えています。「いつかアニメを手がけたい」と思っていましたが、その格好の口実になりました。他の作品だったら、きっとうまくハマらなかったでしょうから。今回はとにかく自由度が高かったので、そうした試みもできました。今回は実質的に15分の短編アニメを作って、すごくやりがいがあったのでいつか長編を作ってみたいです。

大童 それはいいですね。本日はありがとうございました! またぜひ日本にお越しいただきたいです。

アスター こちらこそ、ありがとうございました。

大童澄瞳が描く主人公ボーの“箱庭療法”
大童澄瞳が描く主人公ボーの“箱庭療法”

大童澄瞳が描く主人公ボーの“箱庭療法”

箱庭療法はカウンセリングにおいて、砂の入った箱の中に人、動植物、乗り物、建物などのミニチュアを置き、何かを表現したり遊んだりする心理療法のこと。大童は混沌としたボーの心をのぞき込むような本作の世界を表現するため、映画に登場するさまざまなモチーフをボーの箱庭として描いた。映画の鑑賞後に見返すと何か発見があるかも……?

プロフィール

アリ・アスター

1986年生まれ、アメリカ・ニューヨーク州ニューヨーク出身。アメリカン・フィルム・インスティチュートで映画を学び、ある父子の性的虐待を題材にした「The Strange Thing About the Johnsons(原題)」、息子を溺愛する母親の狂気を描いた「Munchausen(原題)」といった短編で注目を集める。2018年の長編デビュー作「ヘレディタリー/継承」は、多くの批評家や映画監督から絶賛され、北欧のカルト共同体を訪れる大学生を描いた「ミッドサマー」は日本でもスマッシュヒットを記録した。

大童澄瞳(オオワラスミト)

1993年3月19日生まれ、神奈川県出身。マンガ家。2016年にデビュー作「映像研には手を出すな!」の連載を月刊!スピリッツでスタートさせた。同作は2020年に湯浅政明によりテレビアニメ化、同年に乃木坂46のメンバー主演で実写映画化・ドラマ化と数々のメディアミックスを展開。シリーズ累計発行部数は120万部を突破した。現在、最新刊となる8巻まで販売中。

2024年2月13日更新