芸能界と小劇場をないまぜにし、別の広がりを
──「ドライブイン カリフォルニア」は、松尾さんの別ユニット・日本総合悲劇協会(ニッソーヒ)のVol.1とVol.4で上演されました。
ニッソーヒの最初の目的は、大人計画の俳優とよその俳優を混ぜるってことでした。よその世界と混ざっていくことで大人計画が別の広がりを見せ、同時によその俳優さんにも大人計画的な匂いを知ってほしかった。当時、なんだかんだ言って異端だと思われていたので、芸能界と小劇場を混ぜていくということを考えていたんです。再演ではさらに“ちゃんと”やりました。そういえば、「ドライブイン カリフォルニア」で初めて蜷川(幸雄)さんが観に来てくれて。何を言われたかは覚えてないですけど、「ドライブイン カリフォルニア」を観て、蜷川さんは「松尾が(シアター)コクーンでやってもいいんじゃないか」と判断されたと思うので……。
──今へのきっかけの作品なんですね!
そうですね。もし最初に観たのが「生きてるし死んでるし」だったらどうだったろうかと思います(笑)。
──改めて見返すと、1990年代は作品数も多く、ストーリーが込み入っていて物語にボリュームがある作品が多いですね。当時どんなことを原動力にされていましたか?
自分の中で過剰なものがあったとしか言いようがないですね。もともとカート・ヴォネガットに影響されて複雑なものを書くようになったんですけど、それが自分の性に合ってたというか。複雑なものを絡み合わせてラストに持っていくみたいなことを考えるのが好きだった。「フリムンシスターズ」はそういうふうにしないようにしようと思ったんですけどそうなっちゃった……ということは、やっぱり人間の因果関係を複雑に掘り下げて書きたくなるタチなんでしょうね。
──また、今回の放送には入っていませんが、この時期に上演された重要な作品として、2000年初演の「キレイ─神様と待ち合わせした女─」があります。この作品が、その後の作品に影響を与えたところはありますか?
与えたというよりむしろ、「キレイ」のようなものではない作品をやろうとしてますよね。例えば「エロスの果て」とか「業音」(2002年初演)とか、全然違うものをやりたいって気持ちが強くなるんでしょうね。という意味では、“そういう気持ちを起こさせる影響”を与えてはいると思います。
──同時に2000年代前半には、小説や映画にも活躍の場を広げていらっしゃいます。先ほど、“芸能界と小劇場を混ぜる”思いを持っていたとおっしゃいましたが、ご自身の立ち位置の変化を感じていましたか?
うーん、映画も小説も、やれたらやりたいってスタンスで、そうしたらそれをお膳立てしてくれる人がたまたまいたって感じで。自分の立ち位置がどうということはあまり考えてないです。
ウケなかったら死ぬと思った、「もうがまんできない」
──そんなクリエイターとして多忙を極めている2002年に、松尾さんは宮藤さん作・演出の「春子ブックセンター」に俳優として出演されました。“俳優・松尾スズキ”として記憶に残っていらっしゃることは?
とにかく大変だったという思いが強いです。最後に漫才もやらなきゃいけなくてその漫才がすごく大変だった。自分の喜劇役者としての限界に挑戦したというか、「どうやったら笑わせられるか」というメカニズムをただただ追求した感じでしたね。
──それは作家、演出家とはまた違う目線、違う感覚なのでしょうか。
違うでしょうね。演出どうこうってことは一切考えず、自分のことだけ考えていましたから(笑)。
──近年は「フリムンシスターズ」しかり、演出に徹してご自身が出演されない作品もありますが、松尾さんの俳優としての欲求は常に続いている感じですか?
まあ面白い役があれば、みたいなことですね。自分がやる価値があるか……ってそんな偉そうな意味ではないんですけど、いろいろなことをやっていかないといけない中で、今この役をやる意味があるかどうか、ということはすごく考えます。
──その中で、ウーマンリブ「もうがまんできない」にはご出演を決められました。
久しぶりの宮藤作品ですし、宮藤に言われたら出たいですから。稽古では“ウケる OR DIE”、ウケなかったら死ぬと思ってました(笑)。親子の悲しいエピソードもありますけど、一瞬一瞬の瞬発力が必要とされる作品で、年齢的にしんどかったといえばしんどかったです。
──「もうがまんできない」の公演は残念ながら中止となりましたが、今回テレビ放送用に再構成したバージョンが、WOWOWで放送されます。
収録では笑い声がないので、演じていて正直ちょっとわからない感じでしたね。また、2日間で撮り切るスケジュールだったので、最後は疲れ果てて……。やっぱり欲しいです、笑いは。
──(笑)。笑いというお話が出ましたが、松尾さんの作品では、障害者や外国人など社会的弱者の問題に焦点を当てつつ、その深刻さを笑いに昇華することが大切なのではないかと感じます。ただ、社会状況の変化に応じて笑いの質も変わってきたところがあり、その点を松尾さんはどのように感じていらっしゃいますか?
笑いが変化したというより、テレビのコンプラが変わっていったのだと思いますね。あとはネットによって相互監視社会化が進んで、「あそこでこんなヤバいことをやってたぞ」ということがすぐに拡散される。そういう社会の中で、かつて自分がやっていたような笑いができるような気はあまりしないんですけど……でも毎回、弱者を基準には考えています。強者が弱者を笑いにするのではなく、弱者同士とか、差別されている者同士を描き、そこで今まで笑ってはいけなかったものを笑いにするにはどうしたらいいかを考える。そのためには、弱者の中にも良いと悪いがあるってことをちゃんと見ていくことが、平等という考え方だと思います。また、例えば「俺も我慢しているからお前も我慢するのは当たり前だろう」という目線で、正義をとてつもない武器を手に入れたような感じで使っている方がいますが、正義は武器ではない。人と人がちゃんと生きるための手段が正義であるはずなのに、正義を武器にしてサディスティックに人を潰しにかかるのは、なんか違う。そこに縛られず、自由でいたいがために舞台を続けているところがあるんですよね。
放送をきっかけに、舞台表現の幅広さに触れてほしい
──今回お話を伺った作品は、初期の大人計画を代表する作品ばかりです。今から20年前と比べて大人計画の変化を感じるのはどんな部分ですか?
まあ、みんなプロになりましたね。僕の中で、大人計画はアマチュアリズムがいいところだと思っているんですけど、プロになって頼もしい反面、そういうところがなくなって、ちょっと寂しい気持ちもします(笑)。
──その点でも、90年代の大人計画作品が今こんなにたくさん観られるのは非常に貴重です。
そうですね。当時、どれだけの劇団が映像を残していたのか想像がつきませんけど、これだけ残っているのはありがたいです。僕だって、もし寺山修司さんやつかこうへいさんの若い頃の芝居が映像で残っていれば観たいですから。
──実際、今舞台が好きな人や演劇に携わる仕事をしている人でも、「一番最初に舞台を観たのは、劇場じゃなくて映像」という人は多いですよね。
僕もそうですよ。本多劇場のこけら落としで上演された「秘密の花園」(1982年、作・演出:唐十郎)で柄本明さんの演技を観て「舞台ってこんな表現ができるんだ!」って思ったのがきっかけだったりするので。だから今まで舞台に触れて来なかった人が、映像を観て「こんなにも自由な演技をしている俳優がいる、こんなに自由な表現をする場所がある」って気付くかもしれない。俳優の演技表現の幅って、映画を観てるだけではわからないと思うんですよね。放送を観てそこに触れて、芝居好きになったり、芝居を目指したりってことは、全然あり得ると思う。だから舞台作品を放送することは、やっぱり意義のあることなんだと思います。
──それが7カ月も続くとは本当にぜいたくですよね。
その間、僕にも著作料が入ってくるのかな? 入ってくると思いたいな(笑)。
- 松尾スズキ(マツオスズキ)
- 1962年12月15日生まれ。福岡県出身。1988年に大人計画を旗揚げし、1997年「ファンキー!~宇宙は見える所までしかない~」で第41回岸田國士戯曲賞を受賞。2004年に「恋の門」で長編監督デビュー後、2008年には「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」で日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞し、2015年には「ジヌよさらば~かむろば村へ~」が公開された。小説「クワイエットルームにようこそ」「老人賭博」で芥川賞にノミネートされるなど作家としても活躍。また、俳優としての出演作も多い。2019年に上演した「命、ギガ長ス」が第71回読売文学賞戯曲・シナリオ賞を受賞。2020年、Bunkamura シアターコクーンの芸術監督に就任した。10・11月にはCOCOON PRODUCTION 2020「フリムンシスターズ」の公演を控えている。
2020年12月25日更新