「横浜ダンスコレクション2021」梅田宏明×岡本優×小野晋司 座談会|出発点のダンコレで、過去作をブラッシュアップ!

ダンスの作り手と観客が新たな表現の可能性を発見できる国際フェスティバル「横浜ダンスコレクション」が今年も開催される。1996年のスタート以来、これまでに参加した振付家は600組以上。今回、「ダンスクロス」枠で過去作のブラッシュアップに挑む梅田宏明と岡本優も「ダンコレ」経験者だ。活動スタイルやキャリアは違えど、「『ダンコレ』が出発点」と語る2人に、ダンスとの出会い、「ダンコレ」の思い出、さらに今回のクリエーションについて語ってもらった。なおトークの進行を、赤レンガ倉庫1号館館長で「横浜ダンスコレクション」プロデューサーの小野晋司が務める。

文 / 熊井玲 撮影 / 川野結李歌

三者三様、模索しながらダンスと出会った

小野晋司 お二人は今日が初対面なので、まずは自己紹介を兼ねて、ダンスとの出会いについて伺えますか。

梅田宏明 僕はもともとアートに興味があり、日本大学芸術学部で写真を学んでいたんですが、写真をやりつつもほかの芸術スタイルも見ていたというか、自分の中で表現したいものはあったんですけど、それに適した表現、芸術形態を模索していたんですね。その中でダンスを見付けました。ただビジュアルアートにも興味があったのと、ダンスを始めるにあたってコンピューターをかなり使うことになったので、ビジュアルとテクノロジーに寄った作風になりましたね。現在はダンスの文脈で活動しているのですが、デジタル音楽とかデジタルアートのフェスティバルに呼ばれることが多くて、よくパーティのようなフェスティバルで踊っています。

小野 梅田さんは最初、いろいろな種類のダンスを習ったそうですね。でも1年くらいでスパッとやめて、自分なりの表現を見つけようとされた。

梅田宏明

梅田 はい。ダンスのことがよくわからなかったので、とりあえず1年いろいろやってみたんですが、結果的に自分が目指すダンスが外側にはないと気付いて、自分の作品に必要なダンスを自分で作ろうと思って今に至ります。

小野 対する岡本さんは、幼少期から踊りを始めたそうですね?

岡本優 そうなんです。2歳頃に「身体を動かしたい」と言い始めたようで、まずは体操教室に通ったんですけど、同じことを繰り返すのがつまらなかったらしく、次にクラシックバレエを始めてずーっと続けていたのですが、今度はバレエが二次元的な感じがするというか、前に向かって踊ることに違和感を持ち始めて、ジャズダンスやヒップホップのような、いわゆるショー的なダンスに進みました。でもそこでも表現が止まってしまうというか、これ以上先に行けない感じがしていたときに、桜美林大学で木佐貫邦子先生とコンテンポラリーダンスに出会って、これは面白いなと。そうやってバレエから徐々に離れていったんですけど、続けているとまた基礎に戻るところがあって、今は“2周目”に入っているような感じです。

小野 ちなみに僕は今はダンスの専門という感じになっていますが、もともとこの仕事を始めたきっかけは、大きな意味ではミュージカルなんです。

梅田 小野さんご自身は踊っていたんですか?

小野 いや、踊ってはいないです。大学のときにプロデュース研究会というサークルの友人たちと活動する機会に恵まれてプロデュースに興味を持ち、在学中にその友人と起業もしたんですけど、26・7歳の頃に別のところに目を向けたくなり、ニューヨークに行って、1年くらい集中的にミュージカルを観たんですね。当時のブロードウェイは「オペラ座の怪人」とか「サラフィナ」とかすごく面白い作品をやっていて、何度も観に行きました。その後、劇場で仕事をするようになって……だから最初はダンスだけというわけではなかったんだけど、ダンスの余白が好きというかダンスの創造性に惹かれるようになって、今につながっている感じです。

「ダンコレ」がキャリアの出発点だった(梅田)

小野 岡本さんの出演歴を見ると、笠井叡さんとの出会いも大きな影響を与えているのではないかなと思います。

岡本 そうですね。大学を卒業してすぐ、2012年に笠井先生の「虚舟」という作品に出させていただいたんですが、笠井先生には、木佐貫先生とは違う身体の表現をいきなり叩きつけられた感じがあって、「こんなんじゃ一生やっていくことは無理だ」と思い知ったというか、身体的にも精神的にも、自分の弱さを痛感しました。それで身体を鍛えたり、深く思考したりするようになって、そこから急に本気になった感じがします。あのときのことは今でも鮮明によみがえってきますね。

小野 岡本さんにとっての木佐貫さんや笠井さんのように、梅田さんが影響を受けたダンスアーティストはいますか?

梅田 直接ダンスで影響を受けた人はいないですね。ただ、池田亮司さんのように、僕がそれまで観たり聴いたりしてきた憧れのアーティストにフェスで出会って刺激をもらったり、学んだりしたことは多かったです。ダンスに限って言えば、僕は最初からほかの人の作品では踊らないと考えてて……それはダンサーとして生きるというより、作家として生きると決めていたので、誰かの元で踊ったことがこれまで一度もないんです。

岡本 すごい……。

小野 出演のオファーが来たことはなかったんですか?

梅田 実は一度、海外の著名な方にオファーをいただいたことはあるんですが、それも理由を話してお断りしました。僕もちょっと岡本さんに伺いたいんですけど、岡本さんはどんなダンスやアートを観て、この世界に入ろうと思ったんですか?

岡本優

岡本 私はBATIKの黒田育世さんなど、まさに梅田さんの世代の方の作品をよく観ていました。実は梅田さんの作品がめちゃくちゃ好きで……。

梅田 すみません、言わせちゃって(笑)。

岡本 告白するみたいで、急にドキドキしてきました……(笑)。大学に公演のチラシの束がよく置いてあったんですけど、その中で目に留まるチラシに梅田さんのものが多くて。

梅田 ありがとうございます(笑)。確かに僕らの世代はダンスが活発でしたね。伊藤キムさんを観て始めたのが、黒田さんや白井剛さんなど僕らの世代だったと思うんです。でもその後、(日本のダンス界が)どういう状況になっていたのか、よく知らなくて。

小野 梅田さんは2000年代以降、海外での活動が多かったですからね。そのきっかけは、2002年の「横浜ダンスコレクション」でディレクターのアニタ・マチューさんに見出されたことだったかと思いますが、そもそも梅田さんは、なぜ「ダンコレ」に応募しようと思われたんですか?

梅田 僕がダンスを始めた2000年頃は、それほど日本ではコンテンポラリーダンスが盛んではない時期だったんですよね。「ダンコレ」自体は、確か誰かに勧められて応募したんですけど、すごい方ばかり参加していたので、ちょっと敷居が高い感じがして……。応募してみたら本選に出させていただけることになって、うれしかったです(笑)。でも実は僕、「ダンコレ」では賞がもらえなかったんですよ。ただアニタに「このままあなたを連れていくから」と言われてフランスに行くことになり、2月に「ダンコレ」があって、5月にはフランスで公演していました。フランスの公演には世界中の人が来ていたので、そこから一気に活動が広がりましたね。あとでよくわかったんですけど、フランスはコンテンポラリーダンスのハブというか、ネットワークの中心なので、プロフェッショナルなアーティストがたくさん集まって来る。そこで自分のプレゼンスが1回発揮できると、かなり広がるんだなと実感しました。そういう意味で、「ダンコレ」は僕にとって出発点というか、ここがなかったら僕のキャリアはなかったので、なかなか思いが強いです。

小野 アニタさんは今も現役で世界中のアーティストの作品を観て回っているディレクターですが、当時、梅田さんについて「独創的で将来性のある若いアーティストの誕生」というコメントを残していますね。アニタさんにとっても梅田さんとの出会いはすごく衝撃だったのではないかと思います。

「ダンコレ」で受賞、ようやくスタートラインに立てた(岡本)

小野 一方、岡本さんは2019年の「横浜ダンスコレクション」で若手振付家のための在日フランス大使館賞とシビウ国際演劇祭賞を受賞されました。本来だったら、昨年の5月か6月頃にパリで3カ月レジデンスする予定だったのですが、コロナの影響でまだ実現していません。岡本さんは、何度か「ダンコレ」には応募してくれていたんですよね?

岡本 はい。2011年にTABATHAを旗揚げして、実は大学を卒業してすぐ、2012年に「トヨタ コレオグラフィーアワード」でファイナリストに選ばれたんです。でもまだまだ創作力が足りない中で参加してしまったところがあり、失敗したという思いが強くて……。以降、そういう(コンペのような)場に行くことが怖くなってしまって、自信がないまま応募するということを繰り返していたんですが、ようやく自分としても「これなら」と自信を持って臨めたのが2019年の「ダンコレ」でした。その作品で賞をいただけたので、ようやくスタートラインに立てた、という感じがしています。

小野晋司

小野 受賞作の「マニュアル」は2015年頃に初演された作品なんですよね?

岡本 ええ。初演時から「『マニュアル』を育てて、いつか『マニュアル』で『ダンコレ』に臨みたい」という思いがあったので、上演を重ねながら仲間を増やし、作品への確信を強めていきました。で、ようやく2019年に応募できたんです。だから本選前の打ち合わせにあまりに大所帯で参加して、驚かれたんですけど(笑)。でもそのくらいの気合いで臨みました!

梅田小野 あははは!

小野 確かに岡本さんは2015年頃から、いろいろな人を巻き込んでいく力が強くなり、巻き込み方が変わってきたんじゃないかなと思います。あと1つ聞きたいんですけど、なんでTABATHAはいつもメガネをかけて踊るんですか?

岡本 ですよね(笑)。そもそも私の創作の根源に、コンプレックスということがあって。私、目がものすごく悪くて、舞台でしているような大きなメガネを、幼稚園くらいからずっとしていたんですね。メガネってないと困るんだけど、あのフレームがあるだけで行動の制限があってすごく邪魔なんです。でもなければ見えないわけで、役には立っているけれど邪魔だな、嫌だなと思うようなものが、コンプレックスとイコールじゃないかと思って。それで、メガネをつけたまま踊れば何かが浄化できるんじゃないかと思い、最初の公演でメガネをつけて踊ったんですけど、次の作品でも「メガネは必要だ」ということになり、今ではTABATHAにとってメガネは必需品になりました。

世界で驚かれた、“1人と1台”というモビリティ

小野 TABATHAは4人組のカンパニーですが、梅田さんはずっとソロで活動されていますね。しかも梅田さんはダンスだけじゃなくて照明も音響も1人でやられている。ここ数年、作品のモビリティを高めるという話題に触れる機会が多くなりましたが、2000年に活動を始められた頃から、梅田さんはそのあたりを考えていたんでしょうか?

梅田 考えていましたね。作品を作るのってお金がかかりますから、経済的な事情もあります。よく大学生にも言うんですけど、作品を作る以上、経済的にも実現できなかったら意味がないと思うんです。若いときって夢を語りつつも、お金がないとか時間がないから実現できないとなりがちですよね。でも実現するところまでがアーティストの役割、責任、能力だと思っていて。だから僕は、とりあえず人件費を削ることから始めました。結局リハーサルで時間がかかるのって、テクニカルスタッフとのコミュニケーションで、そういう時間を全部排除したら今のスタイルになった。おかげでかなりモビリティが良くなり、世界中に行けるようになりました。

小野 すべてを1人でやるスタイルをずっと貫かれていますが、世界各地で上演して、劇場の人にびっくりされませんか?

左から梅田宏明、岡本優。

梅田 されますね(笑)。今でもすごくされますが、最初はもっと驚かれました。

岡本 パソコン1台で照明や音響もやってしまうんですか?

梅田 そうです。舞台袖にパソコンを置いて、自分でスタートボタンを押してそのまま舞台に出ていくんです。活動を始めたとき、僕はいずれこういう時代が来るって思ったんですけど、その後あまり現れなかったですね(笑)。技術やテクノロジーは既にあると思うんですけど、結局ダンスに対する考えが変わらない限り、やり方は変わらないんでしょうね。でもコスパという意味ではかなり良いと思いますよ!(笑)

小野 (笑)。この20年、梅田さんはフランスを中心に世界各国を回り、ダンスコミュニティだけじゃなく美術界、さらにデジタル分野の展覧会などでも活動されていますが、海外で活動したことでよかったところはありますか?

梅田 モビリティが良いからできちゃうんですけど、1週間で4カ国回るようなこともありました(笑)。でもさすがにそれは疲れてしまって。

小野 多数の場所に移動して過密な公演スケジュールの中で、「何のためにやってるのかな」って疲労感に襲われたりすることはなかったんですか?

梅田 その点は自分の中ではっきりしていたので、なかったです。「より多くの人に感動してもらいたい」って思いなんですけど、それは現在も続いています。あと、よく海外で「なんであなたはダンスをやっているのか」って聞かれるんですけど、僕は「信じるものがほしいから作品を作るようになった」と答えていて。

小野岡本 カッコいい!

梅田 情報があふれ、街や流行がどんどん変わっていく中で、例えば今カッコいいとされているファッションが、翌年にはダサくなるわけですよね。じゃあ何が信じられるのかっていうと、身体感覚だなと思って。だから身体をベースに作品を作り、お客さんと共有したいと思ったんです。そういう感覚は、今のほうがより、求められているかもかもしれませんね。

小野 2010年代に入ると、少し活動の方向性が変わってきましたよね?

梅田 そうですね、世界の回り方が少し変わってきたと言うか。2013年にエージェントが変わったこともあり、例えば海外のカンパニーに振り付けたり、日本での活動が増えたり、仕事の内容が変わってきたと思います。