ART-SCHOOL「1985」|絶望の先に光と救いを描いてきた25年 (3/4)

戸高賢史(G)インタビュー

暗い場所にいるけど、ちゃんと光を見ている感じがある

──今作の制作は「2003年発売の『SWAN SONG』のような作品を今の感覚で制作したらどうなるか?」という発想からスタートしたとのことですが、戸高さんとしてはその構想をどう受け止めたんですか?

自分も同じことを思っていました。サイズ感、楽曲のクオリティ、雰囲気を含めて、個人的に世界観がすごく好きで。最初から最後まで飽きずに何回も繰り返し聴ける感触が僕にはあって、「もう1回作れたらいいんじゃないか」みたいなことをずっと言ってた気がします。ただ、それはあくまでも着想であって、まったく同じ内容のものを作ってもしょうがない。

戸高賢史

戸高賢史

──「SWAN SONG」は戸高さんがART-SCHOOLに加入する前の作品ですよね。

はい。僕が福岡にいた頃です。たぶん発売日に買ったんじゃないかな。

──そんなにART-SCHOOLをお好きだったんですね。

メジャー1stシングルの「DIVA」(2002年10月発売)から好きになって。日本の好きなバンドの1つとしてけっこう追っかけていましたね。

──そんな中で「SWAN SONG」という作品からはどういう印象を受けましたか?

暗い場所にいるけど、ちゃんと光を見ている感じがある。それはART-SCHOOLの一貫した世界観なのかもしれないですけど。そのとき僕はまだ10代で、希望があったわけでもないし、明るい未来が待ち受けているような感覚もない。福岡の専門学生としてバンドをやっていて、お金もなくて。そういう生活を送ってた中で、なんか低体温な感じがすごく優しかった。朝7時にハンバーガー屋さんのバイトに向かうときに聴いて、お昼の休憩のときにハンバーガーを食べながらまた1枚ずるっと聴くのが好きだった。当時の僕にけっこう心地よく響いていて、フィットしてました。

ファンとしての気持ちも自分の中にずっと存在している

──2017年に「Cemetery Gates」というB面集を出しましたよね。「SWAN SONG」からも何曲か入ってますが、そのときにファンがART-SCHOOLに何を期待し求めているのか、自分たちがやるべきことはなんなのか、みたいなことにある種自覚的になって、それが今作が生まれたきっかけの1つになったんじゃないかなと思いました。

それに関しては、僕はもうずっといちファンとして俯瞰でART-SCHOOLの作品を見ている部分があるので。ファンとしての気持ちも自分の中にずっと存在しているんです。そういう自我みたいなものは心に閉まってやってきたんですけど、最近ちょっとその自我が徐々に覚醒しつつあるというか。

戸高賢史

戸高賢史

──何かきっかけがあったんですか?

僕がART-SCHOOLをやっていくうえで、バンド活動のイニシアチブを取ることがけっこう多くなってきて。特に木下が病気で療養してからですかね。ART-SCHOOLはこういうことをやるべきだ……というよりも、こういうことが求められているだろうなというのが、僕もART-SCHOOLのファンなのでわかるんです。ライブのセットリストに関しても、この曲をやったらコアなART-SCHOOLのリスナーはすごく喜んでくれるんだろうなとか、そういうことがもう手に取るようにわかる。それは僕の中ですごく自然なことなんですよね。こういうことをやったら喜ばれないだろうなとか、これはいらないよなというのもはっきりしています。

──喜ばれないことって、例えば?

たくさんあります。例えば、何度も同じことをやりすぎるとか。表現だったり、歌詞の内容だったり。メロディもそうですね。「同じ言葉を繰り返すのは食傷気味だよ」とか、「そのコード進行は既視感があるよ」という。

──ああ、なるほど。

歌詞を書くのは本当に大変なことなので、25年もやってたらそれはしょうがないと思う部分もあるけど、そこで手癖じゃない新しいものをなんとか生み出せないかなと。そういう全体的なクオリティコントロールみたいな役割で提案しているケースが多いです。

──それは戸高さんにしかできないことですね。

そうですね。僕にしかできないと思ってるので、僕がやるって感じ。だからバンドの雰囲気がすごく悪くなることもある。僕はたった1人悪者になっても、みんなに恨まれても構わない。どうせやるんだったら、これは言わないとって。言いづらいことも言うようにしてます。

戸高賢史

戸高賢史

──木下理樹に対して?

だけじゃないです。バンドメンバー全員に対して言います。例えばリズム隊のイメージがART-SCHOOLの世界観とそぐわないのであれば。

──前のリズム隊が抜けて今のサポートのリズム隊の中尾憲太郎さんと藤田勇さんが加わったのが2012年ですね。そこから戸高さんが引っ張っていく場面が増えた、ということですか?

というのもありましたけど、最初は今ほどART-SCHOOLの活動に気持ちが入らなくて。僕の気持ちがちょっと抜けかけてた時期があるんですよね。やっぱりちゃんとやらなきゃと思ったのは、それからちょっと時間が経ったあとかな。そのことは作品にもすごく反映されてると思います。

──具体的には?

例えばボーカルのディレクションを僕はまったくやってこなかったけど、それをやろうと思った時期から、作品のクオリティが変わっていると思います。前のアルバム「luminous」ぐらいからかな。