「東京芸術祭」に向けて東京芸術劇場がプロデュースする、「芸劇オータムセレクション」。今年は海外からの招聘作品やダンスなど、4作品がラインナップされた。先陣を切り10月に披露されるのは、2013年の東京芸術劇場リニューアル記念公演「ルル」をはじめ、「オイディプス」「ガリバー旅行記」(2015年)を同劇場で上演してきたルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場の「スカーレット・プリンセス」。そしてフランスのテアトル・デュ・ソレイユ(太陽劇団)&オランダのインターナショナル・シアター・アムステルダム(ITA)の話題作が映像で堪能できる「WORLD BEST PLAY VIEWING ワールド・ベスト・プレイ・ビューイング」だ。
本特集では、「スカーレット・プリンセス」上演のきっかけを作ったまつもと市民芸術館総監督で演出家・俳優の串田和美と、ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場総支配人でシビウ国際演劇祭芸術監督コンスタンティン・キリアックの対談を実施。東京芸術劇場副館長時代に、本公演招聘実現に向けて奔走した高萩宏がホスト役を務めた。故・中村勘三郎と串田が願った「歌舞伎を世界へ」という思い、それを受け継いだキリアックと本作の演出家シルヴィウ・プルカレーテの公演実現までの道のりが語られた。また編集者、ライブラリアンなど多彩な顔を持つドラァグクイーンのマーガレットが、「スカーレット・プリンセス」の見どころについて寄稿している。
さらに上映企画「WORLD BEST PLAY VIEWING ワールド・ベスト・プレイ・ビューイング」からは、太陽劇団のアリアーヌ・ムヌーシュキンとITAのイヴォ・ヴァン・ホーヴェのコメントが到着。日本での上映に対する、彼らの思いを紹介する。
取材(串田和美×コンスタンティン・キリアック対談) / 高萩宏(世田谷パブリックシアター館長、前東京芸術劇場副館長)文・構成 / 熊井玲
串田和美×コンスタンティン・キリアック 対談
日本とルーマニアの長い親交から生まれた「スカーレット・プリンセス」
フレンドシップから始まった、歌舞伎への大きな夢
──串田さんは1994年に十八世中村勘三郎さんと「渋谷・コクーン歌舞伎」をスタートさせて以来、歌舞伎との関わりを深めてきました。「スカーレット・プリンセス」立ち上げの背景には、串田さんと、ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場総支配人で「シビウ国際演劇祭」芸術監督のコンスタンティン・キリアックさん、そして勘三郎さんとのつながりが大きく関係していますが、まずは作品立ち上げの経緯について教えてください。
串田和美 僕と勘三郎さんは、歌舞伎を世界に持っていこうと、まずはニューヨーク、次にベルリン、そして2018年に「シビウ国際演劇祭」での上演を実現させました。ヨーロッパでも、経済的にも恵まれている大きな都市では演劇活動が盛んに行われていますが、シビウは小都市。それにもかかわらず街をあげて国際的な演劇フェスをやろうとしていることに感動したんです。さらにシビウで大きなことをやろうとしたら、まずは上演する場所を作らないといけない。それは見方によっては悪条件だけど、僕と勘三郎さんにとっては良い条件って言うのかな、“そうじゃないとできないもの”を作る原点だと感じて、そのことにもすごく感動したんですよね。もちろんニューヨークの立派な劇場で上演するのも素敵だけど、使わなくなった古い大きな工場を、上演する芝居に合わせた劇場に改造してしまって、大勢の人たちが集まってそれを楽しむ、江戸時代の庶民が楽しんだ歌舞伎もきっとそういう感じだったんじゃないかと。さらに東洋の文化に慣れ親しんでいる大都市の人たちよりも、「珍しいものがやって来た!」と、すごく素朴な好奇心や期待を持ってルーマニアの人たちが集まって来てくれたことにも僕らは非常に感動した。そういった思いが出発点となりました。
それに僕も勘三郎さんも、歌舞伎は日本固有のものではなく、もっと世界的なものになれる可能性があると信じていたので、松本で歌舞伎のシンポジウムを開催したり、なんとか歌舞伎の本質を伝えられないかとずっと考えて来ました。僕たちがシェイクスピアやチェーホフを上演するように、海外の人たちが歌舞伎を上演してくれないだろうかと考えていたんです。それを実際にやってくれたのが、シルヴィウ・プルカレーテさんでした。
──キリアックさんは、日本で初めて歌舞伎を観たときにどんなことをお感じになられましたか?
コンスタンティン・キリアック 日本で初めて歌舞伎を観たのは2000年です。自分がヨーロッパで触れていた歌舞伎のイメージはアレンジされたものだったんだな、そのイメージはまったくのイミテーションだったんだなと、本物の歌舞伎に衝撃を受けました。その後、日本の若い観客を取り込もうという試みである「コクーン歌舞伎」を観せてもらい、2008年に「シビウ国際演劇祭」に「夏祭浪花鑑」を招聘することができました。そのときは4回公演だったのですが、すべてのチケットがすぐソールドアウトになり、いす席以外にも床に300人以上が座っていましたし、ただ1席のキャンセル待ちに対して100人以上が列を成したという伝説もあります(笑)。当時の在ルーマニア日本国大使も勘三郎さんをお招きしてプレスカンファレンスを開いたほどで、ルーマニアにとっては文化における日本の代表とか大臣とかがいらした、というような歓迎ぶりでした。
串田 あははは!
キリアック ですので、「スカーレット・プリンセス」は私と、私にとってブラザーである串田さんとのフレンドシップから派生したことに間違いありません。「シビウ国際演劇祭」は1993年に始まりましたが、串田さんは2007年にシビウが欧州文化首都に指定されたときに、シビウにいらしてくださいました。そのご縁から「夏祭浪花鑑」のシビウ公演が実現し、2015年には私が松本で「オイディプス」を演じることになり、ルーマニア人俳優が出演し串田さんが演出した安部公房「幽霊はここにいる」が誕生し……と交流が続き、串田さんはシビウの人たちによく知られた日本人となりました。「スカーレット・プリンセス」はそのようなたくさんのコラボレーションや話し合いを経て生まれた作品で、当初は「オリンピック・パラリンピック東京大会2020」に向けた文化プログラムの1つとして上演される予定でした。
──「シビウ国際演劇祭」のことについてもう少し教えてください。
キリアック 「シビウ国際演劇祭」は来年30周年を迎える国際演劇祭で、この30年の間に大きく成長を遂げました。今や世界の中でも屈指の、複合的なフェスティバルになっています。これまで75カ国からアーティストをお迎えし、至る所に設けられた会場でパフォーマンスをしていただきました。2020・2021年はコロナの影響で縮小を余儀なくされましたが、その間にデジタルプラットフォームを立ち上げ配信も行いました。実はルーマニアでの視聴者に次いで、日本からのアクセスが非常に多かったんです。また文化芸術に貢献された人を顕彰する「シビウ・ウォーク・オブ・フェイム」を串田さん、勘三郎さん、そして野田秀樹さんが受賞されています。2021年には笈田ヨシさんも受賞されました。このように、日本とシビウのつながりは非常に深いものがあります。
歌舞伎を“自分たちの演劇”として吸収する
──「スカーレット・プリンセス」は鶴屋南北の「桜姫東文章」を原作に、シルヴィウ・プルカレーテ脚本・演出により創られた作品です。「桜姫東文章」を題材にしたポイントは、どのような点だったのですか?
串田 プルカレーテさんがこの企画に興味を持ち、演出を担当しやってくれることが決まって、キリアックさんといくつかの候補を考えながら話し合う中で、鶴屋南北が良いんじゃないかという思いが湧きました。というのも、河竹黙阿弥などは言い回しや細部の面白さが魅力ですが、南北はもっと骨太の大筋がしっかりとあって、今回の企画に適しているんじゃないかと感じたんです。特に「桜姫東文章」は、我々日本人にとってもある意味難解というか、辻褄が合わないところがあったり、当時の江戸の人のセンスでしかわからないところがあったりする物語です。そんなところにプルカレーテさんも興味を持ってくれたんじゃないかと思います。
──例えばルーマニア人の俳優で、串田さんが演出するということは考えなかったのですか?
串田 それはなかったですね。僕としては、とにかく日本人ではない海外の人たちが歌舞伎の演出をするべきだと思っていました。
──「スカーレット・プリンセス」を語るうえで、“鶴屋南北の戯曲を外国人が演出したもの”として考えるのが良いのか、“日本の古典を外国人が演出したもの”と考えるのが良いのか迷うのですが、串田さんはどのように考えていらっしゃいますか?
串田 僕らは今やシェイクスピアなど海外の作品を上演することに慣れていて、現代の私たちから見たシェイクスピア劇といった形で、“今の芝居”として上演しますよね。でも日本でも何十年も前は、シェイクスピアを上演するときに西洋人になり切ろうとして演じることもありました。
その点でプルカレーテさんがすごいのは、歌舞伎の演劇的構造や客観性、そして同時代に生きる私たちにとっての楽しさを歌舞伎の中に見つけてくれたこと。例えば、「スカーレット・プリンセス」では男女を入れ替えて、女性俳優が男性の役を、男性俳優が女性の役を演じるんですけど、そういう関係性を引き出したのがすごいなと思います。実際、俳優さんたちも演じる楽しみをあらわにしていて、これこそが演劇の本質だなと感じました。「ああ、これならほかの国の人たちも、『歌舞伎をアジアの神秘的な演劇として扱わなくても良いんだ、自分たちの演劇として吸収して良いんだ』と思ってくれるのではないかと思いました。その点で、「スカーレット・プリンセス」は大きな第一歩になったと思います。
──「スカーレット・プリンセス」は企画が立ち上がってから実際の上演まで、2年以上がかかりました。どんな苦労がありましたか?
キリアック 2015年にラドゥ・スタンカ劇場のレパートリー作品である「オイディプス」を、東京と松本で上演しました。その松本公演で、串田さんがチーム全員を神社に連れて行ってくださり、神主さんの前に串田さんと私が座って「スカーレット・プリンセス」の成功を祈願するお祓いをしてもらいました。それが、自分にとっては信じられないくらいエモーショナルな体験で(笑)、感動を覚えた記憶があります。
そのあとルーマニアに戻って、まずは「スカーレット・プリンセス」をどこで上演するかをプルカレーテと舞台美術のドラゴッシュ・ブハジャールと話し合いました。それで新しい場所を作ろうということになり、「ファウスト」を上演している劇場と同じ敷地内に、新しく歌舞伎のステージを作ることになったんです。その劇場は、通称カブキホールと言われているんですが(正式名称はEugenio Barbaホール)、歌舞伎の桟敷席のような舞台と同じ高さの低いいす、花道など歌舞伎の舞台に重要な要素を盛り込んだ形でステージを作りました。もともとは2016年の完成予定でしたが、その建設に時間がかかり、結局2年がかりで作品を作ることになったんです。
また、プルカレーテからは早い段階で「『桜姫』はとても長くて難しいので、作品の内容をすべて盛り込むことはとてもできない。ただドラマツルギーの観点から重要な部分を抽出してお客様に観ていただくのに適した『桜姫』の脚本として作りたい」と言われていました。その時点で男女入れ替えのアイデアも出ていて、それは“歌舞伎では男性が女性役も演じるけれども、女性はなぜ男性役を演じられないのだろうか”という素朴な疑問から生まれたものでした。ただ基本的に私たちは、歌舞伎における舞踊や宗教的な要素、それから作品の背景にある自然といったものをすべて盛り込んだ形で、日本の遺産とも言える大切な芸術を引き継ぐという心意気で「スカーレット・プリンセス」の創作にあたってきました。
歌舞伎の本質を突く、プルカレーテの演出
──本作では、清玄と権助の2役をラドゥ・スタンカ劇場のスターであるオフェリア・ポピ、白菊丸と桜姫を若手のユスティニアン・トゥルクが演じています。
串田 ユスティニアン・トゥルクは、僕が最初に観たときはまだ演劇学校を出たばかりで、ベテランの域にあるオフェリアと彼が絡んでいるところはなんとも初々しい感じがして魅力的だなと思いました。彼は女方だからと言って女性的なふりをするわけではなく、“受け身だけれども強い人間”という、桜姫から得た印象を演じているなと感じましたね。マゾヒスティックな感じもあり不思議な色気がありました。
──作品の創作過程で、串田さんはプルカレーテさんとどんなお話をされましたか?
串田 プルカレーテさんには歌舞伎のいろいろなことが神秘的に見えたようで、剣の使い方や花道の使い方などさまざまなことを当初は気にされていました。でも僕はそんなことは全然気にしなくて良いと思っていて──もちろん彼もそれはわかっていて言っているのだと、あとでわかったんですが──例えば花道とは、客席の中を通って登場することだ、という本質さえわかっていれば、花道の形状が違っていたり、多少使い方が違っていたとしても何も気にすることはない、という話をした記憶があります。
──「スカーレット・プリンセス」は2018年にシビウで初演されました。
キリアック はい。そしてその後、2019年にはベルギー・ブリュッセルでも上演されました。ブリュッセル上演時には、欧州議会の議長や欧州委員会の政治家たちが観に来て賛辞を送ってくださったのですが、現・欧州委員会委員長のフォン・デア・ライエンさんはカーテンコールで舞台に上がり、「日本へこの作品を持っていく際には、『ルーマニアを代表した作品』としてではなく『ヨーロッパを代表した作品』と日本の皆さんにお伝えしてほしい」と言ってくださいました。
串田 上演を観て、役者たちが演劇を楽しんでいる姿に何より感動しましたね。なじみのない作品を難しそうに恐々と演じるのではなく、子供のように生き生きと演じている姿がとても印象的でした。
「スカーレット・プリンセス」を、できれば勘三郎さんに観てもらいたかった
──お二人は観客の皆さんに、「スカーレット・プリンセス」のどんなところを観てほしいと思っていますか?
串田 歌舞伎を原作にしつつも「もっと自由な表現がある」と感じることができるのではないかと思います。歌舞伎俳優の人たちも、例えば中村屋の人たちは大喜びするんじゃないかなあ!(笑) 僕としては、とにかく勘三郎さんに観てもらいたかったです。彼がもし今「スカーレット・プリンセス」を観たらきっと何か新しいエネルギーを感じて、それを自分のものにして演じてくれたと思いますね。ただ喜ぶだけじゃなく、真剣にライバル視したかもしれない(笑)。そして自分の歌舞伎をさらに膨らませたんじゃないかなと想像してしまいます。
キリアック プロデューサーとしても、「スカーレット・プリンセス」は「ファウスト」に並ぶ、ラドゥ・スタンカ劇場にとって素晴らしく大きなプロダクションです。「ファウスト」はヨーロッパの複数の国で上演されていますが、「スカーレット・プリンセス」も今回の日本公演をきっかけにさらに多くの場所へ届けていきたいと思います。現在シビウでは、週末にかけて「ファウスト」と「スカーレット・プリンセス」をセットで上演するようにしています。というのもシビウは観光都市でもあるので、この2作についてはシビウを訪れる世界中の人たちに向けた作品にしていきたいと思っているんです。「スカーレット・プリンセス」はシビウやルーマニアの人たちだけのものではなく、世界に向けた作品になっていくと思います。
──「スカーレット・プリンセス」の中で、キリアックさんが「これはルーマニアの文化に由来しているな」と思うところはありますか?
キリアック 本作は「桜姫」のストーリーをベースにしてはいますが、ドラマツルギーとしてはルーマニアのさまざまな民間伝承やポピュラーなお話を取り込んで創作されています。そういったストーリー部分でもルーマニアの文化を感じていただけるところがありますし、コスチュームでは、ルーマニアのシェパード(羊飼い)が冬に着るコートを使っているんです。そういった点でも、「スカーレット・プリンセス」にはルーマニアのさまざまな要素が作品に織り込まれていますし、尊敬の念を持って、ルーマニアと日本の伝統をつないでいく作品になったと思います。
串田 ぜひ多くの方に観ていただきたいですよね。特に若い人には。目を開いてさまざまな刺激をキャッチしてほしいと強く思います。
プロフィール
串田和美(クシダカズヨシ)
1942年生まれ。俳優・演出家・舞台美術家。1966年に劇団自由劇場を結成(のちにオンシアター自由劇場と改名)し、「上海バンスキング」「もっと泣いてよフラッパー」などの代表作を生み出す。1985年から1996年までBunkamura シアターコクーン初代芸術監督を務め、2003年にまつもと市民芸術館芸術監督に就任。2005年、渋谷・コクーン歌舞伎 第六弾「桜姫」、「コーカサスの白墨の輪」で芸術選奨文部科学大臣賞、2007年、渋谷・コクーン歌舞伎 第七弾「東海道四谷怪談 北番」で第14回読売演劇大賞最優秀演出家賞、2015年、第22回「シビウ国際演劇祭」でウォーク・オブ・フェイムを受賞。2008年に紫綬褒章、2013年に旭日小綬章を受章。
串田 和美 | 鈍牛倶楽部 -- DONGYU OFFICIAL SITE
コンスタンティン・キリアック
ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場総支配人、シビウ国際演劇祭の芸術監督を務め、後発の演劇祭ながら同演劇祭を欧州三大演劇祭に育て上げる。日本とも深いつながりを持ち、故・中村勘三郎の歌舞伎公演の成功に尽力した。2015年国際交流基金賞受賞。2019年、旭日中綬章を受賞。
「圧倒的なパワーと、過剰なほどのイマジネーションの放逸」
文 / マーガレット
四代目鶴屋南北の名作歌舞伎「桜姫東文章(以下、桜姫)」がルーマニア人演出家の手により、翻案舞台化されると聞いて驚いた。作品を観て、さらに驚いた!
もともと歌舞伎が持っているケレン味つまりアヴァンギャルド性や、諧謔味が、そして猥雑さが、200年もの時空を超えて再現されているのだ!
そもそも「スカーレット・プリンセス」の元となった「桜姫」は、道ならぬ恋の果てに心中しようとする修行僧清玄と稚児白菊の物語。1人死んでしまった白菊は長い時を経て、変性、転生し、吉田家の息女桜姫として生まれ変わる。現世で再び巡り合う二人。絡み合う因果と愛憎……。
もともとが女役を男(女形)が演じるというジェンダーベンダーな演劇である歌舞伎を、さらに白塗り男装の女優たちが大挙、登場して演じる! プルカレーテの舞台には、寺山修司の演劇や暗黒舞踏を思い出させる前衛的な衝撃がある。
今で言うジェンダーやセクシュアリティなど軽々とぶっちぎってしまう圧倒的なパワーと、過剰なほどのイマジネーションの放逸。もう、わけがわからなくなるぐらいに面白く、引き込まれてしまう。これは、まったく新しいクィアカブキの誕生だ。
プロフィール
マーガレット
日本のドラァグクィーンの1人として多方面で活動。ゲイカルチャー誌「ファビュラス」(現在は休刊)などの編集やLGBT関連図書のアーカイブ・プロジェクトなどにも携わっている。