再整備のため、2023年10月より閉場中の国立劇場だが、主催公演は東京各地で行われている。閉場後、3弾目となる文楽公演「令和6年5月文楽公演」は、2023年12月の「令和5年12月文楽公演」「令和5年12月文楽鑑賞教室」の会場にも使用された、東京・シアター1010で開催される。本公演はAプロ・Bプロの2部制で実施され、Bプロでは時代物の名作「ひらかな盛衰記」の初段から三段目までを上演。二段目の「楊枝屋の段」が上演されるのは、なんと1988年以来のこと。ステージナタリーでは、「楊枝屋の段」の三味線を担う鶴澤燕三にインタビューを実施した。公演の魅力のほか、師匠である五世燕三、Aプロで自身の襲名披露を行う豊竹若太夫、また2024年1月に死去した豊竹咲太夫との思い出も聞いた。
取材・文 / 櫻井美穂撮影 / 熊井玲
帰国子女の鶴澤燕三が、文楽・三味線の道に進むまで
──燕三さんは、国立劇場第4期文楽研修生となったあと、三味線弾きになられました。小学校5年生までハワイにいらっしゃったとのことですが、三味線に興味を持たれるまでの音楽歴を教えていただけますか。
ハワイでは、現地の小学校に通っていたのですが、ウクレレが必須科目。4弦なので、三味線とは違うんですけど、友達とウクレレバンドを結成したりしていましたね。日本に帰国後は、神奈川県の葉山に住んでいたのですが、近所の御霊神社で囃子方を募集しており、興味を持って笛方で入りました。三味線に出会ったのは、高校3年生の12月の冬休み。本来は大学受験の追い込みの時期でしたが、大学は諦めていたので(笑)、ぼーっとNHKの教育テレビを観ていたところ、三味線の特集番組がやっていたんですよ。三味線は細棹、中棹、太棹と種類がいくつかあるのですが、細から太まで網羅していたうえに、義太夫節も紹介されていて。三味線を聴いたのはそのときが初めてだったんですけど、非常に興味を持ちまして。それで、3学期が始まったときに、友達に「三味線って面白いよな」という話をしたら、その友達が、自分の母親が通っている民謡教室を紹介してくれて見学に行きました。その教室では、民謡歌手の鳴海重光先生が講師を務められていたのですが、見学時、重光先生が私に興味を持ってくださって。重光先生は逗子にお住まいで、ご自宅で教室もやられていた。「もしやりたいんだったら、うちに稽古に来なさい」と言われ、私も、逗子だったら自転車で行けるので、通うことにしました。当時は、両親が香港に赴任していて、葉山の家では子供たちだけで生活していたのですが、「三味線教室に通う」と言ったら、一番上のノリの良い姉が「じゃあ三味線を買おう!」と、三味線一式を買ってくれました。
民謡教室は、すごく楽しかったですね。若かったからか覚えもよくて、「三味線で飯が食えたら、大学に行かなくてもいいな」と考えるぐらい、三味線に夢中になりました。ただ、民謡の大会に観客として観に行ったとき、「どうもこの世界は肌に合わんぞ」と。そんな折に、大学で淡路の人形浄瑠璃を研究していたいとこが遊びに来て、私の話を聞くとすぐに「国立劇場で、文楽の研修生を募集しているよ」と国立劇場に電話してしまったんです。電話口に出た職員の方と話している間に、あれよあれよという間に翌日国立劇場に見学しに行くことになりました。文楽との出会いは、その見学が初めてです。三味線の音色自体もまったく違って、「同じ三味線なのに」と驚きました。入所すると決めて、重光先生にあいさつに行ったところ、「そっちでがんばりなさい」と背中を押してくださいました。
師匠・五世鶴澤燕三はとっても“人情家”
──国立劇場第4期文楽研修生となり、文楽の三味線の勉強がスタートしました。当時の授業は、どのような形式でしたか?
1時限が大体45分から50分ぐらいで、それが午前に2時限、午後に2~3時限ありました。午前と午後では講師が異なり、それぞれ違う曲を習いました。授業は厳しいですし、とにかくスピードも早く、恐ろしい世界に来てしまったなあと実感しました。師匠となる五世鶴澤燕三も、その講師の1人でした。
──弟子入りの決め手を教えていただけますか。
研修生のときに、養成課から突然「既成者研修発表会に出なさい」と言われまして。弾くのは、「妹背山婦女庭訓」の道行。後半は稽古をしていただいていなかったので知らなかったのを、担当講師だった師匠が「わしが稽古したる」と面倒を見てくださって。文楽の三味線は、“朱”と呼ばれる楽譜はありますが、舞台に出るときは基本的に暗譜です。師匠の稽古方法は、まず自分がその曲を弾いて、次に一緒に弾いて、最後に弟子だけが弾く、というスパルタ方式。教えてもらって、家でも猛特訓し、翌日師匠の前でなんとか間違いなく弾けたんですよ。そうしたら師匠が固まってしまって。どうしたんだろう、と顔を見たら、師匠のメガネの奥の目から、涙がバーッとあふれてきて……「よう覚えた」とえらい褒めてくれたんですよ。そのときに「この人についていきたい」と思いました。周囲からは「燕三さんは厳しいからやめとけ」と止められましたが、稽古が厳しいのは当たり前ですし、師匠はすごく人情家だと感じていました。弟子入り後も、その印象は変わらなかったですね。師匠は、お子さんが3人いらっしゃいましたが、私のことも実の子と同じように扱ってくださって、“張出し長男”と呼ばれていました(笑)。
──弟子入り後は、どのような修業を積まれましたか。
弟子入り後も、研修生時代と同じ稽古方法を、私が初舞台を踏むまで続けてくださいました。当時は、師匠の家から徒歩5分の、阪大の学生寮みたいなアパートに住んでいて、そこから通っていました。師匠のご自宅に朝行ってお掃除して、三食食べさせてもらって、お風呂もいただいて帰る……という生活をしていました。夜にアパートに帰ると、住人の大学生たちが夜通し麻雀をやっていてうるさかったんで、気兼ねなく三味線の稽古に没頭していたら、「うるさい!」と怒鳴られて、「どっちがだよ」と思ったり(笑)。
稽古は、朝食後にしていただきました。稽古では、「冥途の飛脚」の「淡路町の段」、「心中天網島」の「天満紙屋内の段」、「義経千本桜」の四の切(「河連法眼館の段」)といった、文楽に入りたての人間に絶対に(役として)つかないような大曲を教えてくれました。師匠からは「こういうもんは、役がついてから稽古していたんでは遅い。若いうちに覚えとけ」と。でも稽古をしていただいているうちに、言葉を目にするだけで音が浮かぶようになりました。あとから考えると、自分には必要な稽古だったように感じています。
1988年以来の「楊枝屋の段」に出演
──「令和6年5月文楽公演」は、2019年以来、約5年ぶりの2部制となります。Bプロでは、時代物「ひらかな盛衰記」より、木曾義仲の敗死や、その妻子の流浪を描く「義仲館の段」「楊枝屋の段」「大津宿屋の段」「笹引の段」「松右衛門内の段」「逆櫓の段」が上演され、燕三さんは、1988年を最後に、これまで上演されることのなかった「楊枝屋の段」にお出になります。
「ひらかな盛衰記」は、親子の情や忠臣たちの活躍が描かれますが、「楊枝屋の段」では、御台若君と共に楊枝屋に逃げてきた腰元・お筆と、その楊枝屋を隠れ家にしていた、お筆の父・鎌田隼人の忠義が描かれます。ストーリーに絡んでくる、長屋の家主が非常に面白いキャラクターなので、そこに注目してほしいのと、若君を逃がすために、楊枝屋のマスコットである猿に若君の衣裳を着せることで、追っ手である番場忠太たちに取り違えさせる、という趣向もあり、お客様にはちょっとしたチャリ場(滑稽で笑いを誘う場面)として楽しんでいただけるかなと思います。動物が出てくると、それだけで面白いですよね。
調べてみると、「楊枝屋」は1914年以来上演されていなくて、1970年に国立劇場で復活上演されたのが、久しぶりだったようです。このときの復活上演とそのあとの上演(1979年)の三味線は鶴澤叶太郎師匠でしたが、文章量や三味線の手数が変わっているんですね。復活上演時は、ちょっと派手な節がついているんですけど、そのあとの上演時は、分量が減って、曲も地味になったんです。それは、やっぱり場面がボロボロの長屋だから、それに映るよう変えたんだろうなと。叶太郎師匠は、復活に際し、たくさんの本を読まれて参考にされていたと思うので、叶太郎師匠の資料も読んで勉強し、5月の上演に挑みたいですね。
──今回、一緒に「楊枝屋の段」を演奏する豊竹靖太夫さんとは、どのように息を合わせていきたいですか。
とにかく2人で稽古をするだけですね。繰り返しやっているうちに、ある形には収まると思います。ただ、彼の声質には非常にあった段だと思いますので、あんまり心配はしていません。
「ひらかな盛衰記」は浄瑠璃好きにはたまらない名曲ぞろい
──燕三さんは、これまで「ひらかな盛衰記」では「大津宿屋の段」「笹引の段」「松右衛門内の段」「逆櫓の段」「奥座敷の段」と、さまざまな場面を経験されていらっしゃいます。「松右衛門内の段」は、ご自身の襲名披露でおやりになった段でもありますが、作品全体の魅力についてはどのようにお考えですか。
「ひらかな盛衰記」は、本当に名曲ぞろいで、浄瑠璃好きにはたまらない演目なんですよね。初めての方でも全体を通して、聞きに来て寝てしまう、ということがほぼないと思います。それぐらい、ストーリーの展開も早いですし、曲もお客様を飽きさせない。「大津宿屋の段」から「笹引の段」では、若君が首をはねられたと思ったら、それは宿で取り違えられた船頭の孫だった……という「そんな偶然あるんかい!」という筋の面白さもあります(笑)。
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「令和6年5月文楽公演」Aプロの見どころは