情に厚い師匠・五世鶴澤燕三、長年タッグを組んだ豊竹咲太夫への思い…三味線弾き・鶴澤燕三が語る「令和6年5月文楽公演」 (2/2)

「令和6年5月文楽公演」Aプロの見どころは

──「令和6年5月文楽公演」Aプロでは、「寿柱立万歳」、そして豊竹呂太夫さん改め十一代目豊竹若太夫さんの襲名披露口上と、襲名披露狂言「和田合戦女舞鶴」より「市若初陣の段」、そして「近頃河原の達引」より「堀川猿廻しの段」「道行涙の編笠」が上演されます。それぞれ、燕三さんのご視点での、ポイントを教えていただけますか。

「寿柱立万歳」は、ご祝儀曲。新・若太夫を祝う、という意味合いが込められていると思います。文楽の襲名披露口上は、襲名する本人は一言も発さず、司会者と、舞台に並んだゆかりの技芸員たちがあいさつをするのですが、今回はその話が非常に面白いと思います。お聞き逃しなく(笑)。「和田合戦」は、私は勤めたことがないので、あまり大きなことは言えないのですが、我が子殺しの悲惨な話ではありつつ、非常に派手な手で聞かせるので、親子の情愛を感じ取ってもらえると思います。「近頃河原の達引」の「猿廻し」は、うちの師匠いわく“世話物の九段目”。「仮名手本忠臣蔵」の九段目と同様に、一番難儀で大変な曲、という比喩なんですね。素浄瑠璃でやっても見事な素晴らしい曲ですし、特にラストは三味線の独壇場で、音の洪水になりますから、ぜひ客席で浴びていただきたい。

新・若太夫との思い出と、師匠の涙

──「令和6年5月文楽公演」は、豊竹若太夫さんの、東京での襲名披露となります。若太夫の名跡が復活するのは、新・若太夫さんの祖父である十代目若太夫さんが1967年に亡くなって以来、57年ぶりのことです。若太夫さんとは、どのような思い出がありますか。

本当に勉強熱心な先輩です。本公演でももちろん組んだことがありますし、私達が若手の頃に大阪で行われていた「若葉会」という若手発表会でも、何度かご一緒しました。当時は、若太夫さんが英太夫を名乗られていて、私も燕二郎だった時代ですね。記憶に残っているのは、「若葉会」に私が初めて出たとき。「若葉会」は、太夫と三味線の組み合わせがランダムなのですが、若太夫さんは、誰と組んだとしても「国性爺合戦」の「楼門の段」をやろうと決めていらっしゃったみたいで。英太夫・燕二郎ペアに決まったとき、すぐに「燕二郎くん、俺、楼門をやりたいねん」と言われたんです。でもね、「楼門の段」って、文楽に入ってすぐの、二十歳そこらの若造には難しい、大変な曲なんですよ(笑)。燕三師匠の家に戻って、「『楼門』だそうです」と師匠に伝えたら、「そりゃ、えらいこっちゃ!」と、すぐに稽古に入りました。実際に稽古が始まると「これは大変なことになった」と痛感しました。師匠も一生懸命稽古してくれて、割ときっちり覚えることができたんです。師匠の前でわーっと弾いたら、師匠が「よう覚えた」ってまた泣いて(笑)、なんとか無事に舞台を終えることができました。若太夫さんにあとで聞いたら「『楼門』が駄目だったら、もう文楽を辞める」という覚悟だったらしいです。ほんまかいな、と思いながらも(笑)、文楽に入りたての若い時期にそういった大曲をやらせていただけたのは、良い経験でした。

2024年4月上演の「令和6年4月文楽公演」より、豊竹若太夫。(提供:国立文楽劇場)

2024年4月上演の「令和6年4月文楽公演」より、豊竹若太夫。(提供:国立文楽劇場)

──研修生時代の「妹背山婦女庭訓」の道行、弟子入り後の「国性爺合戦」の「楼門」と、師匠である五世燕三さんの熱い指導のお話が出ましたが、五世燕三さんはよく泣かれる方だったのでしょうか?

いえ、私の前で泣いたのは3回だけです(笑)。残りの1回は、1987年。師匠が国立劇場9月文楽公演で「競伊勢物語」の「春日村の段」の切をやることになり、舞台稽古のために東京に移動後、お風呂に入っていたら、右手の中指の腱が切れちゃったんです。それで師匠から夜中に「バチ握られへん」って電話がかかってきて。急いで師匠が泊まっていた宿舎まで行くと、包帯でぐるぐる巻きの指を「こんなんやで」って見せられました。結局、ほかに引き受けてくださる人が見つからなくて、代役が私に回ってきました。「春日村」は滅多に上演されないし、最後にはお琴も入るし、節も複雑で覚えにくい、大変な曲。私は完全に油断していて、「春日村」の勉強を全然していなかったので、本番まであと3日というスケジュールだったのですが、その日からほぼ寝ず、夜通しで稽古をしました。太夫がトップクラスである竹本住太夫師匠だったこともあり、迷惑をかけられない、という思いもありました。幸い、師匠は手を怪我しただけだったので、稽古はつけてくれたのですが……「初日には(三味線の手を書いた)本を離せ」って言うんです。いくら稽古をしても、全然時間が足りなくて。「もう無理だ!」と初日前日の夜中に「初日だけ本を見させてほしい」と師匠に電話したら、「あかん」とガチャンって電話を切られた(笑)。これはもう覚悟を決めないと駄目だな、と、翌日の本番までほとんど寝ずに稽古を続けました。それで、本番ではなんとか間違えずに弾けたんですよ。本当に無我夢中で、お琴は鶴澤藤蔵くん(当時:鶴澤清二郎)だったんですけど、藤蔵くんが出てきてくれたときは、「アア、あと琴唄の間は任せられる!」と、心底ほっとしましたね。ちなみに師匠は、最初は裏で私の演奏を聞いていたのですが、あんまりに間違えないから、「これは本を見ているに違いない」と思ったようで、わざわざ舞台の反対側にまわって確認したらしいんですよ(笑)。ようやく「春日村」が終わって、盆が回って舞台裏に戻ると、ボロボロ泣いている師匠が立っていました。それが、3回目ですね。

鶴澤燕三

鶴澤燕三

三味線とF1の共通点

──舞台では、三味線のたった3本の弦から、三味線弾きの技術によって、多様な音色が出ていることに驚きます。

三味線が鳴るか鳴らないかは、皮の張替えや弦の架替え、それからセッティング次第ですね。胴と棹の接合部に、角穴とりんどうという穴があるのですが、それぞれにヘギと呼ばれる薄い板を数枚噛ませていて、そのヘギの上げ下げによって、胴と糸の高さや、胴と棹の角度が全部変わります。皮は定期的に張替えますが、張替えは博打のようなもので、鳴らない皮にあたると、どうセッティングをがんばっても鳴らないんです。私はF1が好きでよく見るんですけど、車もセッティングがハマらないとあっちこっちいじり倒さないといけないし、それでもハマらないときは、何をどうやっても走らない。「なんでや!」って思うんですけど(笑)、三味線も同じです。うまくいかないときは、1日調整し続けても、うまくいかない。でも作りが良い三味線で、セッティングもぴったりハマると、良い音がするうえに、非常に弾きやすい。F1の車もそうらしいのですが、セッティングがうまくいくと、三味線も糸(弦)が全然傷まないんですよね。よどみなくきれいに三味線を鳴らしている人がいたら「セッティングに成功したんだな」と思ってもらえれば(笑)。

──三味線は、すべて私物でしょうか。

そうですね。複数所持しています。師匠から受け継いだものもあれば、自分で購入したものもあります。購入し始めは鳴らなくて30年越しでようやく鳴るようになった三味線もありました。そういう苦労や面倒があり、手間のかかる楽器ではありますが、それも含めて楽しい、面白いと感じています。

太夫と三味線弾きは、豊竹咲太夫いわく“野球のバッテリー”のようなもの

──「太夫と三味線弾きは夫婦のような関係」と言われることもありますが、燕三さんにとって、太夫さんはどのような存在でしょうか。

先日、お亡くなりになられた咲さん兄さん(豊竹咲太夫)は、「太夫と三味線は、野球のバッテリーみたいなもんや」としょっちゅうおっしゃっていて、それはたとえ話として非常に理屈が通っているなと思いました。太夫がピッチャー、三味線がキャッチャーで、ものすごい剛速球を投げる太夫もいる。また、変化球が得意な太夫も、暴投もあればピタッと投げる太夫もいて(笑)、太夫というのは、割と自由に語るイメージがありますね。一方で三味線は、太夫があまり道を外れないように補佐したり、サインを出したりする役割。もちろん自己主張もしますが。私生活でも、夫婦のように非常に仲の良い太夫と三味線もたまにいますが、咲さん兄さんとは私生活ではほとんど付き合いがなく、あえて一線を超えないようにしてくれていたのを感じていました。

2014年5月上演の「女殺油地獄」より「豊島屋油店の段」の豊竹咲太夫(左)と鶴澤燕三。(提供:国立劇場)

2014年5月上演の「女殺油地獄」より「豊島屋油店の段」の豊竹咲太夫(左)と鶴澤燕三。(提供:国立劇場)

──咲太夫さんとは、2004年頃から多く舞台をご一緒されてきました。どんな“球”を投げられる太夫さんだったのでしょうか。

変化球もありますし、時々とんでもない球もありました(笑)。最初はついていくのが大変でしたが、非常に稽古のお好きな方だったので、ありがたかったですね。例えば、ご自身はよく知っていて慣れている曲でも、私が初役のときは、半年以上前から「いっぺんやっとこうか」と、私が何も考えず弾けるようになるまで稽古に付き合ってくださった。稽古は非常に理性的で、常に穏やかでしたね。ただ、組んで最初の頃に困ったのは、咲さん兄さんが若い頃、大変な薫陶を受けていた竹澤弥七という昭和の大名人と頻繁に比べられたこと(笑)。「弥七師匠はこうだった」「弥七師匠はこういうふうに入ってきた」とおっしゃるんですけど、そう要求されても、同じようにできるわけがない。弥七師匠とは修業が違いますし、かいくぐってきた修羅場の数や、経験値が違いすぎるので、無理な話でした。

──それは、燕三さんへの大きな期待があったからこそでしょうね。咲太夫さんと勤めた舞台で、思い出に残っている演目があれば教えてください。

やっぱり、咲さん兄さんが受け継いでこられた近松ものですね。咲さん兄さんのお父さんである八世竹本綱太夫さんがお得意とされていた「冥途の飛脚」の「淡路町」、「心中天網島」の「紙屋内」と「大和屋」、近松もの以外ですと、「義経千本桜」の四の切など。

──師匠の五世燕三さんが、初舞台前の燕三さんに教えていた曲ばかりですね。

師匠の、「役がついたときに勉強したのでは遅い」という教えが、身に染みてわかりました。師匠のありがたさや、先人がこしらえてくれた素晴らしい曲に対するありがたさ、そしてそれをきっちりと引き継いでいる咲さん兄さんの三味線を弾けるありがたさを感じながら、弾いていて楽しく、幸せでした。

鶴澤燕三

鶴澤燕三

結局は自己責任

──研修所出身の鶴澤燕二郎さんをお弟子さんに迎えられるなど、後進の育成にも力を注がれています。ご自身は、どのように三味線の勉強をされてきましたか。

先輩方の芸を聴く、というのが最大の勉強でした。師匠は、よく「テープより生の舞台のほうが勉強になる」「テープは、聴いても自分の技量以上のことは聴き取れない」とよくおっしゃっていました。当時は、竹本津太夫師匠、竹本越路太夫師匠、竹本南部太夫師匠、三味線だと鶴澤重造師匠や野澤吉兵衛師匠、野澤錦糸師匠、それにうちの師匠と、名人の方々がたくさんおられましたから、師匠の出番が終わったあとも、劇場に残ってずっと聴いているのが楽しかったですね。聴いていて「俺もこう弾きたい」と思って、床裏で朱を入れて、家に帰って弾いてみるんですけど、聴くと弾くとは大違いで、全然うまく弾けないんです。まあ何もかも違うんですけど、どこが違うのかを考えるのも、良い勉強でしたね。

──後進の教育については、どのように考えられていますか。

この世界に入ってきてくれただけでもありがたいですし、技術をどんどん身につけてほしい、という気持ちはあります。ただ、どこの世界も同じですが、結局は自己責任なんですよね。僕らも、教えてほしいと言われたらいくらでも教えますけど、無理やり教えるということはしません。どこまでこの世界にのめり込めるかは、その人次第。役がつかないからといって腐らずに、役がついてから勉強するのでは遅いという考えで、勉強していってくれたら、と思います。

鶴澤燕三

鶴澤燕三

プロフィール

鶴澤燕三(ツルザワエンザ)

1959年生まれ、神奈川県出身。1977年に国立劇場第4期文楽研修生となる。1979年の研修終了後は五世鶴澤燕三に入門、鶴澤燕二郎を名乗る。同年朝日座で「艶容女舞衣」より「道行霜夜の千日」で初舞台。2006年、「ひらかな盛衰記」の「松右衛門内より逆櫓の段」で六世鶴澤燕三を襲名。2013年に日本芸術院賞、2021年に紫綬褒章を受章。