GLOBAL RING THEATREから始まる「東京芸術祭 2022」 「シン・マイムマイム」から野外劇「嵐が丘」まで

9月23日に「東京芸術祭 2022」がいよいよグランドオープニングを迎える。オープニング当日は開幕式典ののち、誰でも参加OKの「シン・マイムマイム」がGLOBAL RING THEATREで披露される。また10月17日から26日には、同じ空間で野外劇「嵐が丘」が立ち上げられる。ステージナタリーでは、GLOBAL RING THEATREで上演される上記2作品に注目し、「嵐が丘」より演出の小野寺修二と片桐はいりの対談、「シン・マイムマイム」から演出のスズキ拓朗のメッセージを届ける。

取材・文 / 熊井玲撮影 / 藤田亜弓(「嵐が丘」対談)

野外劇という覚悟をもって「嵐が丘」に挑む
小野寺修二×片桐はいり

池袋の屋外で、風を感じてほしい

──昨年12月に、野外劇「嵐が丘」の上演決定が発表された際、小野寺さんは「野外でしか出来ない、スケールの大きなことをやってみたい、また屋内では表現出来ない自然との対峙を扱ってみたい、例えば嵐のような、嵐、、嵐、、という中で、タイトルから、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」を思い出したのでした」とコメントされました(参照:2022年の「東京芸術祭」野外劇は小野寺修二演出「嵐が丘」)。池袋の駅前で「嵐が丘」とは対極的と言うか、意外な視点だなと思いましたが、小野寺さんはどの点がピンと来たのでしょうか?

小野寺修二 そんなに奇をてらって考えたわけではないのですが(笑)、2013年に瀬戸内国際芸術祭に参加し、瀬戸内海の島々の海辺で「人魚姫」を上演したことがあり、そのときに野外ということに関してはいろいろな洗礼を受けました。劇場の環境とはずいぶん違って、声は届かないし、雨が降ればお客さん込みでずぶ濡れなわけだし、普通の生活における人間らしさというか、生活の中に“作り物”が入ることの面白さも怖さも感じましたし、自分が処しきれない世界の中に、ただ必死に“居る”ことがどれくらいできるか、その難しさを実感したんですね。その体験が、今の自分の劇場における表現活動にすごくプラスになったんです。今回、そこに改めてまた立ち返るんだなという思いがあります。

「嵐が丘」に行き着いたのはまあコメントの通り、タイトルに“嵐”が付いていたということがお恥ずかしながら大きいんですけど(笑)、でもそこをスタートに、とにかく風、雲、空、土、海など自然的なものがもっと介在する表現がしたいと思いました。今回の「嵐が丘」で、ヒースクリフとキャサリンが出会い、荒野の中を風を感じながら進んでいくシーンを考えているんですけど、そこが今回のキモというか。もちろんいろいろ人工的な加工が入った都会の屋外ではありますが、お客さんが風を感じるようなことができたらなと思っています。

左から片桐はいり、小野寺修二。

左から片桐はいり、小野寺修二。

片桐はいり 「嵐が丘」で自然……実は私、最初はあまりイメージが結びつかなかったんです。

小野寺 皆さん、そうおっしゃるんですよ(笑)。

片桐 どちらかというと「嵐が丘」って人間の愛憎劇というイメージが強いから、「自然……ああ、まあそうだね、荒野だよね」と、自然のイメージは後から来て。

小野寺 僕、タイトルから引っ張り過ぎかなあ……(笑)。

片桐 いやいや、そこが面白いと思いますよ。今のお話を聞いていても小野寺さんの中ではすごく辻褄が合ってるんだなと感じたし、「じゃあそれに乗ってみようかな」って。もちろん信じてますよ! だって多くの人は気づかないようなことの中に新たな道筋を見つけることが一番楽しいじゃないですか。

小野寺 よろしくお願いします(笑)。僕、パントマイムを始めた頃に大道芸みたいなこともやったことがあるんですけど、野外って断片からしか立ち会えない人もいるんですよね。劇場でそれぞれ自分の席に座って、1つの演目を冒頭から最後まで観るようなパッケージ化された環境ではなくて、通りすがりの……もしかしたら舞台に全然興味がないんだけど大きな音がしたから寄ってきた、みたいな人たちもいるような環境でやる以上、物語の面白さに頼り過ぎてもどうにも太刀打ちできないんじゃないかなと。ふらっとやってきた人を「ちょっと観ておこうかな」って気持ちにさせるのは、例えば人が群で動く面白さとか、もっと瞬間的なエネルギーだったりするんじゃないかと思うんです。そう考える中で、お話が短いタームで進んでいく仕組みのようなものを、今は考えています。

──なるほど、だから台本がブロックを重ねていくような構成になっているのですね。太い物語を紡ぐというより、シーンをコラージュしているような印象を持ちました。

小野寺 そうです。まずは「そのシーンだけ観てもらえれば良い」というような気持ちで作っていて、これからそれがどうつながるのか、あるいは全然つなげないままでいくのかを、稽古の中で考えていきたいと思っています。それと、「嵐が丘」に描かれるアーンショウ家とリントン家は、どちらもある時代、人の出入りも多く盛り上がって、次の世代ではもう消えてしまったというような儚さがある。そのイメージと、ある場所でふっと始まって消えていく大道芸のイメージが重なりました。

左から小野寺修二、片桐はいり。

左から小野寺修二、片桐はいり。

“外”からの目線で「嵐が丘」を見つめる

──小野寺さんと片桐さんは2010年の「異邦人」以来、たびたびお仕事をご一緒されています。カンパニーデラシネラは、シャープな世界観が持ち味ですが、片桐さんが参加される場合はそれとは少し違って、ほわっとした印象になるというか、温かみや人間味のようなものが前面に出てくる印象があります。また、これまではどちらかというと、小野寺さんの中に「この役を片桐さんに」という思いがあったように感じるのですが……。

小野寺 ああ、確かにそれは大きいかもしれませんね。はいりさんが演じることで、ある登場人物の魅力が違う形で広がるようなことを期待していた部分があります。「異邦人」のムルソーにしろ、「カルメン」のカルメンにしろ、はいりさんは男とか女とか、子供とか大人とか、年齢や見た目などを飛び超えられる方で、もしかしたら人間ではないものにもなり得るんだということを見せてくれる。そもそも演劇の面白さって、何にでもなれる、何でもやれるというところにあるはずだし、「まずそこから始めたい」と思ったときに、はいりさんに入ってもらうことが多い気がします。またはいりさんには、ムルソーやカルメンを演じつつも作者のような視点に寄り添う存在でいてもらう作り方をしてきたので、それではいりさんが入った作品はいい意味で安心して観ていられないというか、ちょっとほわっとした印象になるんだと思います。それは確かに僕も感じますね。

でも今回は、そういう具体的な登場人物ではないところにはいりさんを置いてみたいと考えていて。今、仮に“犬”と読んでいるんですけど、作品の冒頭に登場する、訪問者に敵意を剥き出しで飛びかかってくる犬の群がいて、この犬という名の、世界を取り巻いている者たち、を意識してみたいなと思っているんです。はいりさんは、その犬たちに餌をあげている老人役で、いわば場の支配者。あとその老人とは別に、いろいろな役の声もやっていただこうと思っています。

小野寺修二

小野寺修二

──片桐さんは今回のオファーをどう受け止められましたか?

片桐 小野寺さんとのお仕事では「この台本のこの役で」ということはまずないので(笑)、今回も一緒に作っていこうということだとは思いましたが、「嵐が丘」だと聞いて、「それは私の役、どう考えてもないですよね?」と(笑)。キャサリンだってヒースクリフだって、「やれ」と言われればやりますけど……と思いながら改めて作品を読んでみたら、これはお手伝いさんのネリーの話なんだなと気づいて。実際、最近の解釈ではネリーのフィクションなのではという見方もあるそうなので、「だったら私はネリーの役なのかな」と思っていたんです。でもプレ稽古で小野寺さんがやたらと「犬、犬」と言っていて(笑)、「犬なんて出てきた?」と思いながら読み直したら、確かに出てきてはいるんです。その後、さらにプレ稽古でいろいろ探っていく中で、“あらゆるところをうろついている存在”というイメージにピンと来ました。実は私、池袋西口公園が整備される前にテント芝居をやったことがあるんですけど(1988年「ケサラン / パサラン」)、テントを設営しているときから公園で暮らしているホームレスの人たちが寄って来たり、公演中もなぜか中に入ってきたりして、舞台に向かって「ヨッ、大統領!」なんて声をかけてきて(笑)。それが面白かったなあという記憶と、せっかく野外でやるからには地面の力を借りた何かをやりたいという思いもあって、この地にずっといて外をうろうろしている人、というイメージが浮かんできました。それで「私、この公園にずっといる人じゃダメですか?」って小野寺さんに提案したんです。

片桐はいり

片桐はいり

小野寺 “内 / 外”という意識は、もしかしたら劇中劇のような考えに通じるかもしれません。嵐が丘の外にもう1つ世界がある。演じている人がその登場人物の役を演じているんじゃなくて、瞬間瞬間、物語の中で踊らされているというか、世界ができては消えていくような、そういう描き方ができるんじゃないかと考えて、だとしたら物語の内側ではなく外側の人こそが主役なんじゃないかと思ったんです。またはいりさんが、「『嵐が丘』は恋愛にもサンスペンスにも見える。いろいろな見え方がする作品だ」と言っていたこともヒントになりました。断片だけ切り出してもいろいろな見せ方ができる、強度がある作品だと思います。

──昨年上演され、片桐さんも出演した「未練の幽霊と怪物-『挫波』『敦賀-」(参照:現実とパラレルな世界を幻視して「未練の幽霊と怪物」上演に岡田利規「とてもハッピー」)は能をベースにした作品で、片桐さんは“地の人”(ある地を訪れた旅人に、土地ゆかりの人物や出来事を語る人)を演じられました。今回の老人もある意味では“地の人”のような存在ですね。

片桐 なるほど! そういう捉え方もできますね。この地に越して来た男・ロックウッドが不思議な人に出会い、その土地の昔の話を聞いていくという話なので、「嵐が丘」もある意味、能の形式に則っていると言えます。

小野寺 そうですね。しかもロックウッドが聞いているのはネリーの語りで、だから本当にあったことがどうかは定かじゃない。眼前で語られている話が本当かどうかわからないというのは面白いなと思います。