新国立劇場 シリーズ「ことぜん」Vol.2「あの出来事」瀬戸山美咲×谷岡健彦 対談|ここには、「わかり合えない」の果てが描かれている

言葉を軽く、余白を多く

──日本版の上演に向けてどんなところを意識されていますか?

谷岡 翻訳としては、できる限りスカスカにしたいなって。変な言い方ですけど余白があるというか、俳優さんの言い様によっていろいろな方向が開けるような翻訳にしたいなと思い、余白をなるべく広く作ってライブ感を出そうと思いました。稽古初日にも皆さんにお話したんですけど、「(原題が)『The Events』というくらいなので、作品というより毎回毎回の“出来事”になればいい」と思っていて。だからなるべく言葉を軽く、余白を多くしたいと思っていますし、その意図は瀬戸山さんも汲んでくれているはずです。

瀬戸山 そうですね。合唱団の方がいるとは言え、軸になるのは二人芝居ですから、どちらかが変わればどちらかも変わらざるを得ないし、カッチリ作るよりは毎日新鮮にやりたいなと。気持ちの流れを確認しながら、絶対、嘘をつかないで進めていきたいと思っています。それができるような台本であり、役ですし。生っぽい芝居にしたいなと思います。

──南果歩さん、小久保寿人さんにはどのような期待をしていますか?

左から谷岡健彦、瀬戸山美咲。

瀬戸山 果歩さんはポジティブな空気があって、“あの出来事”が起きる前の、いろんな人が集まる合唱団をやっているクレアのイメージとすごく重なるなと。なおかつ、クレアはいろいろなことをくぐり抜けなくてはならないけれど、果歩さんだったらそれを受け止めて、実感を持って演じてくれるのではないかと思いました。実際、稽古の中で作品全体や役に対して、本人の言葉で読み解いてくださるし、役としてガチッと演じるのではなく、ただ舞台上に“存在している”という居方をされるんですよね。それに合唱団の方たちにも気さくに話しかけて、和やかな雰囲気を作ってくださっています。小久保くんは、以前も一度ご一緒してて。

谷岡 そのときもテロリストの役だったね(笑)。

瀬戸山 そうでした(笑)。普段は楽しくて優しい人なんですけど、俳優となると人を殺しかねないみたいな空気が芝居から出てくるんです。そういう鋭さもありながら、ベースはすごくナイーブで繊細なものを演じるのが得意な人だと思います。今回は彼1人では抱えきれないほどいろんな役を演じなくてはいけませんが、ニュートラルな状態で舞台にいてくれるんじゃないかなと。

実際にウトヤ島の海を見て

谷岡 小久保さん、ウトヤ島に行ったって言ってたね。

瀬戸山美咲

瀬戸山 そうなんですよね。小久保さんとは別に、私も演出助手の城田さんとウトヤ島に行ったんですけど、行くまではやっぱりちょっと怖くて緊張していたのですが、本当に美しい島でした。この事件を巡って世界中から人が集まってきて、みんな海を見たり、森の中に佇んだりしながら話をしていて、すごく気持ちいい場所でしたね。実際にウトヤ島に行ってみると、ネガティブなイメージにとらわれてこの作品を作らないほうがいいなと思えましたし、ノルウェーの人たちもまたウトヤ島を、事件が起きた場所というより、愛や平和について考える場所として捉えようとしているんだって思えました。

谷岡 そもそも「あの出来事」では、物語の舞台をノルウェーではなくスコットランドに変えてフィクションにしているんですよね。ただ設定を変えているとは言え、事件からわずか2年後に上演された作品なので、デイヴィッド・グレッグは初演時、被害者を利用して作品を作っているのではないか、と批判もされているんです。

瀬戸山 合唱団の話になっているけれど、やはり現実との距離の取り方は難しいのだと思います。でもフィクションになったことである意味、世界中どこででも上演できる作品になっているのかもしれません。

──作品化にするには、2年はやはりかなり早いなと思います。

谷岡 難しいですよね。今の日本では、相模原の事件(相模原障害者施設殺傷事件)とか京都アニメーション事件が響き合うような気がします。

作品を開かれた場所に

──本作では、小久保さんが少年役のほか、何役も演じられることが見どころの1つです。役から役へ変わるとき、演出的にはどのようになりますか?

瀬戸山 クレアとの関係性が変わればお客さんもついてきてくださると思いますし、はっきり演じ分けるというより「今、誰かな」ってお客さんも考える余地が残せたらいいなと。政治家や少年の父親などいろんなタイプの人物が出てきますが、それぞれの内面を掘り下げることで違って見えてくるのではないでしょうか。それと今日稽古していて思ったのは「現代の男らしさの尺度上のある一点」というセリフがあって……。

谷岡 あれは難しいね。

瀬戸山 はい。それで言うと戯曲の前半に出てくる人たちは、“尺度上”にいる人たちなんですね。男らしさとか、食うか食われるかとかそういう尺度で世界を捉えていて、その線の上に自分はいると思っている人と、そこから落ちてしまったと思っている人が前半はたくさん出てくる。彼らはその尺度があるからとても苦しいんだなって。一方で、クレアがやっている合唱団はまったく違う価値観をこの世の中に提示している存在。そこが出会うということが面白いなと。

谷岡健彦

──台本で読む以上に、実際に俳優が動くことで納得できるシーンが多い気がします。

瀬戸山 そうですね。

谷岡 台本だけ読むと、シーンによっては「なんでこんなところで歌うんだろう」と思うところもあったのですが、実際に歌声を聴くと、確かに空気が変わるし、パッと華やいだ雰囲気になりますね。

瀬戸山 合唱団の人たちが観客の代弁者に見えるときもあれば、少年の後ろにいる人たちに見える瞬間もあって、ただそれをあえて際立たせる感じにはせず、ふとした瞬間にそう見えるようにできたらいいなと思います。それと今回、字幕について挑戦をしていて。多文化主義の合唱団が出てくるお芝居なので、客席にもいろいろな人にお越しいただけるようにしたいなと思っていて、日本語と英語の字幕を同時に出すんです。日本語を出すことって日本での上演ではあまりないことだと思うんですが、聞こえづらい人や外国の方のガイドになると思いますし、日本語以外の言語を話す方は日本にもいっぱいいらっしゃいますが、演劇を観る機会はあまりないそうなので、そういう方たちにも観てもらいたいなって。作品に字幕を出すことで開かれた状態を作りたいと思っています。

芸術で世界に足跡を残す─暴力ではなくて

──「ことぜん」シリーズ3作品は、すべて海外戯曲です。テーマ自体は、昨今の日本でも人ごとではない、残念ながらある意味近しいテーマと言えますが、日本の現状をそのまま描いた戯曲ではなく、海外のフィクションだからこそテーマが伝わりやすいところ、あるいは演劇だからこそ伝えやすいということはありますか?

谷岡  「あの出来事」のパンフレットにデイヴィッド・グレッグが寄せてくれた文章の中に、「この事件を描いてからも世界中に“少年”が現れて驚くような事件を起こしてきた」とあって。ボストンマラソンのテロだとか、日本だったらやっぱり相模原の事件とか、もっとさかのぼればオウム真理教の事件など、そんな突拍子もない、想像力を超えたような凄まじい事件というのがあるとき起きてしまうわけです。この戯曲の中で少年が面白いことを言うんですけど、「秩序が固定された世界に何か足跡を残したいと思ったら2つしかチョイスがない。それは暴力か芸術だ」と。少年はそこで暴力を選ぶんですよね。それに対してデイヴィッド・グレッグは芸術を選んだ。演劇だからこそ、固まった想像力を揺るがして世界の違う見え方、よりよい世界の見え方を提示できるんだとデイヴィッド・グレッグは言っているんです。デイヴィッド・グレッグはサラ・ケインと同じ大学で演劇を学んでいますが、サラ・ケインは処女作の「ブラスティッド」で世界の見方を変えました。デイヴィッド・グレッグも彼なりのやり方で、「あの出来事」でそれをやろうとしたのではないかなと思います。

瀬戸山 すごい、ちゃんとした答え!

谷岡 これくらい言えないとね、翻訳者としては。

一同 あははは!

瀬戸山 私は、少年がいろいろな役を演じるってことが小説や映像ではできないことだと思っていて。小久保さんの中に少年や政治家がいる、と言うのが面白いなと。

──確かに、ウトヤ島銃乱射事件をモチーフに映画が2本製作されていますが、「あの出来事」に比べるとサスペンスになると言うか、事件性をフィーチャーしているような印象を受けました。

瀬戸山 そうですね。「あの出来事」は、事件のことにとどまらず、「人間社会とは何か」という命題から始まっている気がします。人が集団になると何が起きて、どこにストレスが溜まっていって、それがいつ爆発するのか。例えば劇中で少年の生い立ちに思いを馳せるシーンがありますが、どこかの分岐点で彼に手を差し伸べる人がいたら、彼の存在に寄り添う人がいたら、こういう結果にならなかったもしれないし、また私たち自身だっていつそうなるかわからないなと。だから少年が突然変異なのではなく、少年は社会から生まれてきた存在なのだということ……そういったレベルから、「人間社会とは何か」「文明とは何か」「動物とは何か」を問いかけていると思います。

左から谷岡健彦、瀬戸山美咲。