岡田利規とカゲヤマ気象台が語る“場所とクリエーション”どこで作るか?誰と、どう作るか?

岡田利規と作曲家・藤倉大が共同制作した「リビングルームのメタモルフォーシス」が、9月に東京芸術劇場 シアターイーストで日本初演を迎える。ウィーン芸術週間からの委嘱により2023年に世界初演を迎えた本作は、演劇と音楽の新たな関係性に挑んだ新作の“音楽劇”で、今回は「東京芸術祭 2024」内、芸劇オータムセレクションの1演目として披露される。同じく「東京芸術祭 2024」の1プログラムとして、9月に東京芸術劇場 シアターウエストに登場するのは、カゲヤマ気象台が代表を務める円盤に乗る派の「仮想的な失調」。狂言「名取川」と能「船弁慶」をベースに、多様なアイデンティティをSNSごとに使い分ける現代人の姿を描いた本作は、初演時好評を博した。

ステージナタリーでは、東京芸術劇場で9月、隣り合わせで上演を行う作り手2人の初対談を実施。近年は海外の劇場での新作レパートリー創作などを手がけるほか、2026年度より東京芸術劇場芸術監督(舞台芸術部門)に就任することが発表された岡田と、2021年に共同アトリエ“円盤の乗る場”を開設し、創作の傍ら、さまざまなアーティストとの“研究会、交流会”などを行っているカゲヤマに、“場所とクリエーション”を軸に、創作について話を聞いた。

取材・文 / 熊井玲撮影 / 藤記美帆

稽古場環境は、作品に影響を与えるか?

──岡田さんとカゲヤマさんは、同時期に東京芸術劇場で作品を上演します。お二人はこれまで、ご面識は?

岡田利規 最初にお会いしたのは、どこでしたっけ?

カゲヤマ気象台 たぶん僕がフェスティバル / トーキョーに出たときだと思うので、2013年だったかと……。そのとき、岡田さんも出てらっしゃいましたよね?

岡田 あ、はい。出ていました。

カゲヤマ そのときにお会いしていると思うんです。だからもう10年以上前ですね。

左から岡田利規、カゲヤマ気象台。

左から岡田利規、カゲヤマ気象台。

──そのときは何かお話をされたのですか?

岡田 ごあいさつ程度だったかと。

カゲヤマ そのとき観た岡田さんの「現在地」の感想を言った記憶はあるのですが、本当にそのくらいだと思います。僕が最初に岡田さんの存在を知ったのは、僕が高校生のときにNHKで放送されていた「目的地」で。「え、こんなことをやっている人がいるんだ!」と衝撃を受けました。

岡田 そうなんですね。僕は、カゲヤマさんのお名前はずっと以前から知っていますが、作品をまだライブで観たことはなくて。今回上演される「仮想的な失調」は、資料映像で観ました。

──では、じっくりとお話しするのは初めてというお二人に、今日はいくつかのテーマを軸にお話を伺いたいと思います。まずは“場所とクリエーション”について。最初は主に稽古場のことを伺います。岡田さんは長いこと横浜の急な坂スタジオを稽古場にしていらっしゃいました。現在は(岡田のマネジメントを担当する)制作会社precogが運営している稽古場・山吹ファクトリーで創作することが多いのでしょうか?

岡田 そうですね。横浜を拠点に活動を始めて、横浜には公民館や区民センターみたいな場所がいろいろあるのでそこで稽古をしていましたが、2006年に急な坂スタジオがオープンして、以降は急な坂を中心に稽古していました。その後、2018年に山吹ファクトリーがオープンして、そこから山吹ファクトリーが多いです。

──岡田さんは現在熊本在住ですが、熊本にも稽古場のような場所はあるのですか?

岡田 ないです。だから僕にとって熊本は結局、クリエーションの場所ではなくて。書くことに関してはどこでもできるので、もちろん熊本でも書いていますが、日本で創作する場合は大抵、首都圏に僕がやってきて作っています。

──カゲヤマさんは2021年に共同アトリエである“円盤に乗る場”を創設されました(参照:円盤に乗る派のアトリエ・円盤に乗る場が12月にオープン)。現在は、円盤に乗る場で稽古することが多いのでしょうか?

カゲヤマ そうですね。ただスペースとしてはけっこう狭いのと、いろいろなチラシが貼ってあったり、物がごちゃごちゃあったりで、ノイズが多くて集中しづらい、と言う俳優もいて。なので最近は、稽古の最初のうちは円盤に乗る場でやり、本番が近くなったらもうちょっと大きな稽古場を借りて作ることが多いです。幸い2015年にセゾン文化財団のフェローに選ばれたので、森下スタジオを借りることも多いですし、借りられないときはいろいろな場所を転々としながら稽古することもあります。

──稽古場によっては窓が1つもなかったり、天井が低かったり、部屋の真ん中に柱があったり、駅からものすごく遠かったりと、稽古場に関してさまざまなエピソードを聞くことがあるのですが、お二人は「どこで創作したか」は作品に影響を与えると思いますか?

岡田 僕はないです。「窓がない稽古場は嫌だ」という人は少なくないですが、僕自身はあまり気にならなくて、換気も、人に言われて初めて気づくくらいで。窓がなければないで大丈夫だし、それよりも(舞台面の)実寸が取れればいいと思っています。ただ、実寸がギリギリ取れる程度の広さの稽古場だと、演出家のいる場所が舞台の最前列になるので、「もうちょっと後ろで見たいな」と思っても引けない、ということはあります。その影響が、例えば後方の客席から見たら舞台が超見切れてる、というように、小屋入りしてから判明することはあります。

カゲヤマ 僕も、どういう稽古場で作ったかは演出内容にはあまり関係ないです。ただ単純に自分の精神的な健康面としては、やっぱり地下や窓がない稽古場は息が詰まりそうになるし、僕以上に俳優のほうが影響を受けるだろうなとは思います。また円盤に乗る場自体は、空間的な意味合いよりも“自分たちの場所である”という意味合いのほうが大きくて、借りた稽古場だと時計を意識しながら「今日はここまではやらなきゃ」とプレッシャーを感じながら稽古することが多いですが、自分たちの場所だとその辺は比較的楽にできるので、気持ちの面での焦りは少ないと思います。

岡田 僕は自分の場を持ったことがないので経験できていないのですが、その点はすごく大きいでしょうね。

カゲヤマ そうですね、少し油断しながらできるというか。円盤に乗る場で稽古していると、メンバー間の距離ももう少しラフになるような気がします。

奥からカゲヤマ気象台、岡田利規。

奥からカゲヤマ気象台、岡田利規。

稽古場から劇場へ…失われる“ノイズ”について

──山吹ファクトリーも円盤に乗る場も、一見すると演劇とは無関係な普通の街中にあります。山吹ファクトリーは小さな印刷工場が立ち並ぶエリア、円盤に乗る場は商店街の外れと、稽古場までの道のりが面白いですが、そのような稽古場の環境が、作品に影響を及ぼすことはありますか?

岡田 僕は稽古場に入って稽古をやっている間は、周辺がどういう状況かということは、正直どうでも良くなってしまいます。また過去のクリエーションを振り返ってみても、稽古場の中の様子はあまり覚えていません。ただその稽古場に行くまでの道のりは案外記憶に残っていて、ある作品について思い出すときに、稽古場までの道のり……乗り換えの感じや最寄駅から劇場までの道のりの雰囲気も、一緒に思い出すということはあります。

カゲヤマ この話は、僕が演劇をどう捉えているかということに踏み込むような気がしていますが、そもそも僕は演劇を、外部からまったく隔絶された空間を舞台上に作ることだとは思ってなくて、人間がやっているさまざまな営みの一部が、偶然舞台上に現れてしまうものだと考えているんですね。だから稽古でも、かっちりと1つの世界観を作り上げていくというより、目の前のテキストや言葉、空間などに対してどういう振る舞いをするのがいいかを都度考えていく、という意識が強いです。するとその場の営みの中に、稽古場に来るまでどういう道を通ってきたかとか、今日の天気がどうであるかとか、外から聞こえてきた音のこととか、そういったものがどうしても反映されますし、結果的にそれが舞台上に現れることになると思います。という点で、稽古場の環境が作品に影響するかどうかと言えば、入り込んでくるところはあると思います。

左からカゲヤマ気象台、岡田利規。

左からカゲヤマ気象台、岡田利規。

岡田 今のカゲヤマさんの話からふと思ったのですが、稽古場ってさっきおっしゃったようにチラシが貼ってあったり、外から音がしたり、いろいろなノイズがあるじゃないですか。そういう環境で作った作品が、実際にやる場所、特に劇場だと、ノイズが消えてしまって、それがすごく残念だなとか、こんなはずじゃなかったって感じることが、僕はよくあるんです。とはいえ、僕はもうかなり演劇を作るということを経験しちゃっているので、もはやそのことに慣れてしまった感じはあるのですが、カゲヤマさんはそういうことはないですか?

カゲヤマ ああ、それはありますね。やっぱり劇場という空間と、稽古場という空間は前提が違うというか、働いている物理法則すら違うような感覚があります。例えば稽古のときにあった面白さみたいなものが、ほんのちょっとした照明の加減で見えなくなってしまったり。

岡田 そうですね。テクニカルの問題とかではなく、舞台照明を使う時点で、もう違うんじゃないかと思うときさえあります。

カゲヤマ (うなずきながら)僕の演劇の原体験は、学生のときに照明や装置がまったくない学校の施設でやったことなんです。そこから出発しているので、その後、ちゃんと設備があるところでやったときに「え、こんないろいろなことができるんだ!」と面白さを発見したくらいで(笑)。それもあって自分の中では今、照明の理屈、舞台美術の理屈、俳優が演技している理屈、それぞれの理屈のようなものを少しずつズラしていくことでノイズを生むことができないかと考えています。俳優がこう動くからこう照明を当てる、ではなく、たまたま俳優がこう動いていたとき、たまたまこういう照明が当たったとか、舞台美術がこう置かれていたところで偶然俳優がこういう動きをした、とか。偶然が重なり合って目の前にノイズが出現する、ということがいい感じにできたら良いなと期待して演出しようとしている気がします。

岡田 なるほど、その気持ちは僕もわかります。でも同時に、それってできないことじゃないかとも思います。つまり、作る側の演出家が偶然を期待して作ったとしても、観客はそうは見てくれないのではないかと思うんです。多くの観客は、劇場で行われていることは全部デザインされているもの、劇場は意図や意味があることだけが起こる場所で、偶然に何かが起こるということはないもの、と思っているのではないかと感じるからです。また作り手にとっても、別にその“偶然性を狙っていますよ”という意図を観客に伝えたいわけでもないから、そう考えると、足掻いても偶然性を期待して演出することはできないんじゃないかと。

カゲヤマ 確かに劇場の中って安全な方向に振れていくというか、すごくエクストリームなことがエクストリームなままでは起こらない場所だとは思います。なので岡田さんがおっしゃるように“偶然性”をそのまま劇場で見せるのは難しいかもしれませんね。でもその一方で、劇場には“劇場の力学”があると思うので、劇場の力学を使った面白さを見出すことはできるんじゃないかとも思います。

左からカゲヤマ気象台、岡田利規。

左からカゲヤマ気象台、岡田利規。

東京芸術劇場という場が、作品に与える影響

──劇場のお話が出ましたが、今回お二人は、初演の劇場とは別の場所で作品を披露します。「リビングルームのメタモルフォーシス」は2023年にオーストリアのHalle G im MuseumsQuartierで上演され、ドイツ・オランダでも上演されたのち、今回は東京芸術劇場シアターイーストで日本初演を迎えます。円盤に乗る派「仮想的な失調」は2022年に吉祥寺シアターで初演され、今回はシアターウエストで再演されます。劇場が変わることは作品にどんな影響を与えると感じますか?

カゲヤマ 「仮想的な失調」にとって今回大きく違うのはステージの形式で、吉祥寺シアターはオープン形式、シアターウエストは間口がかなりしっかり作られたプロセニアム形式です。お客さんの目線という点でも違いがあり、吉祥寺シアターは最前列と舞台がほぼ同じ高さですが、客席の傾斜がけっこうあります。シアターウエストは舞台面が少し高く、傾斜は緩やかなので、吉祥寺シアターではお客さんが舞台全体を俯瞰するような感じだったのに対し、シアターウエストでは舞台と同じ高さの目線か、少し見上げるような感じになります。そのことによって、おそらく初演よりも、各登場人物の言動やストーリーの内容が強く印象に残るのではないかなと予想しています。

「仮想的な失調」初演より。(撮影:濱田晋)

「仮想的な失調」初演より。(撮影:濱田晋)

岡田 初演は、映像で観ても確かに俯瞰する感じがありましたね。ただ今回そうではなくなることは、むしろ作品に良い効果を与えるんじゃないでしょうか。ポジティブに捉えられそうな気が、僕はします。

カゲヤマ ええ。

──「仮想的な失調」では狂言「名取川」と能「船弁慶」をベースに、脚本をカゲヤマさん、演出をカゲヤマさんとグループ・野原の蜂巣ももさんが手がけられました。「名取川」は、比叡山で受戒した僧が付けてもらった名前を忘れないように両袖に墨で書き留めるも、川を渡る際に袖に書いた名前が消えていることに気づいて笠で名前をすくおうとする様が描かれます。能「船弁慶」では、前半は判官源義経との別れを惜しむ静御前、後半は義経一に滅ぼされた平知盛の怨霊と異なる2役を、シテ方が演じ分けることが見せ場となっています。円盤に乗る派ではその古典2作に、“常に複数のSNSを使い分け、様々なアイデンティティを駆使する現代の生活”を重ねて作品を立ち上げました。

カゲヤマ 「仮想的な失調」は古典をベースにしてはいるのですが、ただ上演スタイルの能や狂言については、あまり意識していません。意識したのは戯曲を書くときで、“遺すための戯曲”を描きたいという思いがあり、古典を踏まえることで自分の中に“核”みたいなものが形成されるんじゃないかという思いがあったんです。

岡田 なぜ「船弁慶」をモチーフにしようと思ったんですか?

カゲヤマ これも本当に偶然、NHKで「船弁慶」が放送されているのを観て「なんて変な曲なんだ!」って思ったんですよ。

岡田 いや、本当に変な曲ですよね。前場と後場は実は全然関係がない話なのに、「関係がある!」と開き直っているような(笑)、“もう認めざるを得ない感じ”があります。

カゲヤマ でもそこから立ち上がってくる不気味さみたいなものに、僕は妙なリアリティを感じたんですよね。