コミックナタリー PowerPush - 「SHORT PEACE」

プロジェクト最終形態 大友克洋1万字インタビュー

別にヤンマガじゃなきゃいけないってこともなく

ヤングマガジン1981年22号

──映画「SHORT PEACE」は、森本晃司監督のオープニング、森田修平監督「九十九」、大友克洋監督「火要鎮」、安藤裕章監督「GAMBO」、カトキハジメ監督「武器よさらば」という構成です。「武器よさらば」に大友さんは原作提供され、今回、マンガ版が原稿通りの形で初めて単独で単行本化されます。ここに「武器よさらば」の掲載誌であるヤングマガジン1981年22号(講談社)を持参しました。

うわー。

──この1年前に「彼女の想いで…」(※註7)でヤンマガに初登場し、「武器よさらば」があって、さらにその1年後、同誌で「AKIRA」を開始されます。

うん、そうですね。

──70年代、週刊漫画アクション(双葉社)の本誌・増刊を中心に活躍し、そこから少しずつ各社へ活動を広げてゆくときに、当時の状況は、大友さんからはどのように映っていましたか。

「武器よさらば」表紙

ええっと、「武器よさらば」は何年ですかね。

──1981年の11月です。ちょうど「童夢」のPART.4までの掲載が夏に終わって、単行本描き下ろしを開始されていた時期ですね。

そうですね。「童夢」を100枚ちょっと連載して、描き足しと描き直しをしている頃か。当時、1979年にヤングジャンプ(集英社)が出来て、そのあと1980年にヤングマガジンが出たんですね。ヤングマガジンが創刊する前から担当の編集者(※註8)が来て「ぜひ描いてくれ」って言われてたんですが、「いま『童夢』やってるから、ちょっとわかんないですね」といった話を繰り返していた。で、最初に描いたのが「彼女の想いで…」なんです。うーん、古い話だな(笑)。それで「また描いてくれ」「できれば連載をやってくれ」って言われたんですけど……。

「彼女の想いで…」表紙

──こうして当時のヤングマガジンを見ますと、70年代の劇画ムーブメント、劇画タッチを少し引きずっている感じがありますね。雑誌の印象はいかがでしたか。

その……、別にこの本(ヤングマガジン)じゃなきゃいけないってわけでなく、できれば別なところがいいなと思ってた(笑)。

──あ、そうでしたか。それはまた衝撃的な話ですね。

双葉社は、すごく自由だったんですよ。ネームを見せろとか、編集部のチェックとか、何もなかった。もう好き勝手に描いてたんで。俺もすごくいい加減で、ページ数も1枚2枚多かったりして(笑)。「多いよ」って言われて、1枚2枚抜いたりしましたけどね。あの当時は、月1本描けばまあなんとか暮らせてた。それでOKだったんです。

70年代の若者文化の洗礼を受け、SFへ

──もっとヒットしたりメジャーなフィールドに行きたいという願望もなく。

うん。少年誌に行こうとも思わないし、70年代の若者文化の洗礼を受けているから、無理矢理スポーツもの描こうとかも全然思ってなかったんで。あの頃、小学館からビッグゴールド(※註9)が出て、そのあとで双葉社からアクションデラックスが出たんだったかな……。

──はい、ビッグゴールドと同様に、分厚い増刊でした。最初のNo.1は1979年1月25日発行とあります(※註10)。

アクションデラックスというのをやるって編集者が言うんで、「じゃあSFを描かせてくれ」って言ったら「SFなんてダメだ」と……。

大友克洋

──78年後半時点でそうだったんですね。

劇画っていうのは、読者層と内容を底上げしたことで、それまでの少年マンガから少し大人にはなったんですけど、正直言うとなんか殺伐とした話が多いんですよね。あまりファンタジックな話じゃなくて。アクションで言うと「同棲時代」とか「子連れ狼」、あとなんだっけな、「高校生無頼控」とかね。そういうちょっとヤクザものに近い感じがね。

──今風にいうと「アウトローもの」になりますか。

アウトローの話が多いわけですよ。それが劇画なんで。「巨人の星」とかね。

──確かに星飛雄馬も異端ですが(笑)。

まあアウトローを描く劇画も、それはそれで悪くはないんですけど、そういうのばっかりなんで、なんか別のことしたいなと思っていたんです。SF映画は好きだったから……、「STAR WARS(スター・ウォーズ)」は何年ですかね。

──1977年、日本では78年の夏に公開ですね。

その「STAR WARS」の世界観とか、その前にも1968年に「2001年宇宙の旅」もあり、70年代には「時計じかけのオレンジ」もあったし、あと「アンドロメダ…」とか、そういうアメリカの面白いSF映画がいっぱいあったんで、そういうのをやりたくてしょうがなかった。でも、日本のマンガは全然そういう風には進まなかった。

──「STAR WARS」がアメリカ一国ではなく各国に広まって全世界的にSFブームとなり、日本の場合は同時期にアニメーションで「宇宙戦艦ヤマト」が再放送で復活し、SFブームとアニメブームが77~78年頃に一気に来たんですよね。

そうそう。だから意外と世の中にはSFはあったんですけど、マンガのほうが遅れてた。

(※註7)1990年に講談社から刊行された同題短編集に「武器よさらば」も収録された。↑戻る

(※註8)週刊・月刊少年マガジン編集長だった宮原照夫氏。ヤングマガジン初代編集長。↑戻る

(※註9)ビッグコミックの増刊として1978年から85年まで12冊を発行。↑戻る

(※註10)大友はアクションデラックス創刊号に「Fire-ball」を執筆した。↑戻る

大友克洋「武器よさらば」 / [コミック] 2014年3月20日発売 / 3150円 / バンダイビジュアル

B4サイズ/160P

収録内容

  • マンガ「武器よさらば」
  • マンガ「武器よさらば」ギャラリー(設定資料などを掲載)
  • 映画「武器よさらば」設定資料
  • 映画「武器よさらば」脚本・絵コンテ
  • 大友克洋×カトキハジメ対談
  • A2ポスター
  • ゴンク撮り下ろしグラビア

コミックス「武器よさらば」は仕様内容の変更により発売日が延期となっております。
変更前)2013年12月25日(水)
変更後)2014年3月20日(木)

大友克洋(おおともかつひろ)

宮城県登米市出身。1973年、漫画アクション(双葉社)にて「銃声」でデビュー。1979年に自選作品集「ショート・ピース」を刊行する。1983年、「童夢」「AKIRA」などを発表。1988年には、劇場版「AKIRA」のアニメーション監督を自ら務め、1995年に「MEMORIES」、2004年に「スチームボーイ」なども制作している。2005年、フランス政府から芸術文化勲章シュバリエを受章。2012年、東日本大震災の復興支援を兼ねた、世界最大規模となる初の原画展「大友克洋GENGA展」を開催し、米国のアイズナー賞においてはコミックの殿堂入りを果たした。監督を務めた短編「火要鎮」は第16回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞、第67回毎日映画コンクール大藤信郎賞を受賞。2013年夏に、その「火要鎮」と原作を提供した「武器よさらば」を含む4編のオムニバス「SHORT PEACE」を発表する。