「ジャポニスム2018:響きあう魂」| 伊藤郁女×森山未來インタビュー&フランス公演レポート

2018年10月に神奈川・KAAT神奈川芸術劇場にて初演された、伊藤郁女と森山未來の「Is it worth to save us?」は、伊藤が演出を、伊藤と森山が振付を手がけたデュオ作品だ。本特集では、12月18日から20日にメゾン・デ・ザール・ド・クレテイユにて上演されたフランス公演の模様を、日本初演も目撃したライターの島貫泰介が、伊藤・森山へのインタビューも交えてレポートする。

大切なことは言語ではなく、身体

フランスを拠点に欧米圏で活躍するダンサー・振付家の伊藤と、話題の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」で若き日の古今亭志ん生(美濃部孝蔵)を演じ、コンテンポラリーダンサーとしても評価の高い森山の初コラボレーションとなる本作は、ダンスだけでなく言葉もふんだんに使った異色の舞踊作品である。約60分の上演時間の間、舞台上にはフランス語と日本語が飛び交い、前者を母語とする現地の観客には理解できない2人のやりとりも多くあった(同様に、フランス語のわからない筆者に理解できないシーンも多くある)。にも関わらず、カーテンコールでは熱狂的な拍手をもって本作は迎えられた。それは「わからなさ」や「共有の困難さ」を主題とする作品のテーマが、言語や文化の違いを超えて観客に伝わったことの証明と言えるかもしれない。初日を終え、2日目の上演を前にした2人へのインタビューを交えながら、作品について考えてみた。

左から伊藤郁女、森山未來。@Patrick Berger

──フランス公演はいかがでしたか? KAAT神奈川芸術劇場での世界初演とはまた違った印象を受けました。

森山未來 僕自身は、特別な違いはそこまで感じなかったかな? もちろんフランス語と日本語が交錯する作品ですから、フランス語圏の観客にとっては聞き取りやすい箇所は多くあると思うし、それによって距離感は変わるとは思いますが。

──冒頭で、お客さんと英語で対話するシーンがありますよね。フランスの人はみんな物怖じせずに議論する印象があるので、そこは日本人と違うところかなと思います。

森山 むしろ横浜の方が、僕から意識的に対話しようと思っていたかもしれない。でも、フランスでは控えめにしたんですよ。というのは、対話の内容が重要ってわけではないから。むしろ質問を“置く”ことに意味がある。カンバセーション(会話)が生まれるのはよいことだけど、それに没頭してしまうと肝心の質問の存在が薄れちゃう。そもそも、フランス語も英語も僕は堪能ではないんですけど(笑)。

伊藤郁女 しゃべれる人は多いけど、フランス人も英語は苦手だからね。

──伊藤さんはいかがでしたか?

伊藤 観客の反応は、日本もフランスもそう変わらないと感じました。でも、リアクションはこっち(フランス)のほうがお客さんが恥ずかしがらない分、大きいかな。客入れのシーンでは、観客とアイコンタクトしたり手を振ったりするんだけど、日本だとみんな、「え、私に手を振ってる? それとも私じゃないのかしら?」みたいな戸惑いをまず浮かべる。そのワンクッションがないのは、演じる側としては気が楽です。でも、そもそもいろんな言葉、いろんな価値観が同じ空間に並存しているっていう作品でもあるから、その戸惑いはあってしかるべきものなんですけどね。

森山 すんなり理解できてしまうと、言葉に引っ張られていってしまうからね。フランス語、英語、日本語が混じり合うからこそ、言葉だけに没頭せず、目の前で起こっているアクションに目を向けるようになる。

伊藤 フランス人の観客も近い感想を言ってました。字幕に日本語が表示された瞬間に「『ああ、この作品は全部を理解することを求めてないんだな』と思った」って。そうやって、身体への関心が強まってくるのがよかったんだって。

森山 むしろまったく理解のできない、違う言語にしても面白かったかも。

伊藤 宇宙人語とか(笑)。

森山 タガログ語とか? まあ、フィリピン出身の人は理解できちゃうんだけど。

面倒くさい姉を抱えている感じ(森山)

言葉の話題からインタビューは始まったが、「Is it worth to save us?」は伊藤と森山がそれぞれの個人的な経験について語る“自分語り”を軸にした作品だ。伊藤が実父と共に制作した「Je danse parce que je me méfie des mots / 私は言葉を信じないので踊る」(参考:父との共演作が埼玉で開幕「伊藤郁女自身として舞台に立っているような感じ」)でも触れられた、父との幼少期の記憶。少年時代の森山がダンス講師からこっぴどく怒られたエピソード。コンサート会場のトイレで、マイケル・ジャクソンと遭遇したこと。そんな多彩なエピソードがフランス語、日本語、そしてときに英語で語られ、それらは次第に伊藤と森山の自他の境界を溶かすように曖昧に混ざり合っていく。そして1つの記憶を共有するかのように、2人はデュオになって踊り始める。約60分の上演時間の中で、観客は2人のコミュニケーションの推移を眺め続ける。そんな印象を本作は与えてくれる。

伊藤郁女×森山未來「Is it worth to save us?」 @Patrick Berger

────「Is it worth to save us?」は、伊藤さんから未來さんに話を持ちかけて制作が始まったと伺いました。長い時間をかけてコミュニケーションを重ねてきたと思うのですが、言葉を交わすことと、ダンスを踊ること、どちらを重視しましたか?

森山 どっちもかな?

伊藤 未來くんは知的な人だから、言葉でも身体でもちゃんとリアクションしてくれるよね。

森山 コンセプトの段階では、自分の過去の経験を大量に書き出したりしたから言葉の比重が大きいけれど、きちんと振付のあるパートではとにかく踊って試してみる感じ。制作の進行に合わせて、コミュニケーションも変わっていったよね。

伊藤 普段の私はどちらかと言えば身体重視で、今回のように言葉でやりとりするのは珍しいかも。ラストの曲にも歌詞がついているから、その意味も考えないといけないし。

──最後に2人が歌うシーンはインパクトがありますよね。フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの「Let's Call the Whole Thing Off」。映画「踊らん哉(Shall We Dance)」の劇中歌です。

森山 あの曲を持って来たのは郁女ちゃん。直接参考にしたのは、サッチモ(ルイ・アームストロング)とエラ・フィッツジェラルドのカバー。

伊藤 未來くんがジャズダンスをやってたって聞いてたから、デュエットで歌える曲を探したんだよ。

伊藤郁女×森山未來「Is it worth to save us?」 @Patrick Berger

──すれ違う男女の気持ちを発音の違いにかけて歌った曲で、「違いを乗り越えて仲直りしよう」というコミカルな歌詞ですよね。この曲を選んだ時点で、本作の方向性は半ば以上決まっていたのかな、と思いました。

伊藤 それがたまたまなんですよ(笑)。

森山 うん。歌詞の内容をちゃんと見て「ああ、これは作品にすごくハマる」って気づいた(笑)。

伊藤 私、けっこう偶然が多くて、実は完全に勘で作品を作ったりしてるの。それでスタッフに怒られたりするんだけどね! でも、今回は早い段階から私たちがカップルに見えないようにしたいと考えていました。男女の関係ではない2人が、ちょっとしたことですれ違ったり、距離が縮んだりする感じ。未來くんと初めて会ったときも、“男 / 女”というのとは違う印象を持ったし。

森山 姉弟かな? 面倒くさい姉を抱えてる感じ。

伊藤 ははは! 私がボケで、未來くんがツッコミだからね。

ダンサーとしての個性はそれぞれに違うが、劇中で語られるように世界や社会に対する違和感を強烈に抱いて生まれ育った2人を姉弟にたとえるのは、確かに納得できる。また、中性的な独特の雰囲気も、伊藤と森山を結びつける要素と言えるかもしれない。

演者と観客がいかに“共有”できるか(伊藤)

フランス公演初日の終演後、数組のフランスの観客に感想を聞いてみた。小学生ぐらいの子供でも、自分なりの批評眼で作品について語ることにびっくりさせられたのだが、ここでは別の観客の感想を紹介したい。伊藤作品をずっと追いかけているというその女性は、伊藤の“身体を通じた自分語り”の手法に興味を持つと同時に、そこで主題となる家族やパートナー、そして自己の問題について「同じ女性として共感する」と語ってくれた。そのうえで、クラウン的に設えられた今回の作品の中で、日本とフランスのアイデンティティが交錯し、ある種マージナルな存在である伊藤と森山の立ち位置や価値観がずらされていくことを高く評価していた。

伊藤郁女×森山未來「Is it worth to save us?」 @Patrick Berger

──今回のような自分語りは、森山さんのこれまでの作品ではほとんどなかったように思います。

森山 まったくないです。もちろん作品ごとに求められるオーダーには応えていますが、自分から進んで内面をさらけ出すことに関心がほとんどないんですよね。でも、郁女ちゃんはパーソナルな要素を使って作品を作ってきた人ですから、そういう提案があるだろうなとは予想してました。まるっきり抵抗を感じないとは言わないけれど、制作を進める中で言葉から身体のマテリアルが派生していったり、いろんな方向に自分も作品も跳躍することができた。それは郁女ちゃんのセンスがもたらしてくれたもので、得るものが多かった。面白かったです。

伊藤 初めて褒められた気がする(笑)。

森山 でも基本的な僕の理解として、自分語りにフィクションのレイヤーが介在していても構わないと思ってます。作品中で語られる、マイケル・ジャクソンのコンサートに行ってトイレで本人に出会ったというエピソードにしたって、なにしろ3歳の記憶だから曖昧だし、そのときトイレにいたのも僕と叔父とマイケルだけでほかに第三者はいないんだから、完全な保証もない。そうなると本当のことであっても形骸化すると言うか、フィクション化されますよね。だからこそ、郁女ちゃんがあのシーンで、しつこいぐらいに「本当に? 本当に見たの?」って聞いてくる意味がある。それは原案の、三島由紀夫の「美しい星」のコンセプト(編集注:自分たちは宇宙人であるという意識に目覚めた一家を軸に、SF的技法を取り入れて書かれた異色作)にも立ち戻ることでもあるから。

伊藤 そもそも舞台に乗った時点で、観客はみんな「どうせお芝居でしょ?」って思うからね。だから大事なのは、どこまでリアルに見せるかではなくて、フィクションとかリアルとかを気にせずに、どうやってそのエピソードを演者と観客が共有できるかってこと。

左から森山未來、伊藤郁女。@Patrick Berger

森山 そうそう。この作品だって、自分自身のエピソードを語ることで、「社会や世界に迎合できる? できない?」っていう間を行ったり来たりしてきた2人の感覚を乗せているわけだからね。自分と世界とのギャップが一番広かった幼少期に始まって、年齢を重ねるごとに次第に、世界とコンプロマイズド(歩み寄り)していく。それを2人で共有する、というのがラストの歌なわけで。

伊藤 本当か嘘かはわからないけれど共感はできる。そのことが大事。これはほかの作品を作るときも同じです。さっき未來くんが「ちょっと抵抗を感じた」と言ってたけれど、最初にパリで会って、「(過去の経験について)テキストを書いて」ってお願いしたでしょう? そうしたら、すごい量をばーっと書いて送ってきてくれた。そのテキストは、本番でそのまま使っているくらい深くてコアな内容だったんだけど、これを受け取ったときに「あ、一緒に作品が作れる。大丈夫だ」って思えた。それが、作品に流れる空気にもなっているんだと思います。

多様性・複数性に向かって作られた作品

短いインタビューを終えて、最後に筆者なりの作品への印象をまとめておこう。横浜公演とフランス公演を比較して、筆者の印象にもっとも強く残ったのが、劇場の持つ空気感の違いだ。会場であるメゾン・デ・ザール・ド・クレテイユは、パリ郊外の劇場で、大型のショッピングモールの中を歩いてたどり着いた場所にある。周囲には団地のような集合住宅が立ち並び、パリ市中央部のきらびやかな雰囲気とはまるで違ったリアルな生活の匂いが濃厚に漂っている。劇場にやって来るのも、知的・文化的な人びとだけでなく、周囲に住む子どもやその親たちだったりして、「Is it worth to save us?」の上演前も、ストリートダンス系の公演を観るためにさまざまな人種の子どもたちが集っていた。このような多様な社会を前提とすれば、本作が主題としている“わからなさ”や“共有の困難さ”、そしてそのこと自体を共有する意味は、より鮮明になるだろう。もちろん日本も単一民族の国ではなく、在日外国人を始め、多様さを抱えている。だが、劇場という限定的な空間では、「客席にいるのは誰もが同じ日本人だ」という無防備な思い込みを、私たちは持ちがちだ。

筆者にとってフランスで「Is it worth to save us?」を観た最大の収穫は、この作品が日本では陥りがちな単一性ではなく、フランスや海外の多様性・複数性に向かって作られた作品だと理解できたことだ。横浜公演では、霧の向こうにあってうまくピントを合わせることができなかった本作のテーマを、ようやくしっかりと把握できたように思えた。


2019年3月18日更新