岡田利規×瀬戸山美咲×楫屋一之が語る「かながわ短編演劇アワード2022」|この時代を乗り切った人たちの表現を

審査員は“新しさ”を評価できるか

──公式サイトで発表されている応募要項(参照:かながわ短編演劇アワード2022)では、審査基準について、「演劇コンペティション」では“実験性やオリジナリティが感じられるもの”、“これまでの演劇観にとらわれない方向性が感じられるもの”、「戯曲コンペティション」では募集テーマに加え、“社会性や時代性が感じられるもの”、“表現に独自性を感じられるもの”、そして共通して“これからの活躍や発展が感じられるもの”が掲げられています。

左から楫屋一之、瀬戸山美咲、岡田利規。

楫屋 「かながわ短編演劇アワード」は今回が3回目になりますが、このコンペティションで考えたいのは“新しい演劇って何だろう?”ということなんですね。僕自身、今の時代でしか捉えることのできないテーマ性や表現方法を持ったパフォーマンスが観たいと思っていて、その思いはコンペをやっていくうえでも持ち続けたいと思っています。岡田さんと瀬戸山さんは、それぞれ常に「自分にとって、今やるべきことは何か」を考え、その点で非常に突出した表現をされてきた方だと感じていますが、そんなお二人にとって、“新しいもの”とはどういうことを指すのでしょうか?

岡田 楫屋さんが今おっしゃった、このアワードを通して新しい演劇とは何かというのを考えたいということ、それは理念としてはとてもよくわかります。このコンペを通してそういうものを見出す、そのメンバーの1人になれたらすごくうれしい。でも実際にそうしたことがこれまでの「かながわ短編演劇アワード」で、果たして起こったかというと、僕はそこは疑問です。まず、僕は新しさというものを評価できているのか、そこが何より心もとない。自分が“良い”と思うものを評価しているということ、これは確実にやっていると言えます。でも“新しい”という評価軸を自分がもとにして審査しているかというと、そんなことはないと思う。それはなぜなのか。僕が“新しさ”という基準や定義を持ってないからなのか、新しいものを良いと思える感性を持ち合わせていないからなのか、あるいは、それは僕の側のというよりも応募作品側の問題なのか。

瀬戸山 私も岡田さんと同じく、新しさが何なのかってことを実は全然わかっていなくて。自分が作品を作るときも、新しさってあまり意識したことがないですし、もちろん自分にとって今までやったことないことがないことをやってみたいとは思いますが、“新しいものを作ろう”というところからはスタートしないので……。たぶん、書く人や作品を作る人たちにとって、“新しさ”からスタートするのはなかなか難しいんじゃないかなと思います。

と言いつつ、岡田さんの作品が登場したときは、正直本当に「新しい!」と思ったんですね(笑)。それまで自分が観てきた演劇と違うものが出てきたと感じましたし、「演劇ってこんなにまだいろんなことをやれるんだ!」と毎回気付かせてくださるので。とは言え、岡田さんの新しさはそれまでの岡田さんのさまざまな積み重ねの中から生まれた1つの答えだと思うので、今回応募される方たちも、自分たちの積み重ねの中からしか新しい挑戦は生まれないんじゃないかなと思います。

左から楫屋一之、瀬戸山美咲、岡田利規。

私が思う“良い”作品とは?

──「演劇コンペティション」第1回ではモメラス(参照:「かながわ短編演劇アワード」演劇コンペ、グランプリはモメラス「28時01分」)、第2回では安住の地(参照:「かながわ短編演劇アワード2021」グランプリは安住の地「ボレロの遡行」)がグランプリを、「戯曲コンペティション」第1回では大竹竜平さん(参照:「かながわ短編演劇アワード2020」戯曲コンペ、大賞は大竹竜平「瞬きのカロリー」)、第2回では村田青葉さんが大賞を受賞しました。受賞作はいずれも、演劇とは何か、ドラマとは何かを問い直す、実験的な作品でした。

楫屋 さきほど岡田さんは、審査員として作品をジャッジするときに「良い作品を選ぶ」という点について自信があるとおっしゃいました。改めて、お二人にとって“良い”パフォーマンスとはどういうものなのでしょうか?

岡田 そんな難しいことを聞きますか(笑)。うーん……演劇の用いる二大要素が言葉と身体であるとしましょう。だとすると演劇においては、ある言葉の書き方、身体の使い方、言葉の発し方が選び取られる。なぜそれを選び取ったか。その根拠とか、それを選び取ったことによるパフォーマンスの良し悪しの判断基準が作り手の中に確固としてあれば、そして作品が作り手自身のその判断基準をクリアしたものであれば、たぶんそれは“良い”作品のはず、と僕は思います。

瀬戸山美咲

瀬戸山 岡田さんの意見に近いかもしれないですけど、戯曲の審査に関して言うなら、何かその人の狙いがあって、その狙いを最大限生かせる構成や形式を選んでいるという作品が、“良い”作品なのではないでしょうか。具体的な話になりますが、ここ数年、海外の最近の戯曲を演出することが多くて、それぞれかなり新しい戯曲なので、演出するときに批評的な目線で取り組むというより、ちゃんと日本語に翻訳して、稽古場でみんな一緒に考えよう、という感じでやることが続いているんです。そういう戯曲は、どれもみんな、狙いと形式がすごくよく合ってるんですね。例えば2019年に演出した「あの出来事」(参照:新国立劇場 シリーズ「ことぜん」Vol.2「あの出来事」瀬戸山美咲×谷岡健彦 対談)という作品は、ノルウェーのウトヤ島で起きたテロからインスピレーションを得てスコットランドの作家デイヴィッド・グレッグが書いた作品ですが、テロの加害者の青年と、テロのサバイバーの女性が出てきて、女性の目線でなぜ彼がテロを起こしたのか、いろいろな人に会いながら検証し、自分の魂を取り戻していく話で、女性が出会うすべての登場人物を、その青年役の俳優が演じる構成になっています。それは、女性がテロのショックで、すべての人間が“彼”に見えてしまうようにも感じられるし、実はすべて現実ではなく彼女の脳内で起きていることにも感じられて、社会的な問題を個人のレベルで捉えられるような構成になっているんですよね。その描き方はすごく面白いなと思いました。

観客に“変化”を起こさせる作品を

楫屋 瀬戸山さんは、日本の作家の中では比較的政治的なことや事件性が強いことを積極的に作品のテーマにしていると思いますが、それは何か戦略があってそうしているのか、それとも自分の意識としてそちらに引かれるのか、どちらなんでしょう?

瀬戸山 戦略はなくて、そっちに行っちゃうから書いているんだと思います。逆に、そういうものがまったくないものは書けないというか。でも岡田さんの作品にこそ現代を批評する目線を強く感じていて、自分はちょっとダイレクトにやりすぎだなって思うこともあります。

楫屋 なぜダイレクトに書くのですか?

瀬戸山 それはおそらく、私がもともと雑誌のライターをやっていたので……。

岡田 そうなんですか?

楫屋一之

瀬戸山 はい。取材をして、それをルポとして書くみたいなことをやってきたので、生身の声の面白さみたいなものに惹かれるというところがありますね。ただそれだけではやっぱり演劇にならないと思うので、ほかの人の戯曲を演出しながらルポルタージュと戯曲の違いを意識化したいという気持ちでやっていて。なので、もうちょっと抽象化して書けるようになりたいし、演出の形態ももっと考えたいと思っているところです。

楫屋 “新しさ”についての問いかけに戻りますが、僕は制作者として、観賞者が観たいものを選び、それを提供する場を与えるのが仕事だと思っています。かつ、自分自身を観賞者の代表だと思っていて、観賞者である自分が一番観たいものは何かと言うと、自分の身体感覚が明らかに刺激されて“変化した”と感じられる一瞬が持てるものなんですね。そういう点で、岡田さんや瀬戸山さんの作品にはその瞬間が起きる可能性が極めて高いと感じています。

岡田 それを観る前と後で自分が変わったと、どんなに小さなレベルでも感じられたものは、観るに値したなと思う。そういうものを観たいと願うというのは僕も完全に一緒です。それでいえば新しさというのは、作品そのものにあるかどうかということではなくて、それを観た自分が新しくなったと感じられるかどうかだということになりますね。