第20回AAF戯曲賞 白神ももこ×やなぎみわ×小野晃太朗×三野新|価値観が大きく変わる時代にこそ、名作が生まれる

「戯曲とは何か?」をテーマに掲げ、上演を前提とした戯曲を募集する愛知県芸術劇場のAAF戯曲賞。第20回を迎える今年度の開催を前に、本特集では、2018年の第18回から審査員を務めてきたやなぎみわ、2019年の第19回より新たに審査員に加わった白神ももこ、第19回で大賞を受賞した小野晃太朗、特別賞を受賞した三野新によるリモート座談会を実施した。新型コロナウイルスに伴う政府の緊急事態宣言が解除され、約1カ月が経った6月下旬、Zoomを介して集まった4名が、自粛期間中に考えていたことや、これからのクリエーション、時代の転換期における戯曲について語り合った。

取材・文 / 川口聡

AAF戯曲賞とは?

第20回AAF戯曲賞募集チラシ

2000年にスタートした、愛知県芸術劇場が主催する戯曲賞。大賞受賞作の上演を前提とし、2015年の第15回からは「戯曲とは何か?」をテーマに掲げている。第15回は松原俊太郎の「みちゆき」、第16回は額田大志の「それからの街」、第17回はカゲヤマ気象台の「シティⅢ」、第18回は山内晶「ちた蔓延はびこる」、第19回は小野晃太朗「ねー」が大賞を受賞。本年度の第20回では7月31日まで戯曲の募集が受け付けられる。10月上旬に一次審査通過作品、11月中旬に二次審査通過作品を発表。2021年1月10日には最終審査会が公開形式で実施され、その模様はYouTubeで生中継される。

また11月7日から9日にかけて、第18回AAF戯曲賞受賞記念公演「朽ちた蔓延る」が愛知県芸術劇場 小ホールにて上演予定だ。

第20回AAF戯曲賞 審査員

  • 白神ももこ ©北川姉妹

    白神ももこ

  • 鳴海康平 ©松原豊

    鳴海康平

  • 羊屋白玉 ©Sakiko Nomura

    羊屋白玉

  • 三浦基 ©Hisaki Matsumoto

    三浦基

  • やなぎみわ

    やなぎみわ

白神ももこ×やなぎみわ×小野晃太朗×三野新 座談会

戯曲の在り方はより自由になっていく

──6月現在、政府の緊急事態宣言は解除されましたが、舞台芸術分野では、劇場や稽古場に人が集まりにくい状況が続いています。皆さんは最近どのように過ごされていますか?

やなぎみわ 5月末に上演するはずだった野外劇が1年延期になったのですが、先日、久しぶりにスタッフと集まって合宿をしました。大きな倉庫に足場を組んで、音響や照明、映像のプロジェクションや巨大なロボットの舞台装置を動かす実験をして、今ちょっと筋肉痛です。これからリモートでの稽古が始まりますが、リモートでは、それこそ筋肉痛やら暑さ寒さは共有できないですし、私は自宅にいて、演出助手や演者はみんな海外の稽古場にいるので、私を置き去りに作品ができあがってしまいそうで怖いですね(笑)。自粛期間中の自宅待機に関しては、私は1人でも個人制作をしているので、ほとんど苦ではなかったです。

白神ももこ 私は埼玉の富士見市民文化会館キラリ☆ふじみで芸術監督をさせていただいているのですが、今は7月に実施する親子向けオンライン企画のカメラワークの実験をしたりしています。映像の生配信は、私にとっても劇場にとっても初めてのことばかりで、当日もドタバタ感が出るかもしれませんが、“オンラインだけどアナログ”という空気感でやれたらと思っています。

小野晃太朗 自粛期間中は、ずっと部屋にいなきゃいけない状態だったので、友達のアーティストとオンライン上で集まって何かしらを作って共有するということをしていました。部屋の中からアクセスできる範囲で作ったものを、世の中が安定したときに持ち寄って、また一緒に作る約束をしていて。それが今の僕にとっては希望かもしれません。最近ようやく外で打ち合わせをするようにもなりました。

三野新 僕もコロナの影響で止まっていた企画や展示があったのですが、6月に入ってから一気に動き出しました。今は建築の設計を演劇として考えるプロジェクトに関わっていて、神奈川県の海老名に滞在しています。演劇は不特定多数の人が集まって作られ、作品を観賞するために劇場にも人が集まるわけですが、政府からのマスク配布も世帯単位で数が決められていたりして、自粛期間中に“家族”という単位について考えることが多かった。今回のプロジェクトでは、役者やアーティストと一緒に長屋に住んで家をリフォームしていくのですが、その集団を“家族”と捉えて生活を共にしていて。その中で考えられること、生活の記録、物語のようなものを拾って図面にするということをやっています。

リモート座談会の様子。上段左から小野晃太朗、白神ももこ。下段左からやなぎみわ、三野新。

──皆さんそれぞれ、プロジェクトが徐々に動き出しているんですね。一方で、今回のコロナ禍を受け、オンラインを介して配信される演劇や朗読劇が増えました。演劇を取り巻く状況が変わりつつある現在、求められる戯曲の条件も変わってきそうでしょうか?

小野 オンライン演劇のことはずっと考えていましたね。演劇が人間の動物的習性だとすれば、行為自体はオンラインでも成立はすると思いますが、観客は劇場の中にしか存在できないんじゃないかなと思っています。自宅では、隣の席にまったく知らない他人が座っていたり、必ず黙っていなければならないという状態もないし、誰かが思わずため息を漏らしたり、みんなして拍手を送ったりする瞬間もない。観ているのは人でなくモニターですし、強制的に選ばれた視線で作品を観ることになります。よく練られた戯曲で、よく稽古されたオンライン演劇でも、観ていると、テレビドラマのようだなと錯覚してしまう。例えば俳優が電話で童話の読み聞かせをしてくれる企画もありますが、その時代、その人に必要な物語は、果たして新しい物語なのか? 既によく知られている物語なのか?ということも考えてしまいます。

三野 オンラインでも作品を発表することはできますが、演劇の定義を改めて考える必要はあると思います。それは、さまざまな表現がある中で、なぜこの状況下でも演劇を行うのかを問い直しながら制作する必要性です。僕はこれからの時代、戯曲が持つ機能自体もアップデートされていく可能性が高い気がしていて。戯曲の在り方はより自由になっていくんじゃないかと思っています。

白神 その一方で、オンラインで上演することを念頭に置いた戯曲ばかりが多くなっても面白くないなとは思いますね。

やなぎ やっぱり現場で肉体を使っているときの感覚は何にも代えがたいです。野外劇は身体が自然の気圧や天候にさらされて個を超えてしまう、いわば一種の蕩尽であり、修行でもあると思っていますので、私としては、舞台に関しては、オンラインで何か発表するより、実際に集える日を待ちたいと思っています。美術に関しては、7月に写真の個展を海外でやるのですが、コロナの前に作品を輸送しているので、展示はできるんです。ただ、向こうから「小さい作品ならデータで送ってくれたら現地でプリントして額装もできる」と提案されましたね。彫刻作品でも、作品によってはデータを送って3Dプリンターで再現して展示することができます。その技術が作品にふさわしいかどうかは作家が決めていくことになる。表現は時代の変化と共に変わりますが、なんでもオンラインで済ませてしまうことに対して私は懐疑的な立場です。ただ1つ言えるのは、絵画や舞台など、人間が何千年もやってきたものは必ず復活するということです。

どこにも属さない戯曲

──白神さんは舞踊、やなぎさんは美術・演劇、小野さんは演劇、三野さんは写真・演劇と、それぞれ異なるバックボーンをお持ちですが、戯曲を読む際どのようなことに重点を置かれていますか?

白神 井上ひさしさんや永井愛さん、テネシー・ウィリアムズの戯曲などを勉強のために読むことはありましたが、私はそこまでたくさんの戯曲を読んでいなくて。戯曲賞の審査をするときは、つい自分が演出することを想像しながら読んでしまいます。なので、自分が入り込む余地やト書きに示されていることをけっこう気にしていて。例えば、昨年のノミネート作、平賀美咲さんの「異聞・シーシュポスの神話」は「教育改革がさらに進み、全国の高校生に無償で高性能Webカメラ付きタブレット端末が配布された近未来」という舞台設定ですが、その中で真面目なのに居残りさせられている子が古い機種のタブレットを使っていた、とかそういう細かい憂いの部分に注目したり、余白を探したりします。

第19回AAF戯曲賞 公開最終審査会の様子。

小野 戯曲を読みながら想像を巡らせることも1つの上演のようだなと思いますね。シェイクスピア作品やギリシャ悲劇といった古典は、頭の中で現代に置き替えて、演出プランを考えながら読んだりします。一方、現代戯曲や日本語の縦書きの戯曲については、例えば岸田國士はわざわざ音読したいと思うくらい呼吸の感覚に優れた作家だなと感じますし、ポストドラマ演劇を知って、ハイナー・ミュラーを読んだときは、スラスラ読めてしまうけれど「どう読めばいいんだ?」と思ったり。「この戯曲は演出家10人が読めば10通りの読み方ができるな」と。

三野 確かに現代戯曲を読むときと、古典を読むときの感じ方は違いますよね。戯曲は文学だと言われる方もいらっしゃると思いますが、僕は記録みたいなものだと思っていて、小説や批評や評論を読むとき以上に“資料感”を感じるんです。演劇的な面白さがどこにあるのか、どんな構造なのかを考えたり、コンセプトがどういうものかということに注意を向けて読む。なので、僕は物語にあまり感情移入せず、ドライな読み方をしているほうだと思います。

やなぎ 私は舞台を先に観て、その作品が素晴らしかったときに戯曲を買って読むパターンが多かったです。若いときから戯曲を読み、演じてこられた方々に比べると、戯曲賞の審査はなかなか大変です。大胆なエクリチュール(書き言葉)が好きなので、日常的な話し言葉で書かれていると、“上演”ということを前提にしか読めなくなってしまって。応募作の中には実際に上演もされていて、上演したことによってよく練られた戯曲も多いですが、すでにできあがってしまっているので、想像する余地がなくなってしまう。そういう意味で、昨年の三野さんの戯曲「うまく落ちる練習」は、人間や人形や幽霊が話し言葉で会話をしていますが、その面白みよりも構造に惹かれたんですよね。作品タイトルのロゴがちゃんとデザインされて戯曲の表紙に配置されていたのも印象的でした。タイトルの言葉が表象として形を与えられているというのは、上演とは違う方法で、作品を身体化されているわけですから。

三野新「うまく落ちる練習」表紙(ロゴデザイン:石塚俊)

三野 ありがとうございます。ロゴのデザインは、長いこと一緒に作品を作っているグラフィックデザイナーの石塚俊が手がけました。彼とは演劇以外の仕事もするのですが、毎回どういう作品にするか?というところから一緒に考えて制作しているので、ロゴに注目していただけたのはうれしいです。

白神 確かに三野さんの戯曲には写真や図版が載っていたりして、そこに隠されている意味や情景に想像を巡らせることができますよね。

三野 審査員にやなぎさんと白神さんがいらっしゃったことは、AAF戯曲賞に応募しようとする人にとっても大きな変化だったと思います。僕は演劇界隈の“はぐれもの”というか、演劇の周辺の人間としてずっとやってきているし、自分でもそう思っているんですが(笑)、この戯曲賞ではさまざまなジャンルの方に審査していただけるので、風通しが良いように思います。戯曲を中心に、ジャンルや文化が横断的に交わっているのが、公開最終審査会でも感じられました。

──三野さんは前回の公開最終審査会をYouTubeの生配信でご覧になっていたとか。

三野 そうですね。現地にいなかったので、中継を見ながら“エア授賞式”をしました(笑)。

──小野さんは現地にいらっしゃったんですよね。

小野 はい。受賞後に「何か一言お願いします」と言われて、頭が真っ白になっちゃいましたね(笑)。

一同 (笑)。

やなぎ 昨年の受賞者が小野さん、三野さんって、改めてすごい2人だったなと思います。小野さんの「ねー」はストーリー性、三野さんの「うまく落ちる練習」は構造がぶっ飛んでいて、まったく違ったすごさがあった。ただ、1つ似ている点があるとすれば、“アングラっぽい”とか“小劇場っぽい”というような匂いがなく、どこにも属さない戯曲という印象がありましたね。