第18回 AAF戯曲賞 篠田千明×鳴海康平×羊屋白玉×三浦基×やなぎみわ|5人の審査員が挑む「戯曲とは何か?」

「戯曲とは何か?」をテーマに掲げ、上演を前提とした戯曲を募集している愛知県芸術劇場のAAF戯曲賞。2019年1月6日には第18回AAF戯曲賞最終審査会が開かれ、大賞・特別賞が決定する。本特集では、審査員を務める篠田千明、鳴海康平、羊屋白玉、三浦基、やなぎみわの5名に戯曲を読む際の“演出家としての視点”や“100年後も残る戯曲の条件”について質問を投げかけた。また過去の公開審査会の様子をダイジェストで紹介。同劇場プロデューサー・山本麦子へのインタビューも掲載する。

取材・文 / 川口聡

AAF戯曲賞とは?

第18回AAF戯曲賞 一次審査会の様子。

第18回AAF戯曲賞
一次審査会の様子。

2000年にスタートした、愛知県芸術劇場が主催する戯曲賞。大賞受賞作は翌年度以降に同劇場にて上演される。15年にリニューアルされ、第15回は松原俊太郎の「みちゆき」、第16回は額田大志の「それからの街」、第17回はカゲヤマ気象台の「シティⅢ」が大賞を受賞した。

なお第18回は応募総数109作品の中から5作がノミネート。大賞・特別賞を決定する最終審査会は公開(無料)で開催され、その模様はインターネットで生中継される。また1月5・6日には関連企画として「戯曲を読むワーク」やトークイベントが行われる。

第18回AAF戯曲賞ノミネート作品

ここではノミネート作品の概要をステージナタリー目線でご紹介。愛知県芸術劇場の公式サイトでは5作品すべてを読むことができるので、公開審査会への参加や生中継視聴の足がかりにしてほしい。

山内晶「朽ちた蔓延る」
「架空の遺跡を声と身体を使って建築したい」という発想のもと、“建造物の諸行無常”“長い目で見た文化の隆盛”“残留思念”をテーマに執筆された作品。お墓の亡霊、日本人旅行者、歴史学者の妻、異教徒、物乞い、王様といった登場人物たちのモノローグで構成される。
我妻直弥「すごい機械」
本作は、「誰とわからず、どことわからなくても、物語るのは、今ここにいる人物であり、彼らがいるのは、今ここにある“劇場”。彼らは純粋な人物として、“劇場”は純粋な空間として存在する。そこで成されるのは、特定の人物や場所に帰属しない純粋な語りである」という定義のもと書かれた作品。「俺のくるま」「犯罪人」ほか全9章から成る。
南山高校女子部演劇部・渡辺鈴「by us」
ある女子高生が受けたストーカー被害を巡る物語。登場人物全員の性別が明かされない前半では、主人公の葵が自身の“とある偏見”を後悔し、彼女の理想の世界が繰り広げられ、後半では現実に起こった出来事が明らかにされる。
フルカワトシマサ「ヤクタタズ!」
2016年に起きた“相模原障害者施設殺傷事件”をモチーフとした2幕4場から成る作品。作者の中にある映像イメージをつなぎ合わせたストーリーが展開する。作中には合成音声やスマートフォン、QRコードを使った演出、観客に1幕終了後に開封するよう書かれた封筒が配布されるなど、細かな指示が記載されている。
佐々木治己「ワッツィ 人民は敵、」
とある“ゆるキャラショー”を舞台に、スタッフのワッツィがショーを乗っ取ってしまう物語。日本国からの独立を宣言したワッツィの独裁が始まると、ゆるキャラたちは反発、抵抗するが……。

AAF戯曲賞 5人の審査員へ“3つの問い”

第18回AAF戯曲賞で審査員を務める篠田千明、鳴海康平、羊屋白玉、三浦基、やなぎみわ。それぞれ作風も活動内容も大きく異なる演出家の5人に、AAF戯曲賞に関する“3つの問い”を投げかけた。

“上演を前提とした戯曲”の審査をするとき
演出家としてどのような視点を持たれていますか?

篠田千明
読んだときに、のれる戯曲は頭の中で巨大な情報量が勝手に回転して、選択肢をだぶらせながら読むのはそれはとても楽しいし、愛着をもちます。でもそれは、どう立ち上がるかを想像しながらやるというより、立ち上がり方の可能性を探っているように思います。探るというか、可能性の間をうろうろすることが、情報量を巨大化させてるというか。
でも、その探ってることを楽しむ状態と実際にやるために読み込むこととは違います、ということは審査員をやって初めて気づきました。
鳴海康平
上演が前提の戯曲審査ではありますが、私にとっては、どのように上演するのか、もしくは上演台本の場合はどんな上演だったのかは、審査する段階ではそれほど重要ではありません。それよりも、何が書かれているのか、どのように書かれているのか、何が好きで何が嫌いなのか、何に対抗して書かれているのかを汲むことを大切にしています。
羊屋白玉
審査員をつとめながら、絶対的な基準というものが、自分の中でも養われてゆくのかなと思いながら続けてきましたが、最近、疑ってます。応募数100作前後の戯曲を選考員は下読み(編集注:戯曲賞や文学賞の一次選考などで作品を選定する人)なしで全てを読んでいますから、茫漠とした相対的な視点にもなるし、ラベリングをしてしまうこともあります、これは悲劇、あれは喜劇というような。世の中が流れているように戯曲も審査員もその影響下にあるということを実感します。いま上演すべき戯曲の輝きは、ある年はその流れの澄んだところ、ある年は淀んだところ、といったように。
三浦基
まず誰に向かってその言葉が書かれているのかを気にしています。実際、役柄とは関係なく作者の思いやメッセージのようなものを含んでいる台詞が戯曲としては優れていると思うからです。
そのとき、その言葉は作者が観客、強いては世界に向かって発語していることになります。上演を前提にするということは、その作者の言葉がどれだけ世界に提示されているかということが問われます。
演出家はその言葉を実際の観客のいる空間に落とし込む作業だという視点で、審査しています。
やなぎみわ
なるべく自分が演出することは想定しないようにしました。
あまねく世界中のどこでも、そして長い年月どんな時代でも、この戯曲は演出されて舞台となるものか?
ということは考えました。
あと、戯曲から「小さな舞台空間」が垣間見えたとたんに息苦しくなるので、気がつけばそうでないものを探してしまいました。

これまでの審査会で印象深いエピソードや心に残っているほかの審査員の言葉を教えてください。

篠田千明
リニューアルして1回目の最終審査で、相談しなくて多数決ではなく議論できめることになって、それはすごくよかった。正直、公開最終審査になるまで、審査員て何をするのか、いまいちわかっていなかった。でも、その時の審査で、自分が考えていることが、話しながら整理されたり、やはり譲れないところがあったり、その過程が自分が戯曲をどうみているのか、ということをライブで言葉にする経験が楽しくて、そのまま続けてます。言ったあとで、やっぱあれちがったかも、って違和感があったら、次の年に考えたりまじ勉強になってます。
あと、私は最終審査で最初から最後までコーヒーをガブ飲みするのですが、実は普段はコーヒーは飲まない、飲めないので、終わったあとの夜は目がギンギンで頭が痛くて全然寝れません。
鳴海康平
羊屋さんが言っていた「戯曲はラブレター」という言葉は、戯曲と読むひととの関係をとてもよく表していると思います。私なりに少しだけ言い換えると、見知らぬひとから見知らぬひとへのラブレター。誰かが書いたテキストを読んで、それがどこに向けられていて、そこにどんな意思や意図が織り込まれているのかを、並んでいる文字列の中から見つけ出そうとする。それはやっぱりラブレターを読むときに似ていると思います。
羊屋白玉
2年前の最終選考会場で、候補作を声に出して読んでみるという篠田さんの発案は、選考を大きく左右しました。わたしはそこらへんの紙に台詞とかメモってそのまま俳優にわたしたりするのですが、三浦さんは、印刷され提出された戯曲のそのかたちから劇作家の態度を窺い知るというか、美しさがわかるというか、以来わたしも意識的になりました。鳴海さんが、すべて生きている劇作家の戯曲たちなんですね~。僕は古代とかもう亡くなった劇作家の作品を手がけることが殆どなので~と言った時、なるほどと思ったりクラクラしたりしました。やなぎさんは、おのおのの劇作家の将来を考えながらのコメントが多いのだな~優しいな~と、そういう印象です。
三浦基
毎回、最終審査ではどの作品を大賞とするかとても難しい審査が続きます。ほかの審査員と自分の感触をすりあわせたり主張したりと勉強になることが多くあります。
実際、作者の言葉やほかの審査員の演劇に対する気持ちを通して、自分自身の演劇に対する態度を審査している、されているような気持ちが湧きます。
印象に残っている具体的なエピソードはありませんが、審査会がいつも緊張するのは、そうした自分自身の問題として向かい合わなければならない特別な作業だと思っています。
やなぎみわ
審査会の時間の中でも、最初と最後で評価の昇降が変わるものがありました。
やはり読む回数に耐えられるかどうかは大きいでしょう。

100年後も残る戯曲”の条件、そして今後のAAF戯曲賞への期待をお聞かせください。

篠田千明
100年後に残ること、は偶然性によるのではないかって、おもうけど、AAFにのこったら、とりあえず30年は残りそう。残ることをおびえるタチなので少なめに見積もって。
AAFはやっぱり実際やる賞、てのが、戯曲と演出を合わせて考えてて、上演するという仮定、が仮定ではなくなるとこがおもしろい。
鳴海康平
確かに100年以上前に書かれ、それから現在まで脈々と上演されているテキストが存在します。それらがテキストにとって有るべき唯一の最大の目標だというわけではありませんし、投壜(とうびん)となってしまう場合もあるでしょうが、これから先も上演され続ける可能性をもつテキストに出会いたいと思います。
今後100年以上、数多の演出家たちが手を替え品を替え挑み、俳優たちが身体と思考を駆使し、テクニカルがアイデアと技術を取り入れ、世界や社会や人間が変わっても、それらを映す鏡に足るテキストを見つけたいと思いますし、そういう戯曲賞であってほしいと願っています。
羊屋白玉
まだ戯曲の歴史は勉強不足ですが、中世近世は、王様や権威者の前で上演されたものが、現代でも残っているという印象があります。現代ではどのような状況がふさわしいのか、過去の歴史を掘り下げて、将来を考えてみたいと思います。
三浦基
出版されることがまず実務的な条件です。さらに上演され続けることが重要だと思っています。このふたつの行為を今後もAAF戯曲賞が続けることが唯一の期待であり、責任なのだと思っています。
やなぎみわ
100年というのは微妙な年数なので、千年、二千年として、つまり半永久に残る物語とすると、それがこの時代に生まれるかどうかは全く分かりません。
何れにせよ戯曲は演出との化学反応なので、その実験も兼ねているAAF戯曲賞はとても貴重だと思います。